暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

御嶽城(神川町)②

2019-03-31 17:51:00 | 城館跡探訪
さて、御嶽城本丸までたどりつきました。






さて、御嶽城はかなり起伏に富んでいます。

本郭から、帯郭に降りようとしますが、かなりダイナミックな悪路です。





露出した岩盤です。こういった天然の要害が随所に見られます。



2の郭に向って進んでいるはずですが、一人の労力では山城調査も簡単ではないです。

これは本郭と二の郭の間にある堀切です。この堀切がかなり強烈に深くて危ないと思いました。

ここで、私は思いっきり滑ってしまいました。

もう、ほとんど、ドリフのバナナの皮状態で、すってーん!!

おかげで、堀切の底に転落しました。

メガネがどこかに吹っ飛んでなくなってしまいました。

私は、用途に応じたメガネのスペアを3本くらい持っているので、とりあえずそれを掛けました。





これは堀切の底ですね。

写真が今一なのは、技術面もありますが、疲労と気が動転していることも関係している気がします。







山城の場合、ルートがはっきりしているとはいいがたい部分もあります。

楽な方に回ろうとするといつの間にかとんでもない袋小路に入ってしまうこともあるので気をつけましょう。

二の郭です。










二の郭を通過して、さらにその下の堀切に向おうと思います。











細長く伸びる二の郭は案外大きいです。

山の管理のためなのか、間伐材で道のようなものがつくられています。





二の丸下に降りると、岸壁が現れます。

この落差は堀切を兼ねているのかなという感じです。







この辺りに来ると、足場の悪い中で、よれよれになっている自分に気が付きます。

また、自分は図面通りに歩いているのかという気持ちにもなり始め、結構焦ってきました。











二の郭をありて舌を見れば、上の写真のような急傾斜です。

どうなってんだ・・・・。

ここまで来たらには、せめてこの先を確認したい。

そこに目的としていた石積みが現れました。











私は、二の丸から東に延びる尾根上の遺構にいたようです。

少しホッとしました。


御嶽城(神川町)①

2019-03-30 17:02:33 | 城館跡探訪
本日から、数回に分けて御嶽城(神川町)について書きたいと思います。

調査日は2019.02.12です。

御嶽城は武蔵三之宮金讃神社の背後にある御嶽山の山上に展開する山城です。

金讃神社は二之宮であるという説もあります。

まあ、それはともかく、御嶽山は修験の行場でもあり、岩塊がむき出しの山です。

御嶽城は峻険な山であるにもかかわらず、縄張りはかなり広範囲に展開しており、

今回は、100枚以上の写真を撮影しました。

峻険な岩山であり、足場はかなり悪く危険です。


ここには一度行きたかった。というのも、この御嶽城は妻沼の長井斎藤氏の手になるものと言われており、

私の先祖にも縁がある城だからです。

北条氏の勢力伸長に伴って、勢力を失った長井斎藤氏は、妻沼に残された領地に戻って、長井姓も斎藤姓も名乗らず

歓喜院の別当職を継いでいます。


ともあれ、まず金讃神社に行かなければなりません。



途中、国指定重要文化財の多宝塔があります。
















金讃神社の拝殿です。

金讃神社は御嶽山の一峰である御室ヶ嶽をご神体としています。



さて、御嶽城は拝殿の後ろにある、鏡岩に向って上ることから始まります。

まあ、現在では案内も充実していますが。





この冬は、山城シリーズだ!と勢い込んではみたものの、体調を大きく崩してしまい、

目標の半分も回れませんでした。

腰越城や御嶽城クラスの山城になると、丁寧に見ようと思えば時間がかなり必要です。

御嶽城も2時間以上を要してしまいました。


さて、鏡岩に向かう途中です。



この山道の途中には、いくつかの平場があります。

これは御嶽城の関係なのか、行場なのか・・思わず考えてしまいますが、

この細い山道で矢を射かけられたら、寄せ手も相当難渋するでしょう。

すると、やはり防御施設なのか・・・。




鏡岩に到着です。



下から見るとしめっぽい岩にしか見えませんが・・。



結構、テカテカしています。

これは断層がずれた時の摩擦でできたものだということで、まあ、ここには断層があるということになるわけです。

地学好きの方には、見どころが多いと思われます。


さて、鏡岩の辺りに平場があります。ここはそれなりに大きな平場で、防御をしていたのでしょう。






ここからもうひと踏ん張りです。

やはり簡単には上がらせてもらえません。






この坂をのぼりつめると、左右に分かれます。



左方面、広場のある方も城跡の一部です。入口の両側の盛り上がりは虎口となっていたのでしょうか。

この広場は見晴らしがいいのですが、主郭ではありません。

金讃神社には、法楽寺という寺院があり、明治期に廃寺となるまでは、この広場も法楽寺の一部だったようです。

こちらに先に行ってしまうと、達成感を得て「これでいいやぁ」となってしまうので、

主郭に向かう右の道を進みます。



ここからが足場がどんどん不安定になっていきます。

下の写真、小さな石の祠の向こう側、鞍部がありますが、これは堀切です。



この先の山頂部分が主郭のようです。

下の写真の浅い鞍部も堀切です。











これまで見たように、この山道には、写真にみられるような、丈の低い土盛や、浅い鞍部があります。



下の写真ではなかなかわかりづらいですが、これらは土塁や堀切などの城址の遺構とみていいのか・・。





これじゃあ、難しいですね(笑)

写真の撮影の仕方もよくないですね。こりゃあひでえな。

一応、尾根の斜面を切っていると、私はみているのですが。



御嶽城の基盤となる御嶽山自体、結晶片岩の岩峰で切り立ったがけが多く、

平場を削平すれば、城郭機能を満たせる意味もあります。

しかし、行きの道は長く感じます。

この坂を上り切れば主郭・・・・。この坂の手前が堀切になっています。

坂が厳しく、補助用に張ってある、工事現場でおなじみの塩ビ製のトラ縞のロープを使って上ります。

下の写真中央にロープが見えますね。

この辺り、木の葉を踏むと足が滑りまくります。



この主郭の乗った峰の途中にも、小さな平場状のものが付随しております。



実は、私、目が見えないうえに、冬場の山道などでは、極度にバランス感覚が悪くなってしまうため、

かなり危ない思いをするのですが、今回はそれが現実のものになってしまいました。


ついに主郭に到達しました。







主郭を見ると、狭い感じがしますが、狭小な結晶片岩の峰をうまく利用して、広範囲に縄張りを

めぐらしているのが、この城の特徴です。


次につづく。

2019.02.09 境稲荷神社と弁慶鏡が井戸

2019-03-29 18:05:59 | 神社仏閣・その他
今回は、境稲荷神社と弁慶鏡が井戸について紹介いたします。

訪問日は2019.02.09です。

境稲荷神社と弁慶鏡が井戸は、不忍池近く、池之端の東大医学部下にあります。

酒井稲荷神社の創建時期については不明だそうですが、室町幕府九代将軍義尚によって、

再建されたのだそうです。

巨大な鳥居で目立ちます。





鳥居の巨大さに圧倒されますが、社殿はこじんまりしています。

社務所もありますが、人の気配はありませんでした。










社殿の裏には、義経が欧州に向かう際に、立ち寄りのどを潤したといわれる弁慶鏡が井戸があります。







ただし、この井戸は一度埋められてしまったそうで、昭和15年に再度掘り出されたものなのだそうです。

まあ、埋めるとは何とも手荒なものですが、それを掘り出すのもものすごいことだと思います。

源範頼館跡息障院(吉見町)

2019-03-28 22:23:53 | 城館跡探訪
本日は、源範頼館跡、息障院について書きたいと思います。

調査日は、2019.02.14です。

源範頼館跡、息障院については、これまでたくさんの方にブログで取り上げられておりますし、

私自身も、度々訪ねております。

まあ、せっかくですから今回は、ちょっと変わった方法をとることにしました。

源範頼の館跡は、現在、息障院と幼稚園になっています。





調査日には、ちょうど梅の花が6分咲きくらいの状態で、日の当たり具合で、咲き方が違います。












まあ、梅の花はこれくらいにして、息障院の山門です。





息障院の周囲は堀で囲まれており、これが館の遺構となるわけです。







門前から続く堀跡の曲がり角です。



源範頼館跡は、空堀以外に目立った遺構はありませんが、よく見ると。西側には土塁の面影を残す

土の盛り上がりが残されています。

堀跡の残り方は非常によく、南側、西側は特に具合がいいです。







この辺りから、ドロボウ草が増え始め、足場も悪くなります。





それでも、直進。

堀の中に入って進みます。







息障院南側の堀内部です。

農業用水と連結しているため深さも、幅もかなりあります。

冬場だからできることで、農繁期には水に注意しなければいけません。

ドロボウ草だらけになりながら、堀から脱出します。

脚がチクチクします。こういうときは軍手を使ってこするように払うと、

ドロボウ草が落ちやすいです。








どうもこの堀は、かつては生活用水としても使われていたようで、足場として使われていた敷石が積んであります。

時代は違えど、貴重な生活の遺跡ともいえるので、特に邪魔にならなければ残しておけばいいのになドと思いました。






南側堀の東端は、かなり藪が深く、その間から三面コンクリートで固められているのが見えました。

東側はこんな具合です。

















東側から、境内内に戻りました。こちらにも空堀跡が残っています。




折角なので、本堂側も見てみましょう。



境内内には、土塁の痕跡はほとんどありませんね。

西側には、若干ながら面影が残されていました。








館の規模は少し小さく感じます。こちらの息障院のグラウンドも、館跡に含まれてくるのではないかと思いました。



中条堤(熊谷市)

2019-03-27 22:52:38 | 川・用水路
本日は、中条堤(熊谷市)についてご紹介したいと思います。

訪問日は、2019.01.29です。

中条堤は、中条氏館跡常光院の北、自動車で3分ほどのところにあります。

中条堤は、既に古墳時代からその原型がつくられたといわれ、築堤には秦氏一族が

技術者として動員されたようです。妻沼地域は秦氏一族に源流をもつ人たちが多く、小さな田舎町ですが、

学問好きや技術者が多い土地柄です。私も秦氏一族の出なので、まあ、ご先祖様の遺跡ということになります。

鎌倉期、室町期にかけて整備が進み、さらに江戸期になると忍藩一帯を洪水から守るために

維持管理がされましたが、守るのはあくまで堤内地(川の無い方)で、堤外地(川のある方)は

惨憺たる目にあったそうです。

この堤防は、政府からも忘れ去られ、戦後に再発見されたそうで、なんだか不思議な堤防です。



堤防は緩やかに湾曲しています。





正直、私は中学生ころにはこの存在を知っておりました。

再発見もその前後だそうで、私が中学生のころには砂利道でしたね。







この日はものすごい寒風が吹きすさんでおり、ちょっと丹念に見て回る気になれないほどすごかったです。












麦の収穫のころは、麦稈の野焼きの煙で前もみえないほどになっていたのですが、

あの頃が何だか懐かしいですね。