暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

高山氏館跡(飯能市)①

2018-08-31 17:49:29 | 城館跡探訪
高山氏は秩父氏の一族で、秩父重綱の三男である秩父三郎が高山邑に居を構え、

高山氏を姓とし、高山三郎重遠を名乗ったところから始まっているとされます。

その、高山三郎が居を構えたのが、現在の高山不動尊境内だということで、

行ってみました。調査日は2018年07月22日です。


高山不動尊は、これまで何度も行ったことがありました。

最初に行ったのは1986年頃で、写真も何枚も撮影いたしました。

芦ヶ久保の辺りから登ったのをよく覚えているのですが、何で行ったのかを覚えていません。

ただ、車1台通るのがやっとの細いつづら折りの急な山道に辟易としたの覚えています。

とすると、車で行ったのかな・・・。

当時は、峠を通るライダーさんが多く、茶店が結構あったのですが、今は、関八州見晴台の

周囲の方が流行っていて、高山不動周辺は全滅です。

私は今回は、越生から登ったのですが、越生ルートは道が悪いのが難点です。

秩父方面行のルートを道なりに走ると、下のような看板が現れました。



高山不動は山腹にあって、背後の山腹には下のような広場があります。





以前は自動販売機もあったのですが・・・。

こんな山上でも少しも涼しくありません。

今年のような高温状態続きの中では、給水ポイントが一つ潰れただけで命にかかわります。

しかし、急傾斜のこんな山腹に館作っちゃ、移動も大変だったでしょうね。





この石灯籠脇が裏口です。下に高山不動のお堂がありますが、わたしは、下の駐車場に車を移動します。




近年は、駐車場が新設され、暑い夏でも苦しまずにお堂に行けます。



お堂は修築中でした。






















高山不動はかつて随分流行ったそうですが、私が初めて訪ねた1986年頃は、見る影もないほど寂れ、

お堂は開けっ放しで、ただだだ広く、がらんとして、野宿ハイカーが雨をしのぐような場所でした。

はっきり言えば化け物寺みたいな感じでしたよ。

正直、あのころこんなものはあったかな・・・。記憶にない・・・。





さて、館跡の痕跡ですが、すこし境内を歩いてみましょう。

本堂のある平場は広いですが、平場の館跡に比べれば少々物足りません。

本堂正面には、急傾斜の石段があって、下に平場があり、こちらが広くなっています。

そこで、石段と斜面を詳しく見ましょう。



上下の平場をつなぐ斜面はいかにも急で、途中には石垣があります。

石垣は丸い石の多いものと、角ばった石の多いものがあります。こうした違いは、

館の建造と同時期に積まれたものなのか、後世に積まれたものかを類推する上で、

重要なポイントになるかもしれません。










下には大きな平場があります。





館跡としては、本堂のある平場と下の平場を対にして考えるのが適当だと思われます。

じつは、ここにはほかにも畑や民家として使われている数か所の平場があるのがわかるのですが、

これは、修験道の寺院だった高山不動尊の坊の跡だと思われます。







急傾斜面の下部は、細かく段がつけられています。


下の平場の東側には、小さな学校がありました。









この分校の入り口に、木橋がありその下には大きな堀切がありました。







これはおそらく、高山氏館にかかわる遺構なのではないでしょうか。

というのも、この堀切はここが最も上の部分であり、沢ではないのです。

あるいは、この地域特有の斜面の途中を水源として、水をためて使う水場の跡の可能性もあります。



こんなタイプの水場ですね。



この細道を歩くと、つづら折りの山道にぶつかります。













(つづく)

国済寺館と庁鼻和城 1984年(深谷市)

2018-08-30 18:21:12 | 城館跡探訪
室町期の深谷は、長らく深谷上杉氏の本拠地でした。

旧中山道沿い国済寺という大きなお寺がありますが、上杉憲英の開基で、

同地は上杉憲英の館跡です。

この国済寺館を中核として、さらに周囲を取り囲むように防衛施設が構築され、

これを庁鼻和城(こばなわじょう)と呼んでいます。


埼玉県北は、経済開発が非常に強く推進されたため、工業団地開発・住宅開発が進み

地方の重要城跡はズタズタにされてしまい、その後、遺跡の重要性に気付いた自治体が

幻想の城郭復元に励むということが、構造化されています。


さて、写真は1984年当時のものですが、国済寺は現在も名刹として、残されています。








国済寺の背後には、土塁が残されており、きれいな畑が非常に印象的だったのですが、

現在は丸ごとスーパーマーケットになっており、その裏に回って初めて土塁が確認できます。




庁鼻和城の遺構については、工業団地のはずれに櫓台の跡があり、説明の柱が残されておりましたが、

現在は、ホールの敷地に取り込まれてしまい、竹林になっています。

櫓台跡は破壊されてしまったのか、よくわかりませんが、残っているならば解説標柱くらいは

立てて欲しいものです。


聖天院館(旧妻沼町)⑤

2018-08-29 21:23:40 | 城館跡探訪
これまでの聖天院館の調査結果を概要図にしてみると、

下のようになります(下手なのは勘弁してください)。

図の上が北、下が南です。



まず、本堂の周囲を方形の土塁が囲んでいます。

本堂裏(西側)の土塁が一番良好に残っていて、堀には現在でもわずかながら水が流れています。

北側の土塁は、一部潰廃されていますが、ある程度の高さを持っています。

一方、南側の土塁は、かなり低くなって残っています。


茶色の部分は、自然地形を利用したのか、完全に人口の構築物なのか不明ですが、

連続性を持っており、城郭の一部だったのではないかと思われます。


聖天院館には、源頼朝にまつわる伝説が残っています。

芝川に架かる布橋(ぬのはし)がそれで、源頼朝が橋のない芝川を渡るために、

当地に船を並べて板を渡した仮設の橋を設けて、そのうえに布を敷いたことにちなんで

名づけられたというものです。















聖天院館の脇を源頼朝が通ったということに重要な意味のある伝説だと思います。

聖天院館(旧妻沼町)④

2018-08-28 21:57:37 | 城館跡探訪
聖天様の大門に当たる貴惣門の右に駐車場入り口があり、すこし中に入ると

倉庫が並んでいます。

この倉庫が建っている場所は、盛り上がった土手状のもので、そのまま一直線に西に向かっています。

この土手は、私が子供のころからあったものです。立ち並ぶ古い倉庫がその事実を物語っています。







この土手が、聖天院館(旧妻沼町)②で紹介した、土壇状の丘にそのまま連結していたものと見られます。








境内内を通過する市道に出て、芝川方面いくと、切通しになっています。



上の写真は芝川方面から、市道を撮影したものです。左が先ほどの土手、右側が境内側です。

下の写真は、土手状の地形を見たものです。



この土手状の地形は北側に高くなっています。

北側にはこの土手にのぼる道がついています。





北側は直下に住宅があるため、北側斜面の全容を把握することは難しいです。


聖天院館(旧妻沼町)③

2018-08-27 21:51:54 | 城館跡探訪
さて、聖天院館裏山に入るには、赤い擬宝珠のある太鼓橋を渡るか、




軍荼利明王の滝の手前にある、橋を渡るかのどちらかですが、わたしは、後者から入りました。



橋の下には堀があります。



かつては大分深かった堀も、80年代初頭から急激に浅くなってしまいました。

私が子供のころはとても深く、何か得体の知れないものがいるのではないかと恐れたほどでした。

恐らく子供が落ちたら危険だという配慮があったものと思われます。

いまでは、放された鯉がよく見えます。

この堀は裏を流れる芝川とつながっていたものが、咳によって仕切られ分離されたもののようです。

どちらが本流だったのかわかりませんが、あるいは、裏山自体が大きな中州のようなものだったのかもしれません。





堀を渡ると、弁財天を祀った朱塗りのお堂が見えます。

ですが、目的はここではありません。このお堂の裏に、やや足場の悪い遊歩道があります。










こんな感じの道ですが、ここはかなりの断崖になっています。





芝川を利用して天然の水堀とし、この裏山を防衛機構に取り込むことの意義は

明らかだと思われます。

聖天院は、斎藤別当実盛によって開かれたため、平安時代末の館のイメージが強いのですが、

斎藤氏はその後もこの地に勢力をもち続け、支配地を拡大しております。

聖天院館が拡張されたとしても何の不思議もないわけです。



絶壁沿いを歩くと、反対側の堀沿いにでます。ここを下ると堀に出ます。



平和の塔の下を回り込むと、赤い太鼓橋のたもとに出ます。






という訳で、次回は、貴惣門から参道沿いの山について、調べてみましょう。