暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

日向城(旧妻沼町)

2019-02-28 18:56:20 | 城館跡探訪
今回は、旧妻沼町にある日向城について書きたいと思います。

調査日は、2019.01.29です。

わたしは低湿地帯・平場の城跡は夏場に回ればよいと思っていますが、今冬は、体調を崩してしまい

体調の持ち直した日の、日中の限られた時間を使って、地元の平場の城跡に行くことにしました。

日向城は、旧妻沼町、福川南岸にある西城、東城とそれほど離れていません。

この城跡群を訪問する方は、セットで訪ねた方がお得だと思います。


日向地区、長井神社の境内が、日向城です。

長井神社には不思議な大蛇退治の縁起譚が伝えられています。





水神信仰の最も古い形態は蛇であり、河童などの成立は、ずっと後代のものであるとると私は考えていますが、

これは治水・水利の技術水準とも関係するものでしょう。


城の話に戻ります。





長井神社は道路沿いからも入ることができますが、わたしは車を乗り入れず、少し離れた水田脇に駐車しました。

鳥居のある参道から入ります。

もっとも、水堀以降は神社入口付近にもはっきりと確認できます。




正直、かなり小規模の城郭を想像していたのですが、想像は良い方に裏切られそうです。

境内・参道沿いにも水堀遺構が確認できます。









さて、鳥居をくぐってすぐそばに祠があります。弁財天でしょう。



日向神社参道沿いには左右に水堀跡が残されています。

下の写真は弁天社の周囲のものです。








参道左側の、この生垣の向こうにも水堀跡があります。





注目すべきは下の写真で、民家の後ろ側に回り込むように展開しており、長井神社境内は、日向城の郭の一つに

すぎないと思われます。




長井神社社殿です。






社殿隣には巳海宮という祠があります。








ここにあったといわれる沼、「竜海」にちなむものだと思いますが、どちらが件の大蛇をまつったお宮なのでしょうか?


社殿裏に回ると、この辺りにも水堀跡があります。












既に述べたように、長井神社一帯は、日向城の遺構が最もよく残っている場所で、

実際には、郭の一部にすぎず、実際の日向城はもっと大きな城だったと考えます。

機会を見て、城跡範囲の推測のための追加調査に行きたいと思います。





小仙波堀の内(川越市)

2019-02-27 19:46:23 | 城館跡探訪
今回は、川越市の名刹、喜多院内にある小仙波堀の内について、書きたいと思います。

調査日は2019.01.30です。

川越市といえば、喜多院内に移築された江戸城の一部や、市内に保存された町並みから

小江戸と称されて有名です。

喜多院には、私も小学生のころ、家族と毎年、初詣に来たなじみのある寺院です。


さて、喜多院は水のない深い堀によって囲まれています。

このことからなのか、堀の内という小字が残されており、平安末期から仙波氏の城館跡とされているのですが、

川越城との関係性や、喜多院の再興や増築などとの関係から、現在残る堀は川越城の支城としてつくられたもの、

喜多院と関係するものであるなどの考え方も有力のようです。


今回はそのあたりも検討できればいいなあなどと考えながら、JR川越駅に到着します。

JR川越駅から素直に歩いたのですが、静かな通りを選んだせいか、喜多院の裏口であるドロボウ橋付近に

到着してしまいました。

早速、立派な堀がお出迎えです。





ごらんのとおり、この堀は非常に深く、幅広の立派なもので、こういう点が、平安末から鎌倉期のものとは思えない

印象を与えているのだと思います。

私的な見解ですが、喜多院一帯は、仙波氏の館跡である小仙波堀の内に、室町期の川越城の支城の遺構が複合した

ものであると推測しています。






せいげつ橋です。

下の築山状の構築物も、川越支城の土塁ではないかと推測します。










せいげつ橋の先には、有名などろぼう橋があります。






ここに伝わる伝説については看板を読んでいただくとして、ドロボウ橋直下の堀です。





この辺りから、小仙波堀の内の遺構が複合していると思います。

小仙波堀の内があったのは、川越東照宮一帯と推測できますが、ここは東照宮の裏手に当るからです。











慈眼堂の脇に、先ほどの空堀が続いており、その向こうに東照宮があります。

ここが目的の小仙波堀の内の館跡です。








厳島神社が奉納されており、この辺りは夏場湛水するようですね。









東照宮の堀は長方形です。







東照宮は神社なんですね。鳥居があります。



ここも堀が深いですね。




郭内です。











中央には東照宮の座する山があります。これも城館遺構なら、かなり風格のある館跡になりますね。

仙波氏は鎌倉幕府の有力武士でもありましたから、可能性はあると思います。


堀端を歩いてみます。



















土塁遺構らしきものもあるにはありますが、ちょっと?ですね。








立派な構え堀が印象的な館跡です。

羽尾城跡(滑川町)

2019-02-26 18:13:11 | 城館跡探訪
本日は、滑川町の羽尾城跡について紹介いたします。

調査日は、2019.01.23です。

森林公園前を通過する元有料道路を南下すると、市野川を越える橋があるのですが、

その橋の手前を左に入ると、市野川沿いの丘の上に羽尾城跡があります。

羽尾城は東西に細長い長方形の城で、東西にかけて三つの郭が並んでいます。

現在、中に入れるのは、中の郭だけで、西側は私有林と民家があって、あまり詳しく内部を見ることはできません。

また、櫓台のある東の郭は、東京の会社の所有地で、工場建設予定地でしたが、

埋蔵文化財に対して知識のなかったようで、発掘をしなければならないことを知って、

計画を断念し、腹いせに周囲を柵で囲って管理を放棄して30年近くを経過しているそうで、

もう、荒廃し放題になっております。

わたしは、羽尾城は3度目なのですが、1985年前後の時点でも東の郭は荒れていましたが、

現状はもっとひどくなっております。

よって、外周の堀と土塁の状況、中の郭の主要部分、東の郭の一部、市野川に面したテラス状の斜面部分

を調査することにしました。

羽尾城の周囲は散歩道コースとして整備されています。入口にも看板があります。



この農道に入っていけば、すぐに城跡にたどり着きます。



羽尾城は堀と土塁がなかなか立派なのですぐにわかります。この辺りが中の郭と西の郭の境目です。




中の郭に農道があるので、少し中を見させてもらいます。

これは、中の郭の北側の堀と土塁です。



西の郭は、きれいな林になっています。



ただ、民家が多いのであまり奥には行けません。

中の郭は畑になっており、きれいに耕されています。よく管理されていますね。





中の郭と東の郭を区切る土塁、堀を見てみましょう。












東の郭は中に入れないばかりか、管理もしていないために荒れ放題で、近隣の住民にも迷惑をかけているそうです。

東の郭の東側外周を見てみます。



東側は、なだらかながら谷状にえぐれています。

空堀は確認できません。








折角なので、東の郭に接近してみました。







土塁は確認できますが・・・もう、中はヤブ以上に雑木が繁茂しています。


市野川沿いに下ってみました。





ここでの目的は、城跡の井戸跡を探すことです。

井戸跡は中の郭のテラス部分、斜面の中腹にあります。

地元一の旧家の方にお願いして、井戸跡を見せていただきました。

こちらのお宅には、金井塚良一先生がよく調査にいらっしゃっていたそうです。


テラス状の部分です。ここには、かつて2軒の民家があったそうですが、現在は町場に転居なさったそうで、

農地になっております。




井戸跡は畑の中にあるユズの木の根元にあります。







この井戸は、戦後にごみや土がたまってかなり埋まってしまったそうですが、痕跡とわかるくぼみがあります。

さらに、羽尾城の斜面には、羽尾城に所縁のある旧家2軒が祀っている八幡社があります。

そこも見せていただきました。









城跡にかかわる古い板碑がありますが、この板碑は、2軒の旧家のものだそうです。

井戸跡や羽尾城に関係のある八万社の存在を確認できたことは収穫でした。

なかなかいい調査になったと思いました。

羽尾堀の内(滑川町)

2019-02-25 21:37:34 | 城館跡探訪
今回は、滑川町の羽尾堀の内について記事を書きたいと思います。

調査日は2019.01.23です。

羽尾堀の内は、羽尾神社の境内とその周辺地域を含みます。



羽尾一帯は謎の人物、羽尾恒儀(はねおごうぎょ)こと藤原恒儀(ふじわらつねのり)が治めていた地域らしく

地元では伝説的人物として知られています。



以下にも由緒ありげな石碑が格好いいです。



羽尾神社本殿です。



羽尾神社本殿一帯は周囲よりもかなり高い場所にあります。



羽尾神社周辺は、広範囲を掘りで囲まれています。

農業用水の整備事業に伴って、U字溝などに替えられていますから、そこを感じる勘が大事です。

まず、本殿脇に土段があります。





ここは、何か構築物っぽいですね。

ただ、館跡に関係するのかは微妙か?

もしかしたら儀式などを行う平場だったのかもしれません。






本殿裏に空堀があります。









空堀の向こうには平場があるのがわかりますが、ちょっと入れそうにもありません。

さらに奥にもう一本空堀があって、堀の内内は少なくとも3つに区分されていたようです。

神社の脇にも水堀跡があります。





ここは非常にわかりやすく遺構です。


本殿裏の空堀を横から撮影します。






社殿脇の水堀跡に戻ります。




畑の隅に墓地がありますが、この墓地のところに、もう一本、社殿裏の空堀と同じような空堀があります。




社殿裏には、畑と荒れ地があります。







この畑も堀の内の中に含まれています。


この道は山側に折れますが、この道沿いの側溝が堀の内の堀あとであります。

これは、地元の方にご教示いただきました。






この辺りまでが堀の内ということで、ここを進めば神社にたどり着くのかな・・・。



羽尾堀の内の訪問は80年代から、2度目なのですが、改めて歩いてみるとかなり大きなものでした。

今回の調査では、地元の方に多くのご教示を受けました。



水房館(滑川町)

2019-02-24 02:57:30 | 城館跡探訪
鎌倉武士の小山朝政が住んだと伝えられている水房館は滑川町の水房にあります。

ここに来るのは1980年代から3度目になりますが、東条線沿線の住宅開発が進み、

また、水房地区の道路整備も進んで、当時の風景とはかなり変わってしまいました。

80年代半ばごろまで幹線道路以外は砂利道だったんですから。

調査日は2019.01.23です。

いろいろ迷走しつつも、水房地区にたどり着きましたが、面影が全くありません。

仕方なしに、景色で見当をつけ、周囲のこれと思ったお宅に水房館について尋ねますと、

「ああ、それなら後ろの山だよ」。

地元の方は、水房館についてはクールに見ていて、「そういうものがあったと伝えられている」という、

冷静な言い方です。

また、「館跡と伝えられるところには、4基の古墳があり、昭和40年代から50年代ころに発掘調査が行われたが、

大したものは出てこなかった」とのことでした。

この古墳は、現在でこそ古墳とされていますが、地元の伝承では、小山朝政が打ち取った武将の首級が埋められた塚

といわれており、そんなところから、十二単の姫の幽霊が現れるという、前回訪問時の聞き取り結果が現れる

根拠ともなっていると思われます。

さて、水房館をふもとから眺めます。



山というにはかなりなだらかな低山なので、入口まで来るまで登ってしまえば楽です。

「この辺りはイノシシがたくさん出現するから気をつけて」

確かに、イノシシ注意の看板がかなり見られます。


ここが水房館の入口です。





ここを南側から入ろうとすると、かなり苦戦します。

水房館には、堀切や土塁などの構築物はなく、代わりに主郭と、それを取り巻くように、南斜面に腰郭状の

2の郭、3の郭があります。

伝首塚は、この2の郭、3の郭に分布しています。前回は、愚直にもここから登ってしまい、

小さな塚を確認したにとどまりました。

この辺から登ろうとした記憶がありますね。





地元の方も、「塚はヤブが深くなっており、見つけるにも非常に苦労する。自分は最近近づいたこともない」と

教えられていたので、今回は、主郭に回り込もうと思いました。

倒木にふさがれていますが、山道らしきものがあり、庚申塔があります。





このヤブと倒木にふさがれた場所を強行突破すると、一気に道が開けます。

とはいえ、何だか「この先に入るなよ」と暗示されているようにも思え、

中学生のころだったら怖くなって撤退していたと思います。



道は、主郭を北側に巻き込むように回り込んでいます。

下の写真は、主郭を巻いている山道から、主郭の斜面を撮影したものです。

主郭はかなりの段差があります。



うす暗い不気味さに耐えれば、すぐに主郭の楕円形の平場に出ます。

平場は広く削平されており、石の祠があります。







これは、石の祠の背後ですね。南側が正面になります。

平場にはいくつかの踏み跡があります。



平場には南に向かう踏み跡があります。

と言ってもうかつに歩くと道を見失いそうですが。

この先に小さな坂があります。



下の写真が2の郭上です。2の郭から3の郭に降りる坂道を見ます。



ここが3の郭上です。



かなりや部が深いです。

ここはあっさり引き下がり、ますか・・・。

2の郭から主郭に登る坂です。



あとは、2の郭を撮影しておきます。



主郭に戻って、石祠を撮影します。









今回、水房館の全貌をようやく把握したのですが、主郭が想像以上に広かったのには驚きました。

伝首塚を探すには、相当の藪こぎが必要だと思います。

もう一度くらいは、首塚探しに来たいと思いました。