暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

秩父札所34番 水潜寺(皆野町日野沢)

2018-03-30 22:13:10 | 城館跡探訪
本日は、秩父札所34番水潜寺について、書きたいと思います。

皆野町日野沢にある水潜寺は、日野沢の有力武士である阿左美氏によって創建されました。

阿左美氏館跡は、先日本ブログでも紹介した通りです。





お参りをしたのは2018.02.12です。

当日は、設楽氏館跡、阿佐美氏館跡、水潜寺、身馴沢流域と、強行軍で・・・・まあ、いつも強行軍で無茶苦茶を

やっていますが、体力任せで回ってきました。

水潜寺はその名の通り、現地の瀧を祀ったというもので、神社のようなお寺です。


まだ、1月22日大雪が残っており、山影にある水潜寺は、激しく寒いです。

寒さのあまりに、デジカメが途中で動かなくなってしまいます。



今年の冬の寒さは久しぶりにヘビー級でした。









夏場であれば、涼しくてよさそうですが、この時期は凄いですね。









でも、若い住職さんが一生懸命に雪かきをしていました。

お札を買いました。

水潜寺の向かい側には、日野沢川があります。







さすがに、瀧をお祀りしている水潜寺傍だけあります。

日野沢川の水は凄く澄んでいて、釣りをしたくなります。

向かい側の民家が非常に良かったです。










熊谷氏館跡(熊谷市)①

2018-03-29 21:00:54 | 城館跡探訪
本日は、熊谷氏館跡について書きたいと思います。

熊谷氏館跡は、熊谷市八木橋デパート裏、旧中山道沿い熊谷寺境内だと言われております。

地元の方ならご存じだと思いますが、熊谷寺は自由な拝観を許さない厳しい寺院です。

現在では、事前の連絡を入れれば拝観を許していただけるということです。

今回は、連絡をとれないままの訪問になってしまいましたので、その制約の中で、調査をしました。


調査の方針として、堀跡とみなされる、境内東側の道路の状況の観察、山門横にある熊谷直実ゆかりの

熊谷奴稲荷社境内内の観察、熊谷の名の由来とされる、「曲谷」=湾曲した旧荒川河川流路が形成した

崖とその周辺にある旧跡をコミにして検討しようという方針です。

調査日は2018.02.03及び02.05です。


まず、写真は1982年当時の熊谷寺の山門です。



現在は、周囲の古い商店などがなくなりましたが、境内の様子はほとんど変わっていないようです。







この山門脇に稲荷社があります。これが奴稲荷です。奴稲荷は直実の信仰が篤かったと言われております。





かつてはこの近所に熊谷市立図書館がありましたが、現在はデパートの駐車場になっております。







奴稲荷境内は意外にも静かです。











熊谷寺東側に回ります。

下の写真の境内周囲の道路が『埼玉の古城址』において中田正光氏が推定した堀跡です。





大谷石で組まれた部分の下が奴稲荷境内の土留めになっており、その上に寄進者の名を刻んだ石柱が乗っています。

奴稲荷本殿裏の土地の高さは、熊谷寺境内側とほぼ同じなわけですから、熊谷寺境内部分の大谷石の塀の下二段は、

実は土留めであるということになります。



この塀に沿って歩いていきます。

熊谷寺境内は、30mほど直進したところで一度大きく突き出しています。





この辺りが東側で最も高い部分だと思われます。おそらく、虎口などもこの辺りにあったと思われます。

この辺りをピークに熊谷寺は北に向かって緩やかな傾斜になっていることが推測されます。

土留めと思われる部分も、数十メートルおきに低くなっています。


この辺りは小刻みに段差がつけられているようなので、傾斜が急なのかもしれません。





下の写真は、北側で最後の段差です。








この道路が、境内北側です。道路の向い側に熊谷税務署があります。





一方、館跡西側は土留めの石垣がなく、道路側と館跡の段差がほとんどないと考えられます。

あるいは境内、塀の内側に堀や土塁の遺構が保存されているのではないかと思われるのです

(塀からすこし中が見えるのですが、遺構と思しき構造物があります)。

現況から、館跡は南側から北側に向って緩やかな斜面になり、東側に防衛機能が集中していたと考えられ、

一方で、西側については不明ということになります。

河原氏館跡(行田市)

2018-03-28 17:54:22 | 城館跡探訪
本日は、河原氏館跡について書きたいと思います。

河原氏の名を高からしめたのは、頼朝の配下で勇猛をもって鳴る太郎高直、次郎盛直の河原兄弟の

生田の森の戦いにおける討死によるものであります。

観福寺境内が、彼らの館跡といわれ、国史跡として高名な河原氏供養板石塔婆、いわゆる「南河原石塔婆」が

安置されております。


館跡には水堀や、わずかながら土塁などが残っているということですので、今回は、こうした遺構の確認に行きました。

実は、1987年頃、一度訪問したことがありまして、その際には、塔婆の拓本をとらせていただくという、

今ではありえないようなご厚意にあずかりましたが、館跡としてきちんと水堀を観察致したわけではなかったので、

今回は改めてそうした部分も確認したいと思いました。

調査日は2018.02.04です。


さて、当該地は利根川の氾濫原にできた、自然堤防上にあり周囲は広大な田園地帯になっております。

観福寺門前です。







当日は、良い天気で午前中に訪ねたということもあって、空の色がきれいでした。

境内には石塔婆の解説板があり、観福寺の由緒もわかります。




板石塔婆の納められているお堂です。私が訪ねた当時も厳重に保管されていましたが、現在は、保管はさらに厳重に

なっていると聞いています。





さて、観福寺の外周を歩いてみましょう。





上は、通りに面した観福寺前面の写真です。館跡があるのは、自然堤防上ですが、この自然堤防は周囲と

かなりの高低差があります。お寺の境内敷地はさらに一段高くなっております。

境内東側に回ります。



お寺を囲む水堀は、現在、U字溝で固められてしまっています。

境内内から水路が出ています。



境内の中から流れ出た水路は、隣接する水田の中を走っています。






上の土壇がどのようにして形成されたのかは不明です。

あるいは土地整理事業の過程で残った場所である可能性もあるからですが、境界を示すりゅうのひげが

植えられていることから、特に何らかの意味を持っている・・・、遺構の一部かも知れないと考え、

念のため撮影いたしました。



観福寺裏です。







土塁状のものがあることが確認できますが、フェンスや光の関係でかなり見づらいですね。


直進すると、水堀が現れます。



先ほど、境内内から出ていた水堀はこの堀とつながっているようですね。

かなり深い堀です。







西側にもこの深い堀が走っています。




西側から見た観福寺です。



西側の堀は墓地内を走って南側に出ていました。




深い水堀跡が特長的な館跡だと思います。

中条氏館跡とも自動車で10分もかからない場所にあり、深い水堀とも相まって、雰囲気的に似ているなと思いました。

大河内金兵衛陣屋跡と大我井神社(旧妻沼町)

2018-03-27 18:18:47 | 城館跡探訪
本日は、大河内金兵衛陣屋跡について書きたいと思います。

大河内陣屋跡は旧妻沼町の中心部、埼玉りそな銀行、聖天樣の近く、銭屋さんという利根川の大物釣りファンの間で

名高い老舗の有名な釣り道具屋さんの裏にあります。

よか楼さんという、埼玉県北のラーメンの老舗の総本店もあります。

と、まあ、ほとんど観光案内のようになってしまいますが、わたしの父が妻沼の出なものですから、

それなりに愛着があるのです。

さて、大河内陣屋跡は、妻沼史の象徴的場所の一つである大我井神社境内一帯とされております。

ここは、「大我井の杜」とも呼ばれています。杜自体はすっかり小さくなってしまったのですが、

これは、かつて妻沼小学校の敷地と一体であったものが、整理によってすっきりしてしまったためです。

以前は、小学校の校庭を土塁が分割していましたが、現在はフェンスが分割しています。

わたしもこの土塁は登ったりしましたが、小さな土手といった風情でした。雨の後などすべって転ぶのです。

大河内陣屋跡は、斎藤実盛館跡と重複するとされてもいます。

さて、今回のポイントは、やはり遺構の残り具合なのですが、どうなるのでしょうか。

調査日は、2018.01.31です。


大我井神社の駐車場は銭屋さんの裏にありますが、うっかりすると通り過ぎてしまいます。

実は、わたしも通過してしまったので、東武鉄道妻沼線の軌道跡の道路から裏に回り込むことになりました。

丁度、具合よく妻沼小学校裏に回り込みました。



東側から見た妻沼小学校はかなり段差があります。



この後、日陰にある雪に足をとられて、車が滑ったのにはまいりました。



昔は、この辺りに土塁があったのですが・・・・・。



あ!土塁が残ってた。




何だかヒューム管が埋められて、形も崩れていますが、往時は樹に囲まれて、かなり長いものでした。

目的の、大我井神社に向います。



現在の神社は、聖天様に合祀されていたものを、明治2年に分離して、この地に遷したものだそうです。



鳥居をくぐってすぐ、両脇に小祠があります。祭神は何なのかよくわかりませんでした。









境内に、微高地がありました。




案内板には富士浅間神社も祀られているということですから、下の写真は土塁の一部なのか、お参りのための築山なのか

判断は難しいですね。












本殿裏に回り込みます。





ここにも、かなり低くなっていますが、周囲よりも盛り上がった場所があります。土塁跡にも見えますが。






これ等遺構状の地形が、斎藤氏に関するものなのか、大河内陣屋にかかるものなのかはわかりません。




大我井神社には唐門があり、これが合祀された若宮八幡神社の門を移築したものとされています。










境内には、神が降りる磐座も残されており、中世の人々にとっては神聖な土地だったことがわかります。






最後に社務所を。



何だか、神社探訪のような終わり方になってしまいました。

中城跡(小川町)

2018-03-26 20:53:10 | 城館跡探訪
本日は、中城跡について書きたいと思います。

中城跡は、「武蔵の小京都」とも呼ばれる小川町の中心部に張り出した台地の東端部分にあります。

埼玉中部山地一帯の農産物・林産物の集散地として栄え、歴史ある街並みが残っていますが、

徐々に再開発の波に飲み込まれつつあります。

わたしが、中城跡に行ったのは1986~87年頃の秋ごろだと記憶しています。

当時、城に登る坂の途中に古い図書館があり、なかなか良い雰囲気を醸し出していたのを覚えています。


中城跡は、仙覚律師が「万葉集註釈」を完成させた、仙覚律師遺跡としての方が有名です。



ただし、現在残る中城跡は室町期に完成されたもので、猿尾氏の城と伝えられています。

台地先端に指サックのような形で、歴史ある街を見下ろすような城跡は、青春映画の舞台のようでもあります。



郭の中にはテニスコートがありましたが、現在はどうなのでしょうか。


城跡は、高い土塁に囲まれています。



北側に虎口があり、空堀跡と思われる周囲よりやや低い林地に囲まれていました。



大きさについてはさほどでもありませんが、高い土塁や虎口は、見て損のないものだと思います。