暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

平場の館跡の見方について

2019-06-10 20:17:43 | 城館跡探訪
ある方のブログで、直接、名指しではなかったものの、自分の城館跡、

特に平場の館跡の見方について批判(嘲笑)があったので、反論というほどではないですが、

自分の考え方を書いておきます。

わたしが城館跡に関心をもったのは、1982年の夏です。最初は、熊谷市の中世武士の

館跡に手を付け始めました。別府城や中条氏館は、現在でも土塁も堀跡も堂々たる

ものが残されていますが、多くは見捨てられていくような存在でした。

『埼玉の館城跡』という名著がありますが、ここに記載された記録をもとに館跡を

確認しに行くと、文献上は土塁、空堀が残っているとされる館跡も、実際にはその遺構が

わからないような場所が多かったですね。

そこで、住宅地図などを利用して場所を特定し、地主さんをはじめ付近にお住まいの方に

ご教示やご案内を乞うわけですが、遺構とされるものが、非常に呆気ない土の盛り上がりであったり、

田んぼのあぜ道のようなもの(これはもろに田んぼのあぜ道でした)、多少広がった畝間、

畑の排水路のようなもの、汚水がたまってドブにしか見えないものが多かったです。

成田氏館の水堀も幅は広いだけの、浅い排水路でした。

私としては、苦労自慢もあって親に見せるわけですが、「何だこんなもの」と一笑に付されました。

他にも、耕作放棄地、農業用水と統合されてしまったもの、当時からすでに三面コンクリートを

はめられてしまったものなどありました。

普通なら、この辺りで「何だこんなこと」と、いやになってしまう可能性もありましたが、

こうした開発の波にさらされた館跡を見るとき、大事なのは、むしろ能動的に地形を読み込むこと

だと思ったわけです。こうした視点をもたなければ、それまで見た土塁も単なるあぜ道や土盛にしか見えませんし、

堀跡も線状のへこみやドブにしか見えないわけです。そこに重要性を見出すという面白さを見つけた訳です。


とは言っても、やはり、自転車で1時間、2時間かけて向かった先が、畑の畝間や細長い盛り土状の

ものだと、正直がっくりしたことはありました。

でも、こういう考え方が多少身についてくると、あまりデータをもっていない土地に出た時に、

瞬間的に館跡が見えることがあるのです。これは、結構当たるようになりましたし、

外れた時も、その構築物の正体を説明していただいたりして、面白がられた経験があります。

大学時代に研究室でフィールドワークに出た時、地元の方と打ち解けるために役に立ったと思います。


このブログも、当初から方針として言及しているように、「微小な地形を読み込む」ようにしています。

意識して過剰に読み込むようにしていますから、自分でも「これはちょっと微妙過ぎだぞ」と思うこともありますし、

資料が入手できたら、それにもとづき修正したい部分もたくさんあります。

でも、これは、城館跡ファンのフィールドの楽しみ方の一つの方法だと思っています。

だから、こういう姿勢について私は何ら恥じる気持ちはないですし、中学生時代から続けてきた自分の

スタイルとして、ある程度確立してきたものですから、今さら変えようとも思わないです。


最初は私も、城址碑を撮るだけで満足していました。でも、それ以上の楽しみ方が欲しいと思うんですよね。

現在は、お城ブームでファンもたくさんいて、かつての、みすぼらしい状態だった城館跡も

自治体によっては、分かりやすくきれいに整備されています。これは大変いいことだと思う・・・・

多少、きれいになりすぎて野趣がなくなったと思わないでもないですが。


でも、開発の波に飲み込まれて遺構もわからなくなってしまったような城館跡については、

強く読み込む姿勢を変えたくないと思っています。

城館ファンの個別の営みは決して無駄ではなく、記録として残ると思っています。

それが重要なのだと思います。もちろん「オレはこう見ない」と思うこともありますが、

それは、ご当人にブログにコメントとして書くようにしています。


以上です。今回は、相手の方がブログ上で批判をなさったので、私もブログ上でお答えいたしました。

なにかご意見があったらコメントに入れてください。

ただ、荒らしコメントいれるの止めていただけませんかね。

Gooブログは、IPで管理できないので、困ります。

平山家住宅(埼玉県旧江南町)

2019-06-09 00:25:52 | 古い建物
平山館は、武蔵七党西党に属した一族です。

西党は東京の多摩川周辺に勢力を張っていましたが、平山氏が鎌倉幕府の信任が厚く

実力を蓄え、檜原城に君臨しました。

室町期の関東の混乱の中で、山内上杉氏、北条氏に従いましたが、

北条氏の滅亡とともに、江南町樋春に居を構えて帰農しました。

訪問日は、2018年08月09日です。

私が、平山家住宅に行ったのは二つの目的がありまして、一つは館跡遺構を確認すること、

もう一つは、かやぶき屋根の状況を確認することでした。

家屋はご当主にご案内いただきました。





ご当主にお悩みの点について伺ったところ、屋根の葺き替えが必要な状態にあるにもかかわらず、

資金不足で葺き替えができないということでした。

なるほど、屋根の痛みはかなり進んでいるようです。



平山家クラスのかやぶき屋根になると、現在の相場では、1,000万円以上(材料費・施工費込)かかります。

材料になる水生植物のカモノハシという植物は、市場がなく相対取引なので単位当たり取引額は一切わかりませんが、

平山家の規模になると、現在のレートでは大体300万円と試算しました(昭和52年の補修工事では、

やく280万円。現在の試算の根拠は明らかにできないので、まあ、大づかみに理解してください)。

麦わら葺き、ヤマガヤ(ススキ)葺きもありますが、麦わら3年、ヤマガヤ10年と言われ

(ヤマガヤについての評価は産地・職人ごとに評価がまちまちです)、水生植物の茅やカモノハシが50年もつと

いわれるほど評価が高いです。

写真のような状態では、屋根の中にカブトムシの幼虫が出てしまうかもしれません(というか、出ます。

他地域の聞き取りで、カブトムシの幼虫が落ちてくる話はよく聞きます)。

本来は、保存に地方自治体や文科省が補助金を出すことになっていますが、

財政難を理由に出し渋っているのが現状です。










屋敷の中はさすがに立派です。

平山家は庄屋を務めていましたが、経済史でいえば自作地主にカテゴライズされるくらいの

土地所有状況だったようで、「豪農なんてものじゃないよ」と笑っていらっしゃいました。












現在かやぶきの材料調達と、職人技術について調べていますが、

なかなか、困難です。

公開できる情報が集まったら、書きたいと思っております。