ビスクドール・雛人形店・オーディオ販売 佐久市 ヤナギダ店長ブログ

ビスクドール64体他お節句雛人形をフランスへ輸出128年、軽井沢方面がお店の場所。

放念を、「風に逆らって薫るもの」

2019年07月27日 12時08分03秒 | owarai
肩書きや地位、財産、名声などは、
すべてはかなく消えていきます。
レッテルでその人を輝かせるの
ではありません。
問題は本質です。

人はあるところまでいくと、利徳
や恐怖、権力だけではついてきま
せん。

もはや、得るものもなく、特に不
利とわかっていても、その人に徳
があれば人はついていきます。

「徳とは行である。行とは見返り
を求めずただ行うころである」と
道元は言っています。

上になればなるほど、必要なのは
徳を磨くことだと思います。

「法句経」第五四にも、
「華の香りは風に逆らいては行か
ず。栴檀(せんだん)も多掲羅(た
がら)も末度迦(まどか)も(香木
の名前)また然り。

されど良き人の香は風に逆らいつつ
も行く。良き人の力はすべての方に
薫る」とあります。

男が仕事をするときは、常に捨て身
でなければならない。
捨て身とは、何も欲しがらぬこと
である。

納得、勝ち負けという、人間の物
差しを捨てることである。

「玲瓏」 ーれいろうー

2019年07月27日 11時27分15秒 | owarai
「どんな喧噪のなかにあっても
眉ひとつ ひそめることなく

嘲笑(わら)いの色にも
悪意の色にも染まらずに

あなたは あなたのままでいた

あなたといると ぼくは時々
音を聴くんだ

かすかな風を知らせるときの
風鈴みたいな

リン、という小さな音を」
【何にも侵されない美しさ】
「玲瓏」という言葉には二つの
意味があります。

一つは、玉のように麗しく光り
輝く様子。もう一つは、玉と玉が
触れ合って鳴る美しい音のことを
さします。

たとえば「八面玲瓏」という言葉が
あります。「八面」とは各方面、全て
の方向という意味です。

つまり、全てが清く澄みきった様子、
転じて人の心の曇りがなく、わだか
まりがなく、人と正しくつきあう
様子を表しています。

中国の詩人・李白の作った詩に
「玉階怨(ぎゃくかいえん)」に、
皇帝の恋人である宮中が皇室の
心離れを憂い、夜、一人で月を
見上げながら思いにふけるとい
情景が描かれています。

恋の切なさが、玲瓏たる月の輝き
のものと、澄んだ美しさを帯びて
迫ります。

「玉階に白露生じ、夜久しくして
羅襪(らべつ)を侵す
却きて水晶を下ろすも 玲瓏として
秋月を望む」

因みに、中国では本妻に翡翠を
愛人にはダイヤモンドを贈ります。

放念を×28  『結婚のほうそく』

2019年07月27日 09時24分17秒 | owarai
◆遺伝の法則
1、彼のお父さんを紹介されたら、
まず頭部をチェックしろ。
2、彼女のお母さんを紹介された
ら、まず体型をチェックしろ。

◆適齢期の娘をもつ父親の法則
娘の選んだ男には反対する。

◆適齢期の娘をもつ母親の法則
父親が反対すると、それに反対
する。

◆「気がききゃいいってものでも
ない」法則
彼の父親がタバコを手にしたから
といって、すかさず火を付けて
あげてはいかない。

ましてや、
近くのおしぼりで、お父様の飲みかけ
のグラスの底を拭くなんてもっての
ほか。

◆横取り防御のオキテ
友人に恋人を紹介するのは、婚約が
成立してからでも遅くない。

◆警告
それでもマヌケなヤツは、友だちに
婚約者をさらわれる

『能の醍醐味』とビートたけし

2019年07月27日 08時18分52秒 | owarai
「週刊文春」に、以前、掲載された
たけしと能がきわめて正論で愉快だ
った。

なるべくなら全部書きたいところ
だが、全部書くわけに行かないか
ら抜粋すると、

そもそも彼がお能を見に行ったの
は、「どいつもこいつも浮き足立
つているもんで、少しは気を鎮め
てだな、わびとかさびとかに触れる

のもいいんしゃないか」てんで、
千駄ヶ谷の国立能楽堂へ足を
運んだというわけである。

はじめのうちは眠たくて寝ていた
が「後場(これ後シテでは?)に
入ったら起こされちゃった。

鼓がうるさくて。
で、最後まで一気に見せられて、
いやもうおもしろかったな。

・・・幽玄とか精神文化に関わ
りがあるのが能だとかいわれて
いるらしいけど、全然そうじゃ
ない、あれは昔のロックコン
サートだぜ」

「能の囃子と舞もいいけれど、
能面を使う発想も卓抜でさ、
お面は何も語らないけどすべ
て語るっていうか。


一即多、多即一のサンプルかな。
これが私の感情なんだって表現
を生の顔でやると、それ一個し
かない。

客の想像力が縛られる。ところ
がお面っていうのは一個の感情
表現なんだけど、同時に表現の
消去でもあって、見るものに
よってどうとでもなる」

文句をいえば、謡い(うたい)
の言葉がわかんないのが欠点
だと彼はいうが、

最後には、
日本のガキどもが外国語の
意味もわからず歌っている
のと同じことだ、

要は「ノリ」なわけだから、
お能はM・C・ハマーにだっ
てひけをとらない。ノリ一筋
の馬鹿ばかりでなく、前衛
音楽好きのヤツもどんどん
ファンになっちゃうよ。・・・

と、まあそういった次第なの
だが、私が子供のときからお能
にとりつかれたのも、祖父が
お茶の先生で足さばきが能だっ
たからだ。

能は、今でもノッテ来ると、見
物席でじっとしているのに精一
杯である。

だいたい、一糸乱れず、几帳面
で、見ていてドキドキしないよ
な、踊り出したくならないよう
な演技なんて、何が面白い?

室町時代の世阿弥の頃はみんな
うそうだったに違いないが、

ビートたけしさんの新鮮な眼は、
はからずもお能に一番大切な、
原始的なものをとらえて見せて
くれたのである。

僕は落語家のなりそこないだが、
談志師匠が2流を目指せと、口々
におっしゃていました。
一流になったらお終いだと・・
・・。

『ユーモアについて』

2019年07月27日 05時44分14秒 | owarai
「月見座頭」という狂言がある。
谷崎潤一郎や永井龍夫が小説に
書いているので、ご存じの方も
いると思うが、

概略だけを書いておくと、
ある月のいい晩に盲目の男が月見
に出かける。

目が見えないのだから、月なんか
見えはしないのだが、月夜の静けさ
とか虫の声などは、敏感な盲人の
心には、もしかすると常人より

はるかに身にしみる風景として
感じられるに違いない。

彼はその気分をたのしみつつ、
手酌でちびちびやっていると、そ
こへ下京(しもぎょう)の男が
現われる。

盲人が月見をしているのを見て、
これはまた風流なことだと感心し、
いっしょに月見をしようと、持参
の酒肴をともに飲んだり食ったり
し、はては舞い歌いなどして大い
にたのしむ。

やがて、夜も更けたので、下京の
男は名残を惜しみつつ帰って行った
が、途中まで来て、このまま帰った
のでは面白くない、今度はあいつを
なぶってやろうと、先の盲人のところ
へ行き、
さんんざんに打ったり叩いたりした
あげく、いい気持になって家路を
辿った。

「やれやれ、とんだ災難に出会った。
はじめに来た男は親切に付きあって
くれたが、二度目の奴にはひどい目に
会った。

同じ人間でも違うものだなあ」

と、盲人は感慨にふけりクシャミを
一つして去って行った。同じ人間
どころか、まったく同一人物で
あったところがとてもおかしい。

だからといって、私はお説教をする
つもりはない。誰の中にも二つの相
反するものが住んでいる。

盲人を笑うのは悪いことだが、時に
は私たちも盲人同様目をくらまされ
ていることが多いのではないか。

「月見座頭」とはあんた達のことだ
よ、と舞台の上からいっているよう
に聞こえなくもない。

ユーモアとはそうしたものである。

それは心の余裕であり、他人の身
になって考えられることをいう。

それにつけても、日本語にはめくら
という古来のいい言葉
があるのに、禁句になっているとは、
何ともユーモアに欠ける国民であるこ
とか。

身体障害者といえば、差別したこと
にならないと信じているのだろうか。