暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

住宅地図で城跡探し② 御蔵場(熊谷市)

2017-08-31 00:36:10 | 城館跡探訪
1980年代、城館跡はこのまま永久に残ると思っていましたが、昨夜、兵部裏屋敷の項を書いた後、

グーグルマップで現況確認をして、その変貌ぶりに驚いてしまいました。

そして、今ほどを城館跡が注目されていなかった時代に、不十分とはいえ、その姿を写真に残していたことに

多少の意義を感じました。

さて、本日は同じ熊谷市石原地内にある御蔵場です。

当時、御蔵場は正六角形の水堀を残す、小規模の館跡でした。

水田の中に、盛り上がった畑地で、低湿地に舌を突き出しているように見えました。

多くの館跡がそうであるように、水堀は農業用水の水路として利用されていました。



住宅地図にも正六角形の四辺がはっきりと描かれていました。

御蔵場はその由来がはっきりとしない館跡ではありましたが、水堀の保存状況は良かったです。

御蔵場は自宅に近かったので、二度ほど写真撮影をいたしました。

ですから、他にも写真が残っている筈なのですが、今回は発見に至りませんでした。


問題は、現在、遺構が残っているかなのですが、グーグルマップを見る限り、判然と致しません。

周囲が水田を埋め立てた住宅に囲まれていますが、耕地がいまだ残っているように見えるのです。

私が、80年代半ばに写真を撮影した時には、遺構はしっかりと残っていましたが、

中古車販売店の自動車置き場になっており、館跡の3分の1位が砂利敷きになっておりました。

住宅地図に乗っていなかった2辺の水堀は幅10センチほどのコンクリート製のU字溝に置き換えられていましたが、

隣接する農家のブロック塀が御蔵場の形に合わせて、へこんでおり、御蔵場は見事な六角形だったのです。

現況はさらに土地開発が進んでいますが、どうか無事であってほしいと願っています。

住宅地図で城跡探し① 兵部裏屋敷(熊谷市)

2017-08-30 01:28:49 | 城館跡探訪
ゼンリンの住宅地図は熊谷市内の城館探しに随分役に立ってくれました。

別府氏関係城館や中条館などの、市内の名城館跡ならば探索は比較的簡単なのですが、

その他重要性の低い城館跡は地元中の地元にお住まいの方しか知りません。

そんなときに役立ってくれたのがゼンリンの住宅地図でした。

兵部裏屋敷はそんな城館跡の一つでした。

土地を三角定規のような形に区切る堀がはっきり書かれていました。



写真は1982年頃のものです。

実はこの山、私が小学生の頃は、「かぶと山」と呼ばれる遊び場で、夏休みにはよく虫捕りに行ったものでした。

「かぶと山」の名の由来は、城館とは何の関係もなく「カブトムシのいる山」という他愛もないものでした。

写真の山の真下を、水路が流れており「しょうぶら堀」と呼ばれていたとは『埼玉の館城祉』によって知りましたが、

当時、地元の方でも全く知りませんでした。地主さんなど限られた方だけが知っていたのではないでしょうか。

兵部裏屋敷は50センチほど高く盛り上がっており、高く盛り上がった土壇の脇の小さな坂が入り口でした。

敷地内には、建物があったと思われる高台、井戸跡と思われるくぼみなどが残っていました。

当時、子供心にも不気味に思われましたが、写真撮影時には金網製のフェンスが設けられて、

立ち入りができなくなっていました。

何か間違いの起こりやすい場所と言えないことも無かった・・夕方、学生服姿のアベックがいたりしたので、

治安などのためにフェンスが設置されたのでしょう。残念なことですが仕方がありません。

機会があれば、再訪してみようと思います。



追記 記事作成後、グーグルマップで確認したところ、

屋敷跡の半分のみが残り、残りは住宅になってしまったようですね。

あの周辺は、水田のあぜ道に深い井戸があったりするような、変な場所でした。

あんな場所を住宅開発するなんて・・・・と、ため息が出ました。




別府氏関係城館跡 ③ 別府氏城

2017-08-29 11:02:53 | 城館跡探訪
②では、別府市の本拠地であった別府の立地と事情を知っていただきたくて、

城郭とは直接関係のない祭祀遺跡や郡衙跡についてお話をしましたが、

今日は、別府氏城郭の中心である、別府氏城の写真を紹介いたします。

私は、西別府城、別府城、東別府城の名称でいいじゃないかと思っていますが、

この際、『埼玉の館城跡』の表記に合わせます。

別府氏城は熊谷市内の城郭としては、もっともよく行こうが保存されている城跡です。

それは現在でも同じです。

「自分の町にも城があった・・・・」

この城は、中学生のわたしに強烈なインパクトを与えてくれました。

別府氏城の写真は比較的、枚数がよく残っていました。

当時興奮気味に撮影したんでしょうね。空堀、土塁、虎口の写真の外に、

後年立てられたらしい無関係な石碑まで撮影しております。

まず城址碑。

別府城って書いてあるじゃん!と、とりあえず突っ込みを入れておきますが、

『埼玉の館城跡』では別府氏城です。



次に土塁です。



次は空堀です。



『埼玉の館城跡』に掲載されている写真には、はっきり水堀が写っているのですが、

当時はすでに干上がっています。

一目でわかるように、堀の中は雑草や枯れ葉、枯れ草に大分うずもれています。

こうした光景は後に山城に行った際、もっと悲惨な形で見せつけられることになります。



これは搦め手口ですね。

これでは芸がないので、2012年頃に撮影した写真で補足したいと思います。



これは大手口にある別府神社の鳥居です。

次に土塁と空堀ですが、やはりよく残っていますね。



最後に解説用の看板です。



別府城(東別府城)については、少なくとも、数年前まで空堀が一部残っていました。

今回は、発見できなかったのですが、発見次第、別府氏墓所などと合わせて

アップしたいと思います。

別府氏関係城館跡 ② 郡衙跡と湯殿神社祭祀遺跡

2017-08-28 10:32:59 | 城館跡探訪
別府氏関係遺跡群は、利根川の氾濫原によってできた段丘上にあります。

位置的には、段丘の西端に湧水源をもっていた別府沼に沿う形で、

隣接する玉井地区に接する、香林寺裏辺りまでの広大な地域にまたがっています。

城館も西から西別府城、別府氏城、東別府館と横に並んでおり、

それぞれが規模の差こそあれ遺構を残しています。

寺院や小祠を混ぜれば数多くの見るべきものがあります。

さて、別府沼と私のかかわりは小学校5年生の冬からのもので、

別府沼は当時、釣りの名場所として知られていて、

私も釣りに行ったのですが、行ってびっくりしました。

沼の水は少なく、家庭用排水が流れ込み、水辺に行こうにも泥が深かったのです。

まったく釣りになりませんでした。

夏にはライギョが浮かんでいるのをしばしば見かけましたが、葦が生い茂って

足場が悪く、釣りをする気になれませんでした。

別府沼は今でこそ、熊谷市の保護の下で自然公園として整備が進んでいますが。

ただ、湧水源を抱えていた上流域だけが、かろうじてみられる状態でした。

さて、湧水源附近には湯殿神社があります。ちょうど西別府城の西に隣接するような具合です。

湯殿神社裏に水源を神に見立てた祭祀遺跡があります(写真は2017年8月6日)







私が高校生の頃(1984年か)に行った時とたころとほとんど変わっていません。

湯殿神社を含む当時の写真は、スキャンがうまく行かなかったので、後日、別項を立てて紹介します。

夕方に行くとかなり不気味なところです。水神の眷属、河童や大蛇が出てきそうです。


変わったことといえば、神社の入り口には次のような解説看板が設置されたことです。



こういうものを読んでいると、調査報告書が欲しくなりますね。


熊谷北部の利根川氾濫原の上に形成された段丘は、古代史的には重要な防衛ラインで、

段丘上に多くの有力な古社が残っています。

代表的なのが熊谷市の高城神社で、上野国造が南下を図るのを阻止するための防衛拠点だったらしいです。


そうかんがえると、別府に有力武士が誕生し強大な勢力を張るに至った理由が透けて見えてくる気がいたします。

郡衙跡は現在デイケアセンターになっております(汗



ちなみに、現在、上野国造の子孫は熊谷市の吉見地区にいらっしゃいますが、その一族も水に関係する

伝承を持っていて、湯殿神社に極めて似た立地の場所にお住まいです。


別府氏関係城館跡 ①

2017-08-27 14:19:21 | 城館跡探訪
私が城館探訪を始めたのは、中学3年生の夏でした。

夏休みの自由研究の課題として設定し、高校受験準備もそっちのけで

夏休み中、自転車で走り回っていたような気がします。

最初に尋ねたのはどこだったか、記憶が曖昧ですが。

さて、熊谷市の別府地区は中世武蔵武士団のスター別府氏の根拠地ですが、

この地域に隣接する玉井、奈良にも城館跡や墓所が点在する、城館探訪の

大場所と言えます。

また、奈良時代の郡衙の所在地でもあり、古代の祭祀遺跡もあるなど、

丁寧な観察をすれば丸1日楽しめます。



さて、写真は西別府城址碑(1982頃)です。この当時、西別府城址の遺構は

農家の庭や畑の隅にとぎれとぎれに残存していたのですが、このころの私は、

石碑を見ただけで興奮してしまい、他に土塁の残欠を1か所、別府市に関係する祠を

一か所撮影した記憶がありますが、写真はこの1枚のみが残るきりです。

フイルムも出てきたので、年内に電子化することを目指しています。

電子化のネックになるのは、フィルムが当時はやったコンパクトカメラの細いフィルムであること。

通常のフィルムではないため、2週間もかかるらしく、実際に発注するのは年明けになりそうです。


ちなみに現在の城址碑はこれです。



周囲が一変してしまいました・・・。

実は当該地域は、大型のバイパス建設工事が進んでおり、それに伴って環境の変化が激しいのです。


おまけ

別府氏関連遺跡群内には、郡衙があったせいなのか、伝藤原淡海公(藤原不比等)の

墓所と伝えられるところがあり、地域の人々が守っています。







以前は、3枚目の写真の線香をお供えする台の上に置いてある石が墓石でした。

これも中学生の時、写真を撮影した記憶があるのですが、発見した時には、公開したいと思います。