愛の種

 
 猫がいる限り アセンションが止まらない
  

昭和の初めに生まれた人は未だに昭和のまんま

2019-05-06 13:27:26 | 日記

この人を記録に残しておかなくては

令和になるが
未だに昭和の、それも、初期の頃の生活を、している私の叔母様を紹介したい

今年84になる、現役美容師である。貧しい田舎から一人で美容師の学校に通い始め、独り立ちして自分の店を構えたのが、50年以上前。その当時、今のような湯沸かし器もないから、大きなヤカンで、丸石油ストーブでお湯を沸かして、そのお湯と水道の水を混ぜて、洗面器に注ぐ。パーマをかけにくるお客は、そのぬるま湯の洗面器に頭を入れて、美容師のおばさんが、パーマ液を流してあげる。

と、こんな具合でお店を開業し、お客さんはご近所のひとばかりだが、なんとか一人で経営していた。
お店の裏の狭い土地を畑にして、無農薬の野菜を作っている。

そして、令和の今、今も変わらず無農薬の野菜を作っては、わたしに野菜を分けてくれる。
私が小学生のころから、おばさんは姪っ子である私らに、お年玉をくれていた。それが高校生まで続いていた。私が東京に就職で、田舎を離れる日、父親がくるまで駅前まで送ってくれた。車から降りるとき、父親はここでいいな、じゃあな。と車でさっさと去っていった。私は一人東京行きのホームに向かった。ホームに行って、新幹線をまっていたら、おばさんが来たのだ。
「どうせ、お前の親は見送らないだろうから私が見送りにきたよ」
そういって、おばさん一人が、東京に行く18歳の私を見送ってくれた。
いまは、私の子供たちに、毎年お年玉をくれる。私の兄弟の子供たちにもだ。一度も欠かすことはなかった。そしてたまに私の子らが、遊びにおばさんちにいくと、絶対に千円とか500円とか、必ずくれる。いらないといっても、必ずくれる。
おばさんに、楽しみはなにか、を、聞いてみた。そうしたら、
「人にものをあげること」
だという。どこかに美味しいものを食べにいくとか、旅行とか、まったくない。贅沢する気がない。というか、私の日常はおばさんにとっては贅沢なんだろうな。私が贅沢しているのに、私におばさんは、せっかく畑で作った野菜を私にくれる。せっかくご近所からいただいた、野菜を、私にくれる。私の子供にも小遣いをくれる。
私は喜んで貰うんだ。せっかくだから喜んで貰うんだ。私が喜ぶのがどうやら、おばさんは好きらしい。
そうして自分は、いつもボロボロの服をいつも着て、毎日お客さんが来るのを待っている。腰が曲がったから、お客さんがきたら、腰やお腹にタオルを巻いて、そこにコルセットをして、少し、背をピンとさせて、息をきらしながら、髪をカットする。
はあはあ、いいながら髪を、いまだにお客がくればカットする。パーマもかける。昭和の頃と変わらない方法で。
震災があったとき、おばさんには子供もいないし、結婚もしていなかったから、一人暮らしだったので、心配して、様子を見に行った。
・・・・普段通りの、かわらない生活していた。なにも困ることなどなかった。何しろまったく、贅沢していないから、戦争を知っているから、震災の時の恐怖は恐怖に感じてなかった。おばさんだけは。

一人で美容師の免許を取りに町中に出て、勉強して、内職もしながらせっせと働いて働いて、80歳過ぎても働いて。貯まったお金は全て自分の身内の経済のサポートに回った。いまだ実家にお金を入れながら生活している。細々とやっているが、本人はそれが当たり前だ。
頭も口も回るからボケる気配がない。私に頼る気配もない。いまだ
でっかいヤカンをもって熱いお湯を洗面器に流し込んでいる姿・・・
マジ半端ない。

こんなおばさんがいるから私は幸せだ。こんなおばさんに子供らを接し
させられたことが何よりだ。お小遣い、少額だろうが高額だろうが、お金は愛の現れだった。
私が受けた愛をいまだ廃れることなく私の子らに与えている。
愛を与える身内がいる私の子らは、本当に幸せだ。
ありがとう、おば様。いつも感謝してます。














コメント
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