暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

不二洞(群馬県上野村)②

2018-10-23 21:14:40 | 神社仏閣・その他
秩父地域は石灰岩が豊富に産出することで知られ、特にその代表は武甲山です。

武甲山のふもとには橋立鍾乳洞というのがあり、ここも宗教遺跡的な意味合いを持っているのですが、

行ってみるとかなり窮屈で狭いものです。

ところが、不二洞の規模たるや、橋立鍾乳洞とは比較にならぬ有様です。

昨日、紹介の空穴ですが、これが主洞とされるのは、旧入り口から入ると間もなく、

この縦穴が真下に落ちているためです。




わたしたちは、縦穴の壁にあいている枝穴を見学することになります。



不二洞内は完全に調査が済んでいるわけでは無く、洞内には河川もあり怖いです。

らせん階段を上り、大きな枝穴に入ります。

いきなり外に出る穴が見えたりするので驚きますが、枝穴は深く、簡単には出してくれません。






正直、LEDの光が却っておどろおどろしいのですが、当地は近年、ベトナム人旅行客や中国人旅行客が訪れているようで、

こうした効果を使った方が受けるようです。

悠久の滝・・・不二洞内の奇岩・奇石には一つづつこうした名前がついています。



名前の多くは仏教に関連した名前です。

悠久の滝はあまり仏教ではないですが。






しかし、無名の岩々のディテールも味わいがあります。

これも枝穴の一つなのですが、あまり深くないのでしょう。実際、枝穴はいくつもあり、

一つ一つ相手にしていては時間が足らないし、危険でもあります。

足場を設けていない枝がたくさんあるのです。


有名な蝙蝠のグアノ(糞石)です。



ただ、洞内は結構蝙蝠の糞だらけの場所があり、子供たちの「グアノだらけだ~!」という悲鳴が聞こえてきます。


不二洞(群馬県上野村)①

2018-10-22 20:26:49 | 神社仏閣・その他
群馬県上野村にある不二洞は関東最大の鍾乳洞であると同時に、宗教遺跡でもあります。

私も過去数回、不二洞に行ったことがありますが、久しぶりに訪問いたしました。

鍾乳洞というよりも、宗教遺跡としての面を重視しての探訪です。

2018年07月31日の訪問です。


不二洞は群馬県の下久保ダム沿いを経由して、神流川をさかのぼり

恐竜の足跡の化石で有名な神流町恐竜センターのさらに奥にあります。

新道は非常に整備されていますが、そこから山の中腹に向かう山道は狭いので、

あまり大型の車で行くと厳しいです。

不二洞の由来ですが、今から約1200年前、岸壁でサルが集まって騒いでいるのを発見した村人たちが

不思議に思って登ったことで、発見されました。約400年前に藤原山吉祥寺の僧、中興開山上人が初めて

最奥部まで足を踏み入れ、洞内を探索し、修行の場として利用するようになりました。

約200年前、ふもとの川和集落に疫病が流行しました。吉祥寺六代目の住職、悦巌上人(えつがんしょうにん)は、

天台の百巻経を小石に墨書して、洞内に収めて祈願しました。疫病は収まりましたが、悦巌上人はその大祈願の行の後

そのままどこかに立ち去ってしまい、行方知れずになりました。

その後、洞内の調査が行われた際に、実際に経文を墨書した小石が大量に発見されたばかりではなく、

悦巌上人のものと思われる遺骨が発見され、行方知れずになったと思われていた悦巌上人は洞内に入定していた

ことが明らかになったというものです。


当日は抜けるほどの青空。見事です。




さて、現在の不二洞は、サルたちが教えてくれた開口部ではなく、現代になって掘り抜いた人坑道から入道します。

そこに行くまでが大変です。結構坂道が長い。





5分くらい歩いて入り口に到着です。



解説板です。



さて、このトンネルのドアを開けると不二洞です。

ですが、開けた瞬間の噴き出す風がものすごいです。





このトンネルのなかは冷え冷えで夏の暑さは関係ありませんね。




あれ?何で青い光が・・・。かつては、普通の白熱灯だった気がしましたが・・・。




暗い洞内なので手ブレの影響がもろに出てますね。

何より驚くのは道内の見学者たちの歩く速さの速いこと。大騒ぎで、走っているのに近いです。

普通の趣味の人なら、2度くらいまでしか来ないような鍾乳洞なのですから、混雑しているわけでもないのに、

もう少し落ち着いてみてもいいのではないかと思いました。勿体ない。

洞内はところどころ、青や赤のライトがついています。LEDなんだな・・。

でも、この電飾は、宗教遺跡には必要ない気がします。

このらせん階段のあるのが不二洞の主洞で、「空穴」と呼ばれています。




宗悟寺と森川氏墓(東松山市)

2018-10-21 19:50:23 | 城館跡探訪
比企氏遺跡群の近くには、宗悟寺という寺院とそこにある徳川幕府重臣の

森川氏墓所があります。

既に多くの方のブログなどで取り上げられていますが、わたくしも記事にしてみたいと思います。

訪問日は2018年07月29日です。


宗悟寺は森川氏の開基になるお寺です。

実は、この宗悟寺と私の母方の祖母が懇意にしていたため、和尚さんの話をよく聞いていました。

ビールは麦般若と呼ぶらしいですね。まあどうでもいいのですが。

私が中学生のころ、比企氏の館跡を初めて訪ねた時に、一緒に宗悟寺を訪問したことがあります。

そのころは門前に萩の花がざっと枝垂れており、「不許葷酒入山門」の碑があったのを覚えています。












宗悟寺は参道が非常に良い感じです。

ただ、昔の記憶とはずいぶん変わっています。今の方がずっときれいな気がしますね。






山門も雰囲気がありますね。






境内もすっきり綺麗になっています。





白山権現の祠




そして、比企氏関係の顕彰碑も建てられており、比企氏ゆかりの地として地元の熱意も感じられます。






森川氏墓所は墓苑の入り口の右側にあります。

私の、母の実家は土葬だったせいもあり、いまでも、こういう土葬っぽい墓所に足を踏み入れるのが

遠慮がちになるというか・・・まあ、はっきり言って、土がボコッとへこみそうな気がして、

入れません。全部望遠でとりました。最近のカメラは、安物でもそれなりに性能がいいので

まあまあの写り具合です。

ずらり並んだ宝篋印塔・・・なんだか怖い気がしますね。

これは、夜はちょっとだめですね。
















宗悟寺はちょっとした高台の上にあり、眺めも良く、日本の田舎に来たという雰囲気を味わうことが出来ます。

下の写真は私の腕がないからあまり良く見えませんが。





比企能員館跡と比丘尼山(東松山市)

2018-10-19 21:36:52 | 城館跡探訪
今日は、比企能員館跡と比丘尼山ということで、若干の下調べ見学について

書きたいと思います。

源頼家の舅であり後見人でもあった比企能員は、頼家謀殺の後、北条時政に謀られて

命を奪われました。頼家の側室であった若狭の局は、比企氏の根拠地であった当地に

隠棲します。

普通こんな無念な滅び方をしたら、祟りの一つや二つあってもおかしくないよね・・・。


それはともかく、比企氏の館(比定地の一つ)が谷津の奥のゴルフ場の中にあったものですから、

比丘尼山はもっと奥の方かと思っていましたが・・・。



水田地帯に突き出したこの山が地元で「比丘尼山」と呼ばれている山です。



この山中に、隠棲地があるようなのですが・・・。

どうも、山中には荒神社が祀られているようなので、その辺りが隠棲地跡になるのでしょうか・・。

これはもう少し調べてみないと何とも言えません。

あるいは、ゴルフ場内の館跡といわれているものが、隠棲地なのか・・・。

串引沼の位置からみれば、その可能性もあり得るか・・・。

比丘尼山の周囲は軽自動車1台がやっと通れるほどの、小道があります。



本当に狭いので、そちらに気をとられて見つけ損ねそうですが、比丘尼山には横穴墓群が存在し

その解説板があります。

ただ、やぶが繁茂し、湿気の多いマムシの出そうな雰囲気の場所なので、突入は、冬になってからですね。





比企能員館跡と串引沼(東松山市)

2018-10-18 17:39:09 | 城館跡探訪
中学生時代以来、30年以上の時を隔てて、比企能員館跡と串引沼に行ってまいりました。

冬場の調査の下ごしらえという感じです。訪問日は2018年07月29日です。

比定地についてはいろいろ変化もあるようですが、中学生時代に地元の方々のご教示頂いたように、

串引沼の対岸、ゴルフ場内の丘の上にあるということで、再訪しました。



国道から細いわき道をはいっていくのですが、道端には石造物があります。





道路開発が進み、館跡との距離感がかなりくるっていました。

入り口には、若狭の局の隠棲した比丘尼山があります。この山の上には荒神社があるそうです。


さて、串引沼は現在農業用のため池、釣りのポイントになっています。

結構広い池です。



記念碑や沼の解説板が設置されています。






水神を祀った石祠だと思いますが、中は空っぽです。




串引沼の遠景です。



串引沼は櫛引沼ではなく、団子の串の、串なのです。



写真奥の辺りが館だと聞いております。








沼の傍らには、青面金剛像があります。庚申塔の意味があります。



小さな神社がありますが、ボロボロに朽ちかけており、祭神もわかりません。

館跡と何か関係があるのでしょうか。