暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

三宅屋敷②(熊谷市)

2019-08-31 14:13:52 | 城館跡探訪
三宅屋敷の情報を求めて、なぜ龍泉寺に行ったのかといえば、

龍泉寺には、渡辺崋山の『訪瓶録』の写本(龍泉寺本)を所蔵する、

崋山の三ケ尻来訪に縁の深い古刹だったからです。

猛暑炎天下にもかかわらず、龍泉寺には多くの参詣客がいました。

最近の御朱印ブームが影響しているようで、龍泉寺の事務方は大忙しのようでした。

手を煩わせるのを恐縮しながら、三宅屋敷について尋ねました。

奥から、龍泉寺に直接関係があると思われるご婦人が現れて三宅屋敷についてご教示をいただきました。

この方は、大分以前、市の教育委員会の三ケ尻地区の古跡を見学する回に参加なさったそうです。

「三宅屋敷は、三尻小学校の近くにあるんだけど、何もなかったわ。それに、口頭ではなかなか説明しがたい

ところにあるのよね・・・う~ん。」

結局、詳しい話は、三尻小学校の付近の住人に聞いた方がわかりやすいということになり、

わたしは龍泉寺を辞して、三尻小学校に向かいました。

「あっさり見つかりそうだな・・・・」。この時私はそう思ったのですが、思惑は大きく狂っていきます。

まず、三ケ尻の集落は、非常に歴史のある集落で、昔ながらの民家が目に付きます。

道は狭く、不規則に入り組んで、一本道を間違えると全く別の場所に向かってしまい、

三尻小学校にすらたどり着きません。

ようやくたどり着いた三尻小学校は、観音山裏から地続きの丘の突端上にありました。

草刈をしている地元の方を発見し、三宅屋敷の場所を尋ねました。

『訪瓶録』所載の古地図を見せると、この方は小字まで詳細にご存知でした。

三ケ尻の集落の方は、小字まで詳細にご存知の方が多く、ご親切な方が多いのですが、

ただ、三宅屋敷の場所がわからないのです。

「この辺りで、一番の旧家は権田酒造さんだから、そこで訪ねてみるといいよ」

というわけで、三尻小学校の東、坂を下った場所にある造り酒屋、権田酒造さんを尋ねましたが、

あいにくのお休み。

結局、集落内をたずね回りましたが、三宅屋敷は分からず、完敗ムードです。


仕方がないので、ここから地形読みに入り、いくつかの比定地を探し出すことにしました。

その結果、2か所、可能性のある場所を探し出しました。

1つはもろに民家なので、その場での撮影はあきらめました。

もう1か所は権田酒造さんのはす向かいにある土地で、ここは雑木林になっていました。



三尻小学校から坂道を下る、左側の雑木林がそうです。

ここが土塁状になっているので、もしかしたらの期待を込めて撮影し、一時撤退しました。


自宅に戻って資料を調べてみると、三宅氏が所領時代に創建された、幸安寺というお寺があることを知りました。

この幸安寺は、地元の有力な旧家の菩提寺になっています。

追い詰められた私は、幸安寺の情報に期待をかけることにしました。

(つづく)

三宅屋敷①(熊谷市)

2019-08-30 19:45:02 | 城館跡探訪
今回は、熊谷市三尻地区にある「三宅屋敷」について書きたいと思います。

調査日は、2019.08.18及び2019.08.21の2日です。

熊谷市三ヶ尻(三尻)地区は、熊谷市の西部にあります。熊谷扇状地の扇頂部に位置するため、

旧熊谷市域には珍しく、観音山という小さな山があります。

三尻といえば、渡辺崋山の調査記録『訪瓺録』(ほうちょうろく、ほうへいろく)が有名で、

三宅屋敷は『訪瓺録』に記録されていますが、同じ館跡ならば、黒沢屋敷の方が有名です。

埼玉県の城館跡に関心をお持ちの方なら、黒沢屋敷の名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。

黒沢屋敷は土地改良事業にかかって、昭和58年に発掘調査が行われた後に、

機場(ポンプ場)が建設されてしまいました。


一方の三宅屋敷ですが、ここは、安土桃山時代末期、徳川家康の家臣で三ヶ尻地区の3,000石の領主であった

三宅康貞の屋敷跡です。その後、三宅氏は大名になり、三河国挙母藩(ころもはん)-田原藩と国替えされました。

渡辺崋山は、田原藩藩士で、第13代藩主の三宅康直の命によって、田原藩の家譜を作るため、

天保2年(1831)三ヶ尻を調査しました。その成果が『訪瓺録』です。

三宅屋敷は、三宅氏の挙母藩に向かった後、笠原氏(三宅氏の縁者か)という農民が居住していましたが、

渡辺崋山の調査時には、既に荒廃していたようです。

三宅屋敷周囲は水堀があり、「堀ノ内」と呼ばれていました。屋敷跡の片すみには井戸があり、

三宅井戸と呼ばれていました。堀跡には蓮の花が咲いたと言われています。

三宅屋敷には、不気味なうわさがあり、周囲の蓮の花をとるものは必ず病にかかり、井戸を荒らすものがあると、

陰火が出現し、荒らすものに祟ったそうです。



こんな、三宅屋敷の場所を探し遺構を確認しようというのが、今回の調査の目的です。

まず、三ケ尻観音山のふもとにある名刹・龍泉寺をお参りし、三宅屋敷についてご教示いただくことにしました。




(つづく)

平将門伝説と埼玉① 大内沢郷と恒持王 その2 (東秩父村)

2019-08-29 18:01:56 | 城館跡探訪
今日の記事は、前日に引き続き、大内沢郷と恒持王の遺跡について書きたいと思います。

調査日は、2019.07.31です。

前回の調査では、同行者が「腹減った~ぁ、つまんない~!マック食べたい~」とやりだしたので、

撤退しました。

そこで日を改めて調査に入りました。

御堂貝戸について、ご教示をもとに車を走らせます。

御堂貝戸の目印の一つに挙げられたのは、「北向地蔵」。

県道沿いに北を向いた地蔵がたっているということです。

まあ、県道は東西に抜けていきますから、西に向かって走っていれば左側に立っている地蔵は

すべて北向き地蔵なわけです。

といっても、走っているときはそんなこと思いも至らず、寄居に抜けてしまったので

もう一度戻って、峠付近にある公衆トイレの駐車場に入ると周囲の民家で、御堂貝戸について

確認をします。

ようやく、御堂貝戸の正確な場所がわかりました。

これが北向地蔵です。








ここは、井戸と呼ばれる場所だそうです。

さて、御堂貝戸はこの奥です。

御堂貝戸(ミドガイト)は奥の旧家の屋号で、下の写真の坂道付近が御堂貝戸(ミドガイト)に含まれます。





さて、御堂貝戸(ミドガイト)のお宅で、お話を伺うことができました。


昭和40年代~50年代にかけて、平将門ブームがあり、伝承を知って訪問してくる方が時々いらっしゃったそうです。

恒持王の遺跡についてお尋ねしたところ、苦笑いをなさって言いました。

「この坂の入口のあたりが御堂貝戸の名の起こりになった場所・・・」

「入口付近には集落のお墓がありましたが・・・・」

「そう。その下の猫の額みたいな平場があったんだけど、そこが御堂貝戸」

え!?

「そこの平場に、お堂があって、そこが御堂貝戸の起こりになった」

「今は、ありませんよね。」

「うん、今は、うちの裏山に移築されたよ」

「行けますか?」

「うん。行ける。」

「恒持王の館跡と言われる場所は・・・」

すると苦笑しながら、

「そのお堂のあったあたりなんだっていうんだけど、あんな場所には館は建たないな。

普通のうちも無理。お堂で精いっぱい」

「井戸という場所に、平将門が館を建てたという伝承がありますが・・・」

「井戸は、この山の下の街道沿いのことだけど、あんなところだってこんなちっちゃい猫の額みたいなもんでしょ。」

「平将門と恒持王が同一視されたということはないのでしょうか?」

「う~ん。そういうこともあるかもしれないけどね・・・。正直、館の跡は今言った土地だよね。

むかしはね、もう少し細かい話も覚えていたんだけど、今になると説明できないな。大分忘れてるよ」


ということで、御堂貝戸の調査に入ります。

どうも、ここが御堂貝戸の名の起こりになった平場付近です。




下の写真の平場にお堂があったのです





お堂の上は墓地になっていて、舌状に突き出た大地の上には平場があるようです。

館を作るならばこの台地状が適当だったのではないでしょうか。

地形的に見ても、立地の面から見ても、伝恒持王館跡にはこちらの方がふさわしいですね。







次に、下が伝平将門館跡の井戸の平場です。




では、御堂貝戸の起こりになってお堂はどこなのでしょうか。

ご教示いただいた通り、御堂貝戸(ミドガイト)のお宅の裏山に登ります。

アクセスは案外簡単で、花桃の郷に行く途中にありました。




慈雲堂です。ご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。






これが御堂貝戸の名の起こりになった、恒持王ゆかりのお堂だったとは・・・。









(本記事、終わり)


※ このシリーズは、不定期連載です。新しい調査取材を行った時に、新しい記事を書きたいと思います。


平将門伝説と埼玉① 大内沢郷と恒持王 その1 (東秩父村)

2019-08-28 20:06:09 | 城館跡探訪
今日は、「平将門伝説と埼玉」をテーマに、その伝承の残る土地と、

館跡について書いてみたいと思います。

本記事の調査日は2019.07.28です。

東秩父村には、かつて「大内沢郷」と呼ばれた地域がありました。

地域は東秩父村の大内沢(近くには、近年、「桃源郷」として有名になった花桃の郷があります)、

から、登谷山を越えて寄居町の風布、皆野町三沢までを含む広大な山村地帯です。

ここに、平家の祖となった高望王の弟、恒持王が配流されてきたという伝説があります。

大内沢にある大内沢神社(大内神社)は、恒持王を祀ったものだそうです。

下の写真は大内神社です。










さて、突然ですが、わたしは別に平将門ファンではありません。

にも、かかわらずこんな問題に首を突っ込むことになったのは、親戚の子供からこの件について、

調べるように頼まれたからです。

この神楽をやっているとかいう面倒くさいガキは、「おじさん、大内神社って知っている?」の言葉を皮切りに

ねちねちと絡みだし、「恒持王の館跡を調べて、見つけ出してほしいんだけど」といいやがるのです。

もちろん私自身、そんな館の跡の話は聞いたことありません。

さっさとけりをつけようと、とりあえずネット検索をかけましたが、恒持王の館跡なんてありません。

家にもそんな資料はありませんから、仕方なく炎天下を自転車に乗って図書館に行きました。

郷土資料コーナーを見回していると、『武蔵國郡村誌』という面白そうな資料を見つけました。

その中から大内沢村の項を見つけました。

『武蔵國郡村誌』によれば、御堂貝戸、井戸、長者屋敷という地名があり、御堂貝戸、井戸は、

恒持王、あるいは平将門に関係する旧跡であることがわかりました。

この情報を手に、現地に入ることにしました。

ところが、御堂貝戸・・・などと一口に言っても、それほど簡単な話ではありませんでした。

地図で貝戸という地名の場所を探して、その付近だろうと見当をつけましたが、現地に入っても、

折からの高温状態で、地元の方はほとんど外にいません。

また、実際に話伺っても、「御堂貝戸」などという小字を知っている人はいませんでした。

とりあえず、調査過程で立ち寄った寺院です。


正善寺


















高円寺






馬頭観音




お寺のお堂は比較的新しいもののようです。

馬頭観音の碑は、なかなか雰囲気があります。


さて、肝心の「御堂貝戸」ですが、ようやくご存知の方に話を伺うことが出来ました。

「御堂貝戸」(みどうかいと)は、地元では「ミドガイト」と発音します。

場所は下を走る県道沿い、「井戸」という場所も「御堂貝戸」の周囲だということでした。

(つづく)

光屋敷(熊谷市)

2019-08-27 14:56:36 | 城館跡探訪
久しぶりに記事を書くので、何を書こうか迷いましたが、

今回は熊谷市中条にある光屋敷について書きたいと思います。

調査日は2019.07.29です。

光屋敷は「みつやしき」と読むのだそうで、中条氏館跡に近接しています。

中条氏館の北方に観音寺と言うお寺があります。

この地域は今井という地域です。

観音寺は、中条氏の政庁跡地だそうですが、特段、遺構は残っていません。













大きな宝篋印塔があったのですが、どうやっても写真が寝てしまいます。

観音寺には地蔵菩薩図像板碑が秘蔵されており、高校生の時、拓本をとらせていただきました。


さて、光屋敷跡は観音寺の西側にあります。

光屋敷上は、県道の敷設、区画整理によって、遺構は大きく損壊されてしまいました。



光屋敷は、下の写真の北側から、次の交差点あたりまでの一帯です。



館跡は光屋敷と言う名前の集落で、全体を館跡だと考えればかな大規模なものだです。



かなり暑い日でしたが、自家栽培のミニトマトを売るおじいさんがいたので、光屋敷について

たずねることが出来ました。

下の写真は、南側エリアですが、この辺りには往時をしのばせるものはほとんどないそうです。







堀跡も区画整理の中に取り込まれており、面影は失われているようです。


下の写真の屋敷林の左側の圃場あたりは、かつては湧水のある沼沢地であったそうです。



そのほか、県道をまっすぐ行って観音寺に入る集落道のあたりに、大きな土手があったが、

県道工事のため大きく損壊されたとの事でした。


では、湧水のあったという水田に向かってみます。

下の写真は、光屋敷集落内です。猛暑のため、集落内には人気が感じられませんでした。







この辺りですね。




接近してみます。







この辺りが泉だったのですね。

この民家の背後にある堀は遺構のようです。

勘の通りならば、この水堀に付属する土塁が県道付近にあるはずですが・・・。

堀沿いには歩けそうもないので、農道を使って移動します。



北側から見た光屋敷です。



この交差点の右側が、光屋敷です。右折します。





この辺りが、教えていただいた土塁のようです。









わずかですが残っていましたね。


次いで、県道を挟んで観音寺側も見ましょう。











観音寺西側にも民家があり、遺構の調査は難しいようです。

猛暑にもかかわらず、自転車出来てしまったのもかなりのダメージでした。

おじいさんのところで、ミニトマトを買って、次の目的地に移動です。