オヤジのひとり言

好奇心一杯のオヤジ田舎暮し蕎麦打ち陶芸からヨットレース情報マデお役立ち情報や業界の裏話も有 最近ロードバイクにハマッテ枡

泡盛「夢航海」について

2012年11月26日 | オヤジのひとり言

昨日のお約束・

大好きな「夢航海」の製法とは??

今回は、浸漬に関する話題です。

浸漬というのはお米を蒸す前に水にひたして、

蒸し上がりがよくなるように水を吸わせる工程です。

今はお米をつけておく時間というのは、

長くても1時間くらいですが

沖縄が日本に復帰する前(1970年ごろ)までは

15時間~24時間浸けていました。

この手法をシー汁浸漬法と呼びます。

今回は、そのお話ですよ。

◆◆シー汁浸漬法とは◆◆

シー汁浸漬法の特徴は2つです。

浸漬時間が長い
(通常は1時間、シー汁浸漬は20時間)

浸漬するときに前回の浸漬水を加える

浸漬する時間を長くすることで、水の中に乳酸菌などの微生物が増えてきます。

この乳酸菌が増えた水を次の浸漬の時に一部使用します。

前回の浸漬水を乳酸菌のスターターとして使っているわけです。

こうすることで、優先的に乳酸菌を増やすことができ、

それによって浸漬水は乳白色のヨーグルトっぽい匂いがしてきます。

ちなみに、

シー汁浸漬「シー」とは沖縄の方言で「すっぱい」という意味です。

シークワーサーのシーと同じ意味です。)

乳酸菌が増えることによって、浸漬水は酸性になり、すっぱくなります。

「シー汁」とは『すっぱい液体』を意味しているわけです。

◆◆シー汁浸漬を行う理由◆◆

昔、シー汁浸漬という方法がとられたのはなぜでしょうか?

理由は3つあります。

硬いタイ米を蒸しやすくするため

製麹や『もろみ』において温度が急激に上昇しない

製麹の時の汚染が少ない

設備、特に冷やすための装置がなかった時代、

夏場の麹作りや『もろみ』の温度管理は非常に難しいものがあり

麹菌や酵母菌が盛んに活動するにしたがって、

麹や『もろみ』は非常に温度が上がってきます。

でも、麹菌も酵母菌も生き物ですから暑さには弱いんですね。

酵母菌は30度を超えると死んでしまいます。

そこで、シー汁浸漬を行うことで温度の急な上昇を防ぎ、

冷却設備が乏しかった時代でも安定的に泡盛作りができたのです。

参考文献: 菅間誠之助 醸造協会誌 

◆◆どうして、シー汁浸漬をすると温度上昇が抑えられるのか◆◆

製麹時や『もろみ』において急激な温度の上がりを抑えられる理由は、

浸漬水中の乳酸菌によって米の表面が食べられ、

通常の浸漬に比べお米の栄養素が少なくなるからです。

ビタミン類などのお米の栄養素が少なくなることで、

麹菌や酵母菌の生育が抑えられます。

それによって、急激な温度上昇が防げるわけです。

(熱は麹菌や酵母菌の活動によって発生します。)

同じように麹菌以外の雑菌も増えにくくなるため、

麹を作るときに汚染が少なくなるわけです。

このような、シー汁浸漬中の乳酸菌等の働きは

日本酒が精米といって

『お米を削り酒の雑味を抑える技術』に似ていることから、

生物的精米」と呼ばれています。

このことを科学的に解明したのが、

東京農業大学の小泉武夫先生のグループと、忠孝酒造です。

そして、この研究を基にして生まれたのが

昔醸 翠古(むかしづくり すいこ)」と

虜に為っている酒「夢航海」

綺麗なブルーのボトルの泡盛の古酒です。

忠孝酒造の夢航海がリニューアル、さらに美味しくなって新発売の

《夢航海 シー汁浸漬法 30度》

これは、昔ながらの泡盛の作り方を復活させた忠孝ならでわの技術力!

今までの夢航海はアルコール感が少し強かったですが、

旨味すら感じるさらにイイ酒に仕上がっていますよ♪

チョイ辛口の円やかなほのかな香り・「夢航海」

ヨット好きには堪りません・・

一杯目は??

ヤッパリ・・ロックで呑るのがベスト!!

 


大樟さん と親しまれている

2012年11月26日 | オヤジのひとり言

11/26

京に伝わる魔界伝説

 

枕もとに現れた熊野権現

今でも熊野詣は大変なのに、

交通手段を持たない850年前に、

後白河法皇は34回も熊野詣を行なっています。

ある時、後白河法皇の枕もとに、

白髪の僧の姿をした熊野権現が現れ

「われをなぎの樹のところに祀れ」と神託があった。

後白河法皇は、方々探させたところ

「 一夜にしてなぎの木が生え、大木となったところがある 」

という知らせを受ける。

その地が東大路通りの泉涌寺通りのところにある新熊野神社です。

早速、平清盛を社殿造営に当たらせたが、

その造営工事が大変なもので、

神社の全域に、土地を3尺( 約1メートル)掘り下げ、

聖地熊野から土砂を運び入れ、

その上に造営する社殿の建材もすべて熊野から調達。

神域には那智の浜の青白い小石を敷き詰めた。

まさに熊野の様相をこの地に再現したものといわれています。

現在も、東大路通りを歩いていると、

道路に覆い被さるように神社の楠木がせり出している。

これが永暦元年( 1160 )、

神社創建の時に熊野から移した樟樹です。

後白河上皇お手植えの樹と伝わっています。

幹周り15メートル、高さ23メートルの堂々とした姿は

全ての歴史を見てきた風格さえ感じられます。

樹齢およそ850年とも900年とも言われていて地元では「 大樟さん 」と親しまれている。

また、境内各所に植わる楠木も全て熊野から移されたもので

樹齢800年から850年と言われている。

社伝によると・

当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、

後白河法皇によって創建された神社です。

後白河天皇は1155年に即位され、

1158年に退位されましたが、

退位後も引き続き院政を敷かれ、

そのときのお住まいとなったのが、

現在三十三間堂の東側にある法住寺です。

当時は「法住寺殿」と呼ばれ、

その鎮守社として新熊野神社が、

鎮守寺として三十三間堂が創建されました。

その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。

法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、

当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、

そう何回も行けるわけではありません。

そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、

当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。

当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、

紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野

紀州の昔の熊野に対する

京の今の熊野という

当時の都人の認識が、その由来となっています。

その後350年間、

当社は繁栄を極めましたが、

応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、

一時は廃絶同様の状態になってしまいました。そ

れを再建されたのが、江戸時代初期、

後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、

現在の本殿は寛文13年(1663年)

聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)

によって修復されたものです。

とあります。

 

今回はここまで・・    

続きは次回に・・ 

電話かFAXで、メールでお気軽に・・

E-mail Kyoto-ee@gaia.eonet.ne.jp

URL kyoto-estate.com

ここを・ ・・ ポチット・・・・クリックして下さい。 

  ↓   ↓   ↓

京都南部の不動産は京都エステートへご相談ください。

只今 at home Web http://kyoto-estate.com/より、より詳しい最新情報が見られます。

オールジャパンで頑張ろう!! 

東日本にエールを・・

必ずや立ち上がってくれると・信じてる。

5年10年掛かるかも知れないけれど・

ずっと・ずっと・応援してる・

みんなでがんばろう !!  日本

 

http://info.shinsai.yahoo.co.jp/311/story/