高山氏は秩父氏の一族で、秩父重綱の三男である秩父三郎が高山邑に居を構え、
高山氏を姓とし、高山三郎重遠を名乗ったところから始まっているとされます。
その、高山三郎が居を構えたのが、現在の高山不動尊境内だということで、
行ってみました。調査日は2018年07月22日です。
高山不動尊は、これまで何度も行ったことがありました。
最初に行ったのは1986年頃で、写真も何枚も撮影いたしました。
芦ヶ久保の辺りから登ったのをよく覚えているのですが、何で行ったのかを覚えていません。
ただ、車1台通るのがやっとの細いつづら折りの急な山道に辟易としたの覚えています。
とすると、車で行ったのかな・・・。
当時は、峠を通るライダーさんが多く、茶店が結構あったのですが、今は、関八州見晴台の
周囲の方が流行っていて、高山不動周辺は全滅です。
私は今回は、越生から登ったのですが、越生ルートは道が悪いのが難点です。
秩父方面行のルートを道なりに走ると、下のような看板が現れました。

高山不動は山腹にあって、背後の山腹には下のような広場があります。


以前は自動販売機もあったのですが・・・。
こんな山上でも少しも涼しくありません。
今年のような高温状態続きの中では、給水ポイントが一つ潰れただけで命にかかわります。
しかし、急傾斜のこんな山腹に館作っちゃ、移動も大変だったでしょうね。

この石灯籠脇が裏口です。下に高山不動のお堂がありますが、わたしは、下の駐車場に車を移動します。

近年は、駐車場が新設され、暑い夏でも苦しまずにお堂に行けます。

お堂は修築中でした。









高山不動はかつて随分流行ったそうですが、私が初めて訪ねた1986年頃は、見る影もないほど寂れ、
お堂は開けっ放しで、ただだだ広く、がらんとして、野宿ハイカーが雨をしのぐような場所でした。
はっきり言えば化け物寺みたいな感じでしたよ。
正直、あのころこんなものはあったかな・・・。記憶にない・・・。

さて、館跡の痕跡ですが、すこし境内を歩いてみましょう。
本堂のある平場は広いですが、平場の館跡に比べれば少々物足りません。
本堂正面には、急傾斜の石段があって、下に平場があり、こちらが広くなっています。
そこで、石段と斜面を詳しく見ましょう。

上下の平場をつなぐ斜面はいかにも急で、途中には石垣があります。
石垣は丸い石の多いものと、角ばった石の多いものがあります。こうした違いは、
館の建造と同時期に積まれたものなのか、後世に積まれたものかを類推する上で、
重要なポイントになるかもしれません。




下には大きな平場があります。


館跡としては、本堂のある平場と下の平場を対にして考えるのが適当だと思われます。
じつは、ここにはほかにも畑や民家として使われている数か所の平場があるのがわかるのですが、
これは、修験道の寺院だった高山不動尊の坊の跡だと思われます。



急傾斜面の下部は、細かく段がつけられています。
下の平場の東側には、小さな学校がありました。




この分校の入り口に、木橋がありその下には大きな堀切がありました。



これはおそらく、高山氏館にかかわる遺構なのではないでしょうか。
というのも、この堀切はここが最も上の部分であり、沢ではないのです。
あるいは、この地域特有の斜面の途中を水源として、水をためて使う水場の跡の可能性もあります。

こんなタイプの水場ですね。
この細道を歩くと、つづら折りの山道にぶつかります。





(つづく)
高山氏を姓とし、高山三郎重遠を名乗ったところから始まっているとされます。
その、高山三郎が居を構えたのが、現在の高山不動尊境内だということで、
行ってみました。調査日は2018年07月22日です。
高山不動尊は、これまで何度も行ったことがありました。
最初に行ったのは1986年頃で、写真も何枚も撮影いたしました。
芦ヶ久保の辺りから登ったのをよく覚えているのですが、何で行ったのかを覚えていません。
ただ、車1台通るのがやっとの細いつづら折りの急な山道に辟易としたの覚えています。
とすると、車で行ったのかな・・・。
当時は、峠を通るライダーさんが多く、茶店が結構あったのですが、今は、関八州見晴台の
周囲の方が流行っていて、高山不動周辺は全滅です。
私は今回は、越生から登ったのですが、越生ルートは道が悪いのが難点です。
秩父方面行のルートを道なりに走ると、下のような看板が現れました。

高山不動は山腹にあって、背後の山腹には下のような広場があります。


以前は自動販売機もあったのですが・・・。
こんな山上でも少しも涼しくありません。
今年のような高温状態続きの中では、給水ポイントが一つ潰れただけで命にかかわります。
しかし、急傾斜のこんな山腹に館作っちゃ、移動も大変だったでしょうね。

この石灯籠脇が裏口です。下に高山不動のお堂がありますが、わたしは、下の駐車場に車を移動します。

近年は、駐車場が新設され、暑い夏でも苦しまずにお堂に行けます。

お堂は修築中でした。









高山不動はかつて随分流行ったそうですが、私が初めて訪ねた1986年頃は、見る影もないほど寂れ、
お堂は開けっ放しで、ただだだ広く、がらんとして、野宿ハイカーが雨をしのぐような場所でした。
はっきり言えば化け物寺みたいな感じでしたよ。
正直、あのころこんなものはあったかな・・・。記憶にない・・・。

さて、館跡の痕跡ですが、すこし境内を歩いてみましょう。
本堂のある平場は広いですが、平場の館跡に比べれば少々物足りません。
本堂正面には、急傾斜の石段があって、下に平場があり、こちらが広くなっています。
そこで、石段と斜面を詳しく見ましょう。

上下の平場をつなぐ斜面はいかにも急で、途中には石垣があります。
石垣は丸い石の多いものと、角ばった石の多いものがあります。こうした違いは、
館の建造と同時期に積まれたものなのか、後世に積まれたものかを類推する上で、
重要なポイントになるかもしれません。




下には大きな平場があります。


館跡としては、本堂のある平場と下の平場を対にして考えるのが適当だと思われます。
じつは、ここにはほかにも畑や民家として使われている数か所の平場があるのがわかるのですが、
これは、修験道の寺院だった高山不動尊の坊の跡だと思われます。



急傾斜面の下部は、細かく段がつけられています。
下の平場の東側には、小さな学校がありました。




この分校の入り口に、木橋がありその下には大きな堀切がありました。



これはおそらく、高山氏館にかかわる遺構なのではないでしょうか。
というのも、この堀切はここが最も上の部分であり、沢ではないのです。
あるいは、この地域特有の斜面の途中を水源として、水をためて使う水場の跡の可能性もあります。

こんなタイプの水場ですね。
この細道を歩くと、つづら折りの山道にぶつかります。





(つづく)