竜宮十字路の道標
今更であるが、これは10月16日に鳩待峠から横田代
アヤメ平と回り、長沢新道を下り、尾瀬ヶ原の竜宮に出て
牛首、山の鼻と周回し、鳩待峠に戻った時の続きです。
前回は、竜宮に降りたところまで書いたので、今回は
その続きであるが、尾瀬ヶ原の事は、大勢の方が書いているので
写真と簡単な説明にとどめる事にします。
竜宮十字路から見る燧ヶ岳、手前に見えるのは、中田代と
下田代の境界になっている沼尻川の拠水林で、林の中に
見えるのが竜宮小屋である。竜宮小屋の近くにはトイレも
有るので、寄り道しても良い。
ベンチの周りにあるブルーシートをかけたものは、尾瀬ヶ原で
使う木道工事の資材だと思う
観光客の少ない晩秋から雪の降る前に工事するようだ。
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補足説明をすると、尾瀬では湿原の事を田代と呼ぶ
尾瀬ヶ原には、大きく分けて三つの湿原があり、山の鼻側から
上田代、中田代、下田代と呼ばれている。
その境界は、いずれも拠水林と呼ばれる林を境にしている
この沼尻川の拠水林は、中田代と下田代の境界であり
また沼尻川は、群馬県と福島県の県境でもある。
竜宮から燧ヶ岳を目指して沼尻川を渡ると、そこはもう東北である。
(尚、沼尻川は尾瀬沼から尾瀬ヶ原に流れ出す唯一の川でもある)
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さて竜宮十字路からヨッピつり橋の方を見ると、ちょうど
真正面に見えるのが景鶴山で、山頂の岩が独特の形をしている
この岩峰はニュー岩とか農岩とか呼ばれていて、溶岩の硬い
部分が残ったものだそうです。
上の写真の景鶴山をトリミングして拡大したもの
ちなみにこの山は、所有者が登山禁止にしていて登れないという
また山の名前は、深田久弥の日本百名山の至仏山の項に
「尾瀬ヶ原の北側に景鶴山(けいづるやま)がある。これなども
平鶴山と書いた文献もあるそうだからヘエズルから来たのに
相違ない。ヘエズルは匍いずるの訛ったもので、トラヴァース
の意である。」と記載されている。
(匍いずるを「トラバース」と言う事には抵抗を感ずる私です
どちらかと言うと、滑りやすい急斜面を四つんばい状態で
登るニアンスをもってしまう私です。)
それにしても、このときの一週間の尾瀬の旅で、一人の登山者
にも会わなかったと深田は書いている。うらやましい時代である
注、景鶴山は「けいずるさん」とも読まれているようだ
竜宮から見る至仏山、雲一つ無い青空が広がる
「雲がなさ過ぎて絵になりませんね」と言ったら
ご婦人方に笑われてしまったが、それほどの晴天であった
竜宮近くの池塘も秋色に染まる
尾瀬ヶ原の池塘の数は1800も有るという(尾瀬自然観察ガイド)
ゆっくり休んでいたいが、鳩待峠の終バスの時間までには
帰らなければならない。
ベンチで食事とコーヒーを飲んで、時計を見たら13時13分
だった。
あわてて支度して出発した。休んだ時間は20分少々である。
竜宮十字路からほど近いところで、木道の付け替え工事を
していて、登山者は仮設の木道を歩かされる。
この仮設の木道は、湿原に直に置いたものなので、ぐらぐら
不安定であるし、一本道なのですれ違いも困難だった。
(写真の右側に敷いてあるのが仮設の木道、左側は新しい木道
を付け替えている作業員の方)
奥に見えているのが至仏山
仮設木道を抜けてまもなく、まっすぐな本道から左に分岐して
周回する木道がある。
これが竜宮の名前の由来になった竜宮の入口への道である。
竜宮の入口と呼ばれる地下水路の入口、初夏には回りの流水を
集めて渦を巻き、トウトウと地下に吸い込まれていたが
雨が少なかったのか、水量がなくて渦巻きもあまり見られなかった
竜宮の名前の由来は、この地下水路が伝説の竜宮に続いていると
想像して名付けられたという。
どうしてこの地下水路ができたか、今でも解明されていない
尾瀬ヶ原の謎の一つである。
竜宮入口から見える山麓の林が、秋の装いに輝いていた。
入口から本道に戻り、反対側の右の周回路に入ると、今度は
入口から吸い込まれた水が、再び地上に出てくる竜宮の出口
がある。
竜宮の出口
いかにも深そうな穴から、水がわき出している。
竜宮出口を覗くと、沢山の魚が泳いでいるのが見える
どうやら「アブラハヤ」と呼ばれるものらしい。
最も国立公園の特別保護区なので、釣りなどはできない
ので悪しからず。
竜宮出口から流れ出た水は、再び川となって湿原を
流れていく。
尾瀬ヶ原にはいくつもの川が流れているが、木の生えている
川と、生えていない川があるのに気づくだろう。
その違いは、水源が山の場合、山の土砂を運んで流れるので
川の回りに木が生える条件ができるからだが、一方湿原などから
わき出した水は、運ぶ土砂が無いので木が生えないのだ
こうして水に運ばれた土砂に生える林を拠水林と呼ぶ
尾瀬ヶ原の湿原に何故木が生えないのかは、尾瀬自然観察ガイド
などの本を読んで欲しい。
尾瀬ヶ原の湿原に最近笹が増えてきている。
これは湿原の乾燥化が原因ではないかと密かに心配しているのだが
現在のところは有効な手だてが無い状況なのだろう。
日光の戦場ヶ原や那須の沼原なども乾燥化が進み、湿原が減少している
くさもみじもピークを過ぎて、晩秋の気配が漂う尾瀬ヶ原の湿原
かつて幕末から明治にかけて、イギリスの日本公使を勤めたアーネスト・サトウの
子息「武田久吉」は、日本山岳会の創始者の一人であると同時に
植物学者であり、自然保護の先駆けでもあったが、その武田博士が
「尾瀬再探記」の中で次のように述べている。
「草原も、森林も皆湿気に満ちている。しかしそれでも年と共に雨量は
減少の傾が有ると言うから、湿気も幾分軽減していくわけであるが
地形その他の関係で尾瀬地方が乾燥地に変ずることは近き将来には
あり得ないと思われる。」
これは大正14年発行の「山岳」に掲載された文であるが、将来の
地球温暖化までは流石に予想できなかったで有ろうから無理もない。
その後で次のようにも述べている。
「一言にして言えば、尾瀬は実に得がたき宝庫である。そして一面
その保護を講ずると共に、他面これを研究調査する必要がある。」
その後で武田博士は、尾瀬の保護の手ぬるさを悲憤慷慨しているのだが
その辺のところは、興味のある方は本を読んで欲しい。
現在、平凡社ライブラリーとして文庫本で出版されている「尾瀬と
鬼怒沼」に掲載されているから、中古本としても手に入れやすいと
思います。(私も中古本を買った)
同書には「尾瀬をめぐりて」という館脇操さんの文も載っているが
学術的記録なのだが、紀行文としても優れた表現で、尾瀬に関心が
有れば、心躍る文章である。
この辺の池塘には、浮島状の小島が有ったりする。
ところで、浮島には湖底につながっている固定浮島と呼ばれる
ものが有るという。あるいはこの島がそうなのかもしれないが
しかし湖底とつながっていたら浮島と呼ぶのは??では (笑)
水鳥がのんびり泳いでいたりする。
ヒツジグサも赤く紅葉して水面(みなも)を染めている
さて何と言っても忘れてならないのがこの場所
尾瀬の水芭蕉と至仏山を撮るビューポイントとして有名だ。
ここまで木道が設置されているので、寄り道して欲しい。
後ろを振り返れば、白樺と燧ヶ岳が見える
この場所は、ヤマドリゼンマイが群生している場所なので
秋の初めに来れば、ヤマドリゼンマイの紅葉と燧ヶ岳のコラボも
撮れる場所である。
木道の要所には、その場所を示すネームプレートが貼り付け
られているので、足下にも目を向けてみよう。
橋などには必ずつけてあるので、場所確認ができますよ。
逆さ燧ヶ岳を撮る池塘はあちらこちらに有るが、私が良く
利用する場所はここ
あいにく午後の風が出て今回は無理だったが。
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新規に書かずに前日の文に追加して書き込んだ
この項が終わるまで当分追加して書き込みします
牛首の近くに有るので牛首分岐とか尾瀬ヶ原三叉と呼ばれる
分岐についた。
ここにもベンチが多数設置されていて、一休みできるように
なっている。
ここから右へ行けばヨッピつり橋を通って東電小屋に行けるが
このときは、ヨッピつり橋が工事中で通行止めになっていた。
そのため東電小屋に泊まる予定のグループが、見晴十字路経由で
大回りコースを歩くハメになっていた。
牛首分岐のネームプレートには。次のように書かれている
ここは牛首分岐、竜宮十字路2.2km、見晴3.8km、
ヨッピ吊り橋2.3km、残念ながら山の鼻までの距離が書かれていない
書き添えると 山の鼻2.09kmなのでおよそ2キロと思えばよい
時間にすれば50分ほどである。
牛首分岐から山の鼻に向かうと、左から湿原にせり出したような丘が
見える。丘と言っても木が生えているので小山だが
これが牛の首の様に見えるところから、牛首と呼ばれる由縁だ
伝説によれば、ここに尾瀬大納言の城があったと言われる場所であり
以前はバンガロー村も有ったというが、今は道がないので行くことが
できない。
先ほど、水芭蕉と至仏山のビューポイントとして紹介した下ノ大堀は
尾瀬大納言の城を守るために掘られた堀だという伝説もある。
事実では無いにしろ、伝説はロマンをかき立てるから面白い。
牛首に近くなると、上田代と中田代の境界を果たす拠水林と
至仏山が大きく見えてくる。
よく見れば、至仏山の山肌が赤く見える。
紅葉もあの辺まで下って来たのだろう。
この上ノ大堀川を境にして中田代と上田代が別れている。
橋を渡ればいよいよ上田代である。
(注意、尾瀬には上田代と書く地名が二つある。尾瀬ヶ原の上田代
と燧裏林道に有る上田代である。漢字で書くと同じ上田代だが
それぞれ読み方が違う、尾瀬ヶ原は「かみたしろ」と呼び、燧裏林道は
「うわたしろ」と呼ぶ。面倒だが覚えておきたい読み方である。
私は燧裏林道を初めて歩いたとき、ベテランの登山者に教えていただいた)
ここにもネームプレートが貼ってあり、上ノ大堀川橋と表示
されている。
橋の上から左の山の鼻を見ると、川の畔が紅葉していた。
早くも西に傾いた光を浴びて陰影が濃くなっている。
時に午後の1時57分である。
上田代に入ると、大きな池塘がいくつもあり、その一つに
大勢のカメラマンが屯していた。じゃまにならないように
足早に抜けて、振り返って撮った写真がこれ
池塘の奥に燧ヶ岳、中景には右から山の鼻がせり出している
この辺は池塘のすぐ横を通るのでヒツジグサの紅葉も
近くで撮影できる。
右前方に見える八海山(背中アブリ山)の峰続きの山の頂が
見事に紅葉しているのも見えた。
左には中原山へと続く山の紅葉と池塘が美しい
小さい灌木帯に入ると、真っ赤なズミ(?)と思える実がなっていた。
似たような実をつけるものにカンボクが有るが、それは葉っぱの
先端が三裂すると言うから、カンボクではないし、この木は
切れ込みのある葉と無い葉が混在していた。
こういう風景が私は好きである。
どこか旅情をかき立てる趣が漂っている静かな尾瀬ヶ原の秋である
先行の二人連れの登山者が点景として良い雰囲気だ
やがて原の川上橋と呼ばれる橋を渡れば、山の鼻はもうすぐだ。
ここにもネームプレートが有る
って、自分の靴を写してどうする(苦笑)
ここまで来ると、至仏山の中腹の紅葉が肉眼でもはっきりと判る
橋を渡った先の風景、至仏山が西日で逆光になってしまったが
相変わらず雲一つ無い天気である。
終バスの時間を気にするあまり、私もうっかり忘れるところ
だったが、尾瀬ヶ原の湿原には「ケルミ(凸地)」と「シュレンケ(凹地)」
と呼ばれるしわが有る。
このケルミと呼ばれる帯状の高まりには、一つの方向性を持っていて斜面に
直交する方向、つまり等高線と同じ方向に並んでいる。
ケルミとケルミの間の帯状の窪地をシュレンケと呼び、上空から眺めると
人の指紋の様に見えるところから「指紋状パターン」と呼んでいる。
本当は上田代の別な場所に、もっとよく見える場所が有ったのだが
そのことをすっかり忘れていたのである。
と言うことで間に合わせの写真だが、凸地と凹地では生えている諸物の
違いにより、色の濃さが違い、濃い部分が凹地のシュレンケである。
このしわがどうして出来たのかは、未だ解明されていない尾瀬ヶ原の謎
の部分であるという。
この観察には、春の芽吹きの頃と秋の紅葉の時期が、生えている植物の
色違いでわかりやすいと言われている。
観察の適地として、原の川上橋を渡る前が推薦されている
山の鼻ビジターから行く場合は、原の川上橋を渡った向こう側である(牛首側)
今回は逆コースで歩いてきたので、紛らわしいかもしれないが
山の鼻の案内板の前にようやくたどり着いた。
時間は午後の2時21分であった。
山の鼻のビジターセンターの温度計を見ると15度前後を差していた。
それにもかかわらず私は汗だくだった。
終バスに間に合わせるため、早足で歩いたからである。
センター脇の長いすで一息入れた。目の前にツリバナの赤い実がはじけていた
ようやくバスに間に合う見通しが立って、内心ホッとしていたのである。
おもむろにトイレに行き、顔も洗ってさっぱりした。
もちろんトイレの募金箱に100円を入れた。
これにて「尾瀬ヶ原編」はおしまい。
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今回は寄らなかったが、山の鼻には「尾瀬植物研究見本園」という湿原がある
元々は「山の鼻田代」と呼ばれた湿原だったらしいが、昭和の40年代に、そこへ
尾瀬各地の植物を移植して、広大な自然植物園として開園しものである。
そこは尾瀬ヶ原でもなかなか見ることが少ない「オゼコウホネ」の花を
見ることが出来るというスポットでも有るという。
園内は一周2キロの木道が施設され、およそ500種の植物があり、拠水林も
有って、水芭蕉やリュウキンカの大群落も見ることが出来る。
ここは至仏山の山陰に有るため雪解けが遅く、尾瀬ヶ原ではピーク過ぎでも
ここでは満開という花が有ったりする。
私が斑入りの水芭蕉を見たのもここだった。
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最近話題の
PCの遠隔操作に使われている自分の
身元を隠す技術は、元々はアメリカ海軍が開発した技術だという。
世界各地に散らばっているスパイと連絡を取る際、その発信元がばれないように
痕跡を隠すために開発されたらしい。
メールやウエブサイトにアクセスすると、通常はIPアドレスというネット上の住所が
が残り、利用者を特定できる。
そこでアメリカ海軍は、専用ソフトを開発して海外の複数のサーバーをわざと経由
させることで発信元を隠す技術を用いたという。
今では民間レベルでも改良されて、FBIですら捜査に手を焼くという。
この技術は、内部告発などの際、送信元の割れるのを防ぐためにも使われているという
そのソフトの名前は、、、、、いや やめておこう(笑)
自分が被害者になったらたまらんからね。