暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

大河原氏館跡(東秩父村)

2020-02-29 15:36:28 | 城館跡探訪
本日は、大河原氏館跡について書きたいと思います。

大河原氏は丹党の武士です。現在の館跡は浄蓮寺一帯とされています。

以前、このブログでも取り上げたことがありますが、今回はその追加情報です。

浄蓮寺大河原氏館跡(東秩父村)
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=8edafaea79edb9e69ebad89cb7657e9c&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD04

さて、通常、大河原氏館跡は浄蓮寺周辺とされていますが、ちょっと思いがけないものを発見しました。

東秩父村には、浄蓮寺に隣接する形で「紙漉きの里」という施設があり、大変人気を集めています。



私もここにはよく立ち寄るのですが、あまりよく来るものですからついつい見落としも出がちになります。

敷地の西側に小高い丘があり、そのふもとに天満宮のほこらとともにこんなものがありました。





解説板を読めば一目瞭然ですが、地元では紙漉きの里の一体までが大河原氏の館跡とされていること。

するとここにそびえる丘は物見の役割を果たしていたのでしょうか。

加えて、恒儀の名があることです。

埼玉県の比企郡一帯には幻の武将として藤原恒儀の名が伝えられていますが、藤原恒儀は平安期の武士との伝承があり

解説板とは食い違いがありますが・・・。

いずれ時間を見て浄蓮寺から紙漉きの里までを歩いてみたいと思います。

東方城④(深谷市)

2020-02-28 21:38:15 | 城館跡探訪
御所屋敷のところまで戻ります。





御所屋敷の切通しの道の少し先に行くと、民家の敷地(2号累跡)、商店の敷地内(1号塁跡)に

大規模に土塁と空堀が残されています。





商店横には路地があって、そこではフェンス越しに土塁と空堀が確認できます。






次は2号塁跡のある民家脇の路地に入ってみます。この民家の敷地内は「城主別邸」と呼ばれているようです。



言われてみれば、風格のある農家です。

ここの敷地内には堀と土塁が長く残されています。













土塁は段丘崖まで続いています。





この下はテラス状になっており、この一帯も城の施設の一部だったのではないかと思います。

城主別定北側のテラス状部分です。










御所屋敷方面に向かって歩きますが、ここもテラス状の段が認められます。







以上のように、東方城は結構広く、より詳しく遺構を見ようとすれば、かなり手間をかける必要があると思います。

実際には、西側遺構やお姫屋敷と言われる遺構は今回みられませんでした。

こうした部分も含めて、今後も足を運びたいです。

東方城は北関東の屋敷林のある静かな農村の雰囲気を色濃く残しており、そういった部分も楽しめると思います。

お店が閉めてしまっているのは残念でした。

東方城③(深谷市)

2020-02-27 21:01:40 | 城館跡探訪
今日は東方城の西側についてみたいと思います。

ここは、国道263号線がバイパスされて農村の風情は一変しています。

この付近には城に関係のあると思われる石造物や祠が個人宅にあったりします。

263号線を渡ると塚のようなものがあるのがわかります。







これは木の本古墳群の1基のようです。

坂道を下ると深谷市幡羅生涯学習センターに突き当たります。







その途中にも土塁があり、また、段丘をうまく利用して縄張りが設定されています。

今度は城跡東側の部分に向かいます。

東方城②(深谷市)

2020-02-26 22:56:00 | 城館跡探訪
さて、全久院の西の集落に向かいます。

自動車で5分もかかりません。



こんなお店の前を通り過ぎると、城跡を示す標柱があります。

その10mほど先の、細い北に向かう見通しのいい坂道を下っていくと、

農業構造改善事業で作られた城下公園という公園があり、その向かい側に駐車場があります。



東方城探訪はここから始めます。

北から見た城址の遠望です。



東方城は段丘を利用してかなり広く縄張りをとっています。遺構はかなり良く残っていますが、

大半が農家等の民有地になっています。

農道を歩いていくと、水路沿いに廃畜舎があります。先には切通が見えます。

この辺りが御所屋敷と呼ばれているようで、周辺の水路は地形との関係から見て

水堀を農業用に転用したもののようです。

御所屋敷は段丘上と段丘下に分かれていたようです。

まず畜舎周りを見ましょう。





























畜舎周りは折れのついた土塁があります。

畜舎のある敷地内には踏み込まないようにしなければなりません。20世紀末から今世紀初頭にかけて

家畜伝染病が大流行しましたが、この地域は伝染病の病原体拡散防止のため立ち入りが禁止されているのです。

この段丘下と段丘上を分かつための空堀があります。



空堀は竹林内にあり、柵もあるため見づらいです。

切通を登ります。登り坂の右側に御所屋敷の土塁があり、ここが東方城の見どころの一つです。









屋敷跡地は農地になっていています。ここは私が高校のころに来た雰囲気を保ったままです。



切通しを挟んで左手にも土塁が大きく残っています。









堆肥ができそうなくらい落葉が積もっていますね。

それではここから西の遺構に向かってみましょう。

東方城①(深谷市)

2020-02-25 01:29:26 | 城館跡探訪
今回は、深谷市の東方城について書きたいと思います。

複数回に分けて書きます。調査日は2020.01.20です。

東方城は熊谷市の別府地域、利根川氾濫原の段丘上にあります。

東から西にかけて奈良氏館、玉井氏館、別府氏館、西別府城、幡羅官衙遺跡、そしてこの東方城と隣接しており、

歴史的に極めて重要な地域だったことが推測できます。

別府の段丘直下には別府沼という老朽河川がありますが、この河川は実は荒川水系に属します。

この別府沼上流には古代の祭祀遺跡もあり、古代ー中世史の重要地点です。

幡羅官衙遺跡に接する形で全久院があります。全久院には、戸田松平家の祖、東方城主の松平康長の墓があります。

もっとも、松平康長の墓所は現在長野県松本市にあり、以前は全久院にも、松平康長の墓という案合札があったのですが、

現在は、撤去されたらしく見当たりません。

しかし、松平康長には縁のある寺院ということなので、今回の調査はここから始めたいと思います。

全久院山門です。全久院は広大な畑のど真ん中にあります。結構広くてきれいなお寺です。











本堂脇に見える大木カヤは天然記念物です。





このカヤの樹の後方、本堂脇に松平康長の墓があります。





せっかくなのですから、康長公の墓として改めて案内をすればよいと思うのですが、

長野の方との間で大人の事情があるのではないかと思いました。

ここには、良い板碑があります。善光寺式阿弥陀三尊像板碑です。

この板碑については私も拓本を持っていませんが、良い板碑だなと思いました。





それではここから西にある東方城に向かおうと思います。