暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

また行って見た・・兵部裏屋敷(熊谷市)

2018-02-28 16:12:08 | 城館跡探訪
今回は、熊谷市にある兵部裏屋敷跡に行って見ました。

正直、あまりしつこく調べた訳ではないので、こいしつシリーズではありません。

兵部裏屋敷概要だけ簡単に述べておきます。

兵部裏屋敷は、鎌倉期に久下氏系の楊井憲春が住んだと伝えられる館跡です。

昭和40年代から50年代前半にかけて、地元の子供たちの間で「かぶとやま」(カブトムシのいる山)と呼ばれ、

貴重な自然と触れ合える場所として親しまれてきました。

わたしもよく通った内の一人です。

当時の様子ですが、館跡は周囲よりも50cmから1mほども高く、三角定規のような形をした敷地の西側に高い土壇があり、

南側の方が総じて高く、北側に向って緩やかな傾斜があり、背後には水堀がありました。

北側から見た兵部裏屋敷



北側の堀



南側から見た館跡の内部(内部にも土壇があることが確認できる)


上の写真は、わたしが中学から高校にかけて撮影したものです。1枚目が中学生の頃ですね。

1982~85年頃のものですが、以前は開放されていた館跡に柵が作られ、立ち入り禁止となっていました。

理由は分かりませんが治安のためではないでしょうか。


さて、その後、この地域は住宅開発が進みました。調査日は2018.02.18です。

現況は、次のような状態です。

南側から撮影したものですが、当時、西側にあった土壇が今でも残っております。

東側は遺跡の中核部分とみなされていないせいか、家屋が建てられてしまいました。










西側端の土壇を特に撮影してみました。




開発の波に耐えて残っている理由ですが、地元住民の方によれば、遺跡であり、開発に当たっては発掘が

義務付けられているため、売却できないということでした。

ただ、館跡という認識はなく、「古墳じゃないの?」ということでしたから、何となく世間話の種にされているのだという

印象です。

北側に回って見ましょう。








往時の堀跡は埋められてしまい、水田も埋め立てられてしまいました。今は寂しいやぶです。

これでは、知らない人に館跡であることを説明しても無理でしょうね。

それでも、よくぞ残っていたという思いがいたします。

男衾氏胎蔵界曼荼羅板石塔婆

2018-02-28 14:30:54 | 城館跡探訪
男衾氏胎蔵界曼荼羅板石塔婆



高校生3年の頃だったか、1時間半の道程を自転車で訪ねて行って、

お願いして取らせていただきました。

今ではもう不可能でしょうね。

地元の方々のご厚意には本当に感謝いたしております。


男衾氏の館跡は、ものすごいやぶになっていて、

地元で一番詳しく館跡を知る方は、既に体を悪くされており、

詳しいお話は伺うことができませんでした。


長井氏館跡(旧妻沼町)

2018-02-27 18:10:15 | 城館跡探訪
毎日、ネチネチとやっているのは、読んでいただいている方たちもちょっと飽きてしまうかもしれないので、

本日は、わかりやすく、遺構もはっきり残っている長井氏館跡をご紹介いたします。

調査日は2018.01.31です。


長井氏館跡は、県道341号線、いわゆる「妻沼街道」沿いで、新奈良川を越えてすぐの西野地区にあります。

北上中、左側に水堀跡がもろにあるので極めて分かりやすいです。



この堀跡は長方形で、長さも短辺50m程、長辺100mほど残っています。






わたしは、1988年に『埼玉の中世城館跡』が出版される前から目を付けていた場所でしたが、今一つ自信が持てませんでした。

ひとつは利根川氾濫原の当地域に時々見られる、船の引き込みに使われた水路跡に似ていたためで、地元のお年寄りに

有望に見える方形の堀について確認して、「いやあ、あれは船の引き込み水路跡だよ」といわれて撃沈した経験がある

せいです。

『埼玉の中世城館跡』がこの地域にマークを付けてくれたので、うれしかった記憶があります。








かなりりっぱな堀跡です。ところどころに見える土橋は、おそらく後世のものだと思いますが。

堀の内側、木の植えてある場所は、若干盛り上がっており、土塁跡なのでしょう。











西側の堀は埋められていますが、それでもそれらしい「埋めました!」的痕跡が残っているのがわかります。












非常に明快で、記事を書いている私も気分がいいです(笑)


こいしつ 肥塚氏館跡(熊谷市)

2018-02-26 13:30:08 | 城館跡探訪
過去行ったことのある城館跡について、今さらながらしつこく再訪するということでやっております、

「こいしつ」ですが、今回は肥塚氏館跡について書いてみました。

調査は、2018.02.08に行いました。

こいしつは、従来、遺構がない、または所在地がつまびらかではない城館跡については、立地する地域の自然条件等を

積極的に読み込んでいくことで、城館跡の再検討をしようとしております。



肥塚氏館跡は、利根川氾濫原にできた、細長い中州状ないしは半島状の自然堤防上にあります。

この自然堤防は、カメラのキタムラ熊谷店附近を東端とし、妻沼街道・報恩寺付近まで東西に400m近くの長さがあります。


写真は、1980年代初期頃の肥塚氏館跡があったとされる地域です。『埼玉の館城跡』記載のデータに基づいて、

記載された民家前を直接的撮影したものです。



多くの城郭ファンが肥塚氏館のレポートを出していますが、何れも、直接的に遺構を確認できたものはなく、

肥塚公民館裏の竹やぶに遺構があるのではないかと指摘するにとどめております。


以上のような調査者の意見を踏まえて、今回は自然地形の確認を重視し、関連遺跡の確認を通じて、

上述の自然堤防全体を肥塚氏館域として、調査する方針を立てました。


肥塚氏館のある自然堤防をカメラのキタムラ前の通り=東側から入ります。



館跡とは関係がありませんが、いきなり、特徴のある水路の合流点がありました。

非常に面白い施設だと思います。

さて、自然堤防の東端には熊野神社、辛神社があります。







辛神社・・・これは珍しい名前の神社だと思います。千葉県の茂原市に同じ名前の神社があるようですが、

関係は不明です。茂原の辛神社の名の由来は、創建の宝亀二年が辛亥であったことにあるそうで、この要領ならば、

どこでも辛神社は成立します。



熊野神社も合祀されています。

元の道に戻って、西へ直進すると、肥塚氏供養塔のある成就院墓所があります。

肥塚氏の供養塔はこの墓所の脇にある道を入って奥にあります。







板石塔婆が2基あります。







昔に比べて随分整備が進みりっぱになったという印象です。

私が訪ねてきた頃は、墓所の隅に申し訳なさそうに建っていました。

さて、肥塚氏に所縁のある成就院にたどり着きました。





昔は石垣のみのあけっぴろげな雰囲気の寺で、本堂ももっと古かった気がしました。

成就院の境内には、付近の古墳より出土した石棺と、その古墳上に祀られていた祠が安置されています。








さて、成就院周辺の地形を確認します。



上の写真は門前の様子を写したものです。寺の周辺は宅地開発が進んでいますが、もとは低湿地で、

成就院は自然堤防上の南側ギリギリの位置に建てられていたことがわかります。



写真左側に宅地がありますが、この住宅の南側はさらに低い低地です。









ここがすごいと思うのは、自然堤防直下を流れる水路のわきに、溢水防止用の土嚢が積まれている点で、

コンビニの駐車場側は相当な低地なのです。

中世のころ、この自然堤防が地域において特異な意味を持っていたことが想像できます。

中世武士の所領経営にとって、コントロール可能な水が非常に重要であったことは、久下氏、熊谷氏の境界線論争のあった

熊久地区の項でも述べた通りです。ここでも、周囲の豊富な水を利用した農業生産が行われていたことは想像に

難くありません。






成就院の近くに、肥塚伊奈利神社があります。この神社は神社合祀の過程で創建された新しいものであり、

肥塚氏と直接の関係は見出しがたいです。


さて、自然堤防の南側をよく確認したので、今度は館跡の周辺の調査に入ります。

遺構の確認の出発点は、結局、成就院真裏のここになります。




祠がありました。肥塚氏に所縁があるものかと思い確認しましたが・・。











あるいは、肥塚伊奈利神社は、元々、ここにあったのかもしれません。





路地を歩き回りました。


遺構状の土地の高まりや溝を探していると、ここで、思わぬものを発見いたしました。

基点としていた民家裏に大きな土塁があったのです。これは本当にたまげました。

住宅開発によって木々が取り払われ、丸見え状態になっていたのです。








実際、肥塚氏館跡の遺構は、未だ個人宅内に残存しているという推測はかねてからあったわけですが、

やはり、本当にあったのですね。

これは思いもよらぬ成果でした。

もっと、周囲の地形について突っ込んだ調査をすればよかったと、本記事を書きながら思いました。


こいしつ 久下氏ゆかりの寺社

2018-02-25 18:27:13 | 城館跡探訪
しつこく熊谷市域の久下氏・市田氏の遺跡について追いかけて参りましたが、

最後に、久下氏に所縁のある寺社について紹介いたします。

久下氏所縁の寺社は久下地区の旧中山道沿いにあります。

菩提寺としては東竹院が有名です。



参道脇には大きな駐車場が整備されて、参拝しやすくなっております。

また、駐車場傍には古い石塔も集められております。



参道からの遠景。




そして、東竹院の本堂です。




境内には小さな祠もあります。




久下氏の墓所は、この祠から少し離れた、本堂の南脇にあります。墓苑の入り口付近にあるので、お参りが容易です。













中世武将の墓所と一口に言っても、様々ですが、久下氏の墓所は、こじんまりしてはいますが綺麗で、今でも

参拝者がいると思われます。

東竹院には、だるま石と呼ばれる奇岩も安置されています。

その形がいかにもだるまのようなのでその呼び名がついたそうです。



確かに、だるまによく似ています。



久下氏に所縁のある神社として、三島神社があります。三島神社のうち、堤外地の外三島については、

ご紹介いたしましたので、内三島について紹介いたします。

内三島は、今の久下神社です。久下神社は、旧中山道沿い、久下小学校の脇にあります。





現在の久下神社は、内三島神社を村内の稲荷社の敷地に移転したものだと言います。








本殿脇には、合祀された神社の諸神が祀られておりました。










久下氏館跡については、地元の地誌の検討などを行う必要があると思いますが、ここまでで、一旦この項は

終わりにしたいと思います。追加情報があれば、新たに記事を書きたいと思います。