「お客様、大丈夫ですか?」
すぐ近くで物音がしたような
気配がして、あなたははっと
我に返る。
「はい?」
問い返したあなたの真正面に
立って、あなたを見つめている
バーテンダーのまなざしにぶつ
かる。が、その目は微妙にぶれ
て、ふたつではなくて四つ、あ
るように見える。おかしい。突
然、乱視になってしまったのか。
あなたはあわてて目をこする。
「少し、お具合が悪そうにお
見受けしましたの・・・・」
「あ、いえ、そんなことない
です、大丈夫です」
強いカクテルのせいなのか、ほ
んのつかのま、カウンターの上
に両肘をついたまま、片足だけ、
夢の世界に引きずりこまれてい
たようだ。
それにしても、気持ちのいい夢
だった。いつまでも見ていたい、
永遠に醒めたくないと思えるよう
な。夢のなかで、ふたりはベット
のなかにいて、彼はあなたに囁い
ていた。
あなたの体を優しく抱きしめて、
「妻にきみのことを打ち明けた」
と。何もかも話したよ。別れる
つもりだ。俺にはもう、きみしか
いない・・・・・。
腕時計を見ると、午後七時を
三十分以上、回っていた。
「同じものを、もう一杯」
あなたは注文する。バーテンダー
の背中に向かって、ため息をつく。
彼はまだやって来ない。どこからも、
姿を見せない。エレベーターの扉は
さっきから何度も、開いたり、閉ま
ったりしている。が。彼は乗って
いない。
あなたは気づく。やっとのことで、
悟る。今夜、彼は来ないのかもし
れない。いや、来ない。来ないに決
まっている。今日の約束は、あの
約束だったのだ。
あの約束――――
いつだったか、このバーのちょうど
真下にあるはずのベットの上で、
交わした指切り。
「いつものように待ち合わせをして、
仮にどちらか現れなかったら、それを
『別れ』のメッセージにしよう。
きれいさっぱり、あと腐れなく、
別れよう」
ついさっき見た、気持ちのいい夢が
一瞬にして、悪魔にすり替わる。
夢のなかで、誰かの体を抱きしめて
いるのは夫だ。夫は恋人の耳に囁い
てる。
「妻にきみのことを打ち明けた。何
もかも話した。別れるつもりだ。
俺にはもう、きみしかいない・・・・」
まぶたをこすっても、こすっても、
あなたの目にはすべて二重に映って
いる。