愛の種

 
 猫がいる限り アセンションが止まらない
  

1000字コラム3 「新成人」

2015-03-13 22:11:18 | 勝手にコラム

5月中ごろに携帯電話で見たニュース。2040年の日本人の成人女性の人口が、現在の半分以下になる見込みだというのだ。それもそうだろう、2050年には日本の人口が1億人を切り人口の4分の1が減少する。次世紀からは単に少子高齢化の不安どころか、日本民族の存続が危ぶまれていくことだろう。経済状況が良い方向に向かってきているとは聞くものの、会社運営側が徐々に困り始めているのが、働き手の不足だ。ましてや、2000年生まれの現在中学2年生の子ども達が、いざ社会人となったとき、格段に不足しているに違いない。お役所では男女共同参画を前面に押し出しているが、確かに日本は他の先進国に比べ、それは低い数値である。が、それも民族性とまではいかないが、適材適所であるなら、女性が多い少ないというだけで、職場の善し悪しの判断をされるものではないだろう。今後加速される働き手不足は、否が応でも女性を働き手として、社会の歯車に組み込むことだろう。それによって婚期が遅くなるか、或いは自立する女性が増加していくことに繋がり、まさに日本民族の存亡にかかわってくるかもしれない。
 話は変わって、最近の会社の新入社員への対応が昨今変わってきているらしいのだ。会社がせっかく新人を入れたはいいが、上司や先輩が一度叱っただけで新人が辞めてしまう。なので、注意を促すやり方で、退社させないように対応しているというのだ。このような現象に対して強く反応するのは、バブル時代を経験した人たちだ。すぐに辞めてしまい、叱られ慣れていない新人などもってのほかと。だが、はたして叱る行為そのものを肯定してきた自分達こそに欠陥があったから今に至るのではとも考えられる。いつの時代も、世相を表す一つの方法に、「今年の新人はこのような特徴がある」として話題になり非難されること多々ある。さもあらん新人たるものの心構えは、学生時代にある程度欲しいものだ。がしかしだ。社会とは新人だけで成り立つものでなし。新社会人が減少し始め、代わりの人間もすぐに見つかることが無くなっていくなら、会社として、上司として、新人にどう対応し、立派な社会人に成長させてくれるのか。また女性が家庭を持ちながら働きやすい職場としてどうあるのか。新人質よりも会社質が問われ始めていくことは決して悪いことではないだろう。私が20年以上も前に入社した会社はすでに叱らず育てる会社であったが、やっと社会もそこに気付き、成長しはじめていくのだろう。




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1000字コラム 2 「教育とディベート」

2015-03-13 19:39:27 | 勝手にコラム
教育とディベート

ディベートとは討論会のようなもので、ある公的なテーマに対し、肯定派と否定派グループに分けて、お互いの主張を言い合い、どちらが優勢かを競う討論会のようなものだ。昨今ではこれが、低年齢層の小学校にも取り入れられ、全国に普及しつつある。だがここに憂慮すべき点が潜んでいるように感じられる。言葉で相手の意見を論破する方法は、使い方によっては刃となるもの。小学生は中身を重視する前に、勝敗に特にこだわりを持ちたがる。これは一度良いと思い込んだら、結果が悪くても、最後まで正当性を貫こうとしがちで、洗脳を施す方法に有効だともいわれ、また排他的な優生学思考が助長されるきらいもある。まだ情緒不安定で野性的な攻撃性も残っているころに、いきなり相手を論破して、勝つことを身につけたらどうなるだろう。果たして絆(共存精神)は生まれるのだろうか。教育の目的は違うところにあるにしろ、結果として討論での勝敗で勝ったグループはいやがおうでも、優秀の美をかざり相手を平伏させ自己を満足させる。ディベートの達人とは、日常生活ではウィックにとび、自分の力を抑えることのできる人格の高い人であり、そこに到達するのは一握りにしか過ぎず、一握りの人材を育成するために、大多数が間違った手法を使うことで人生の舵とりを失敗してほしくはない。外国では英国や米国が古くからこれを導入し、国民は自己の主張を強く求められるように成長し、自他共に認める世界のリーダーとなった。社会においてはリーダー的な人間を誰もが求めてしまい、だた、それに叶う存在は数奇であり、それでこそ歴史は成り立ってきた。忘れもしない昨年の大震災のとき、店の前、配給の前に整然と並ぶ日本人は理性の塊のようであった。これは幼い頃から「和」を尊ぶ民族だからだろう。震災後しばらくして私は釜石市を訪れたとき、信号機が作動しない大きな較差点で、ドライバー達は、お互いの顔を見合わせながら、譲り合い右折や直進をしていた。いつもなら渋滞でクラクションの一つもありそうなものを、誰もそうしないのだ。このような姿は世界中が驚愕したのだから、私たちの当たり前の行動は、実は当たり前ではなかったらしい。周りの意見を深慮し、最後に補足する立場でもって、世界をどうか一つにまとめる役を、震災を乗り越えようとする日本に求めたいものだ。それは和を尊ぶ未来の日本の社会人にも託したい。
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