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秦氏の統理

2024-01-22 08:31:00 | 気になる記事

秦氏の統理という人がなんと、YouTubeに現れました

嘘かほんとかわかりませんが、私の姉と、裏社会を暴いている大先輩から、同じ日に、おすすめ動画として、私に送られてきたのです

これは見るしかない!
そうおもってみてましたら、秦氏の組織のトップがおられ、大昔から口伝で歴史を代々引き継ぎして今にいたっているそうで、今回はじめて、公開してよいということのようでした

あれ?とおもったのが、市姫の話です
神大市姫は、秦氏の出で、スサノオと、政略結婚しました。第一夫人で正妻でした。子に大年神と、うがのみたまの神がいます。
しかしや、ヤマト朝廷?側からも、スサノオのもとに、妻に巫女がだされました
ヤマトでは、後継は、1番下の子が継承する慣わしでした

なので、市姫は、スサノオと離縁して、秦氏の地元にかえりました

昔話で有名なかぐや姫は、市姫の孫にあたるというのです

秦氏と血縁関係を持ちたい豪族が、たくさんいたのでしょう

かぐや姫は身をかくすしたのか、月にかえったというのが、昔話ですが、
こちらの、統理は、かぐや姫は、東北にいったというのです
東北には、月氏 がっし という、氏族がいて、月氏のもとに行ったのが昔話の元になったらしいのです

もとにもどりますが、市姫はスサノオと暮らしていた時期もそれなりに長くあったのではとおもってましたが、その割には、スサノオの妻の話は、いたってクシナダ姫の話ばかりです

離縁したなら、最終的には妻でなくなったなら、理解できます

市姫も、女ながらに、プライドは高かったろうし、気も強いというか、はっきりした性格だったろうから、離縁したのも頷けます

スサノオは、離縁した後も市姫のことを気にしてくれていたように思います

でもね、一夫多妻は、苦労が絶えないから、今の世は、ほんに、良き時代となった

いくら正妻だからといって、他に妻がいたら、やきもちもいたしかたないわね
バランスが悪いですよね

夫婦は対等でないと幸せにはなれませんからね

みんな幸せのために生きる中で学んでいっているはずなので、やっと、その時代になったということですね

ま、神様の場合は、分身の術で、たくさんの妻がいても、つきあえるのかもしれませんけれど

同じ妻同士もリスペクトしあわないといけませんけれどね

正妻は側室を、側室は正妻をリスペクト
そして、夫の将来、地位や名誉のために子を生む

??子を生む道具ですか?女性は?
違いますよね

愛しむべき相手であります

自分のために女は生きていきましょう
野心家の夫のために、ではなく、自分の人生を、自分で生きていこう

写真はアイーナからの盛岡の風景

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藤原比古神社 宮古市宮古

2024-01-22 03:34:00 | 歴史の泉
















2024.1.20 土曜日
岩手県宮古市 藤原比古神社
御祭神 音羽姫霊おとわひめのみたま

初めて参拝させていただきました

実はこの近くで生まれ育ったKさんから、ラインで、こちらの神社の写真が送られてきたのです

どうやら産土神社なので、参拝にいってきました、とのこと

なんだか、素敵な神社にみえたので、夫にも、ラインで送ってくださったこちらの神社の写真を見せたのでした

しばらくして、夫が

気になるから、その神社に行ってみようか

というのです。

突然に出かける話をするような夫ではないので、珍しいこともあるもんだ、と思いつつ、せっかくの休みなので、すでに午後の2時を回った頃でしたが、盛岡を出発しました

目指すは宮古市宮古の海の方面です

途中私の姉夫婦が、宮古市宮古で買い物をしている、というので、一緒に、Kさんの紹介の音羽姫を祀る神社に参拝に行こう、ということで、はなしがまとまりました

淡い期待をしつつ、Kさんに、参拝に今から向かいまーす、と、ラインしましたら、やっぱり、優しいから、案内します、といわれたので、ラッキー💖ありがとう💖でした

Kさんの産土の神様だという、音羽姫をネットで調べてみましたら、びっくり!でも、なんだか納得のご縁でした

鎌倉時代前後のはなしになります。
佐々木四郎高綱の娘であったのです。源義経のおじにあたる、源為朝の、三男基頼の妻でもありました。義経、静と、同じ様な時代に生まれ、静と義経の子を育ててくれた、大恩人佐々木四郎高綱の娘とあらば、もうね、平伏してしまってもおかしくない私であります。

Kさんに案内してもらった境内は、簡素ながら、大事に管理されていて、気持ちの良い境内でした

目の前には町並みが見えて、その向こうには海がありました

いつも宮古の人々の日常と海を見守ってくれているのがわかりました

帰宅した後、夜に、夫のところに、御祭神音羽姫様がいらしたようです

夫になんといっていたのかききましたら、詳しいことはまだ、内緒でしたが、
夫に来て欲しかったらしく、今日は、来てくれてありがとう、と言われたらしいです
そして、案内してくれたKさんにも、みなを、つれてきてくれてありがとう、と、本人にそう伝えてほしい、といわれたそうです。
今は熱心に参拝してくれる人がだいぶすくなくなってしまっていることを、寂しくおもっているようです。
神様も人の力が、力になるようです。日頃の感謝を伝えに足を神社に運ばれると、自分も元気。神様も元気になりますからね。でも、悩んでいたら、それもまた、神様に相談してよいとおもいます。努力している人を見過ごすはずはありませんからね

ちなみにKさんの情報ですと、こちらの神社のお祭りには、必ずよみやに、一度雨が降るのだそう。でも、すぐに止むらしいです。
神様の嬉し泣きでしょうか?

旧川井村のわたしの田舎では、馬や牛の神様で、おそうでさま、をおまつりしていますが、音羽姫の育てた愛馬、奥州黒だったのです
黒の最期が、とても切なくて心痛めてしまいますが、さぞや姫様も嘆いたことでしょう
せっかくの生まれ持った命、生かし合うことの学び、忘れることなく今をいきてまいりましょう

以下は宮古市の、百科wikiより
建久元年、宮古地方の統治者となった鎮西八郎為朝三男、閉伊頼基の妻は近江の国の豪族佐々木四郎高綱の娘、音羽姫であったとされる。音羽姫は幼少の頃から希にみる美女で、藤の花と馬をこよなく愛したという。特に奥州閉伊藤畑産の「奥州黒」という馬は姫自らが飼育した愛馬とされる。
姫は近江の国から、閉伊に築城した頼基の元へ嫁いだが、近江に残された黒は姫のことが忘れられず、ある時柵を越えて近江から閉伊へと駆けだしたという。黒は山河をはるばる越えて己の生まれ故郷でもある十二神山の麓にまでたどり着いた。しかし鬼神の如く駆け抜ける黒を見た里人は物の怪のたぐいと思い、黒が立ち寄った厩ごと火をかけて殺してしまったという。
里人たちが焼死した黒の死骸を調べると蔵や鐙、鈴などに佐々木家の家紋があり、音羽姫が可愛がっていた奥州黒であることが判明。事実を知った音羽御前は深く悲しみ藤畑の音羽ヶ森に黒を祀り駒形神社を建立、蹄の跡に藤の花を植えて供養したという。現在、藤畑の駒形神社参道脇には、音羽御前を祀った祠があり、その森には巨大な幹の藤の古木がある。

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