セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

神は生まれた

2015-01-06 17:02:19 | 文化

あけましておめでとうございます。

さて新春最初に何を書くかといえば、前回の映画『神は死んだのか』で取り上げられた神の実在についての問題だ。映画ではあまりにも無神論者を戯画化して描いている。映画で言うような神に幻滅した者が神を憎んで無神論者になっているばかりではないと思う。ダーウィン主義者のドーキンスは『神は妄想である』という刺激的なタイトルの本を書いたが、多分キリスト教原理主義者が執拗に進化論に反対するので反撃したのだと思う。理論的結論で神を信じて幻滅したからではないと思うが。伝記を読んだわけではないから断定できないが。ホーキングは難病にかかっているから神を頼って幻滅したと思われやすいがやはり学問的帰結だろう。だからこの戯画的なこのキリスト教的有神論のプロパガンダ映画を皮肉った。

だから誤解されるかもしれないが、僕は神の実在を信じている。ただし学問的に神の実在証明はできないとう言う不可知論の立場だ。映画では不可知論者を無神論者と同じ意味に扱っている。アメリカではそのようにとられる場合多い。しかし不可知論自体は科学や哲学では神の存在非存在を証明できないと主張しているのにすぎない。おなじ不可知論者でもカントは神を信じているし、ラッセルは無神論に近い。

神について哲学として語るなら不可知論こそ合理的かつ現実的だと思う。もしも人間が超高性能コンピュータで仮想空間内にその仮想空間内を全世界とする思考する知的生命体もどきを作ったなら、その生命体もどきは自分と世界の本質を証明できるかな。もちろんいろんな可能性を空想することはできる。われわれの世界に「世界が5分前生成した」という説のSF小説があるようにあちらにもいろんな説がでるだろう。だが証明はできない。彼らの世界の物理法則はこちらが設定したもの。彼らが無限の空間と思っているものはこちらから見れば無に等しい。彼らがよりどころとする前提はこちらが設定したもの。

このようにコンピュータ内の仮想知的生物体が自分たちの世界の本質を決して証明出来ないように、われわれも神の存在を証明出来ない。その証拠に数学では「不完全性定理」というものがある。聞きかじりで正確ではないかもしれないが、数学の世界では全く矛盾のない定理の体系は存在しないそうだ。全てを証明しようと思っても証明しきれない部分がのこる。証明しようがないので逆に証明の必要のない公理として話を進めるしかない。たぶん神様がそう決めたのだろう。アレ?これこそ神の存在証明かな。これは冗談。

では不可知論のラッセルが『私はなぜキリスト教徒ではないのか』という本を書いたのに倣って「私はなぜ神を信ずるのか」を書くとしよう。私の有神論はかの有名なパスカルの「神があると前提して生きた方が有益」という功利的なものではい。ぶっちゃけ身の周りに不思議な事が起こるからという原始時代から現代まで続く素朴にして非論理的ではあるが最強の論駁不能の理由だ。論駁不能と言っても他人から見れば「たんなる偶然」とか「思い込み」とかたづけ可能だが、本人が受け入れない限りは何の論駁にならない。

いつの頃からか「むやみに欲しなければ必要なものは必要な時に手に入る」(ただしいつもギリギリだけど)という確信を持つようになった。また「ふと思ったことは実現する」とも感じるようになった。「問題はねかせておけば解決策が向こうからやって来る」もあるな。以前は何度か「今までは偶然にもうまくいったがこれからはそうはいかないことも当然ありうるのでは?」とも思ったが、その後もなんども「今までは・・」とも思っている自分に気がつき結局ずーっとそうなのだと思うようになった。これは明らかに学んできた無神論・唯物論哲学と矛盾する。肝心なのは本当に当面必要としないものを欲しないことだ。なんかこれは「明日のことで思いわずらうな」とか「野の花」の例えとかの聖書を思い浮かぶ。

僕には家を建てたとき、雪景色の絵で家中を飾りたいということを思いたった。さっそくブリューゲルの『雪中の狩人』の複製画を注文した。機械で絵具の質感のある複製画を作るものでサイズは自由に注文できる。そのあとも東山魁夷の雪の中の木を描いた絵の複製画など何点か購入した。しかし気にいったのに購入をためらった絵があった。パリの冬景色を描いたものだ。スーパーの臨時の展示販売のものだ。20数万円の値段にたじろいだ。そんな金は現金でも預金にもない。退職金の残金は無くなって投資信託と共済年金が入るまでは金がない。そこで逡巡したわけだ。今ならカード利用で直ぐ買うかもしれないがその時は思いもしなかった。2・3日後に行ってみると展示販売はまだやっていたがその絵は無かった。きっと誰かが買っていたのだろう。それから月日が流れ再び別のスーパーだと思うが絵の展示販売があった。そこでノーマン・ロックウェルの彼の故郷の町の雪の風景があったのでカードで買った。ノーマン・ロックウェルというのはアメリカの近代画家で人物画が有名だがこれは風景画だ。もちろん原画ではなく許可を得て限定数作成された複製画だ。その絵を部屋に飾りながらまた思い出すのはあのパリの風景画。だれかの家に入っているならもう二度と会うことはないが残念だ。こんな風に思いながらいるとあの画商から手紙が来た。これから展示販売するスーパーの予定表だ。ふとみるとエアポートウオークがある。ここは映画館のミッドランドシネマ名古屋空港と隣接しているので食事場所として週2・3回訪れているところだ。その後エアポートウオークに行ったときに絵の展示販売にであった。ああ手紙にあったのだと思いながら展示された絵画を見た。するとパリを描いた4枚組の絵の中に1枚冬景色があった。割といい絵だが4枚セットで40数万円する。僕は縁なきものとパスをした。その数日後に画商から電話がかかってきた。昔僕が雪景色の絵を集めていると言ったので電話をかけてきたのだ。「かわいい雪景色の絵があります」「かわいい絵。あの雪の中の木の単色の版画の絵?数千円だったけど買う気はないよ」「いやいやパリの4枚組の絵の1枚です。上と話して1枚だけで売る許可を得ました」さっそく車を飛ばしてエアポートウオークに向かった。そして10万円ちょっきりでカードで買った。この絵はリトグラフで150枚同じものがありこれはその43枚目だ。さっそく部屋に飾って眺めていると、アッと気がついた。これは買い逃したと思っていた絵ではないか。リトグラフなのだから同じものが何枚もあるからこうして手に入った。でもこの間「ああ欲しかったな。買った家が何かで手ばなして回り回って手に入らないかな」とも思っていたのも事実。ああ神(仏)は実在する。

ところで実在する神はどのようなものだろう。映画『神は死んだか』では、無神論者側が宇宙や生物の発生について自発的発生論を使い、有神論側が知的デザイン(設計)論を使う。でもオーストリア学派経済学では「自発性」を重視して社会の設計主義を排斥する。となるとオーストリア学派に心をよせながら有神論者の僕はどうなるのか。お答えします。我が宇宙論及び神の存在論は以下の如し。

映画『神は死んだか』では、「神が世界を作ったのなら、神を誰が作ったのだ」という発言が出てきた。徒然草に同じような話があったね。僕は宇宙論発生についてはホーキングの自然発生説に同意する。神はどうなるって?自然発生した宇宙が神になったのだよ。

宇宙には光速を超えるものはないという。物質でも情報でもだ。しかし例外があるらしい。ひとつの粒子が分裂すると分裂した粒子は遠く離れていくが、片方の粒子に変化がおこると同時に他方にも変化が起こるそうだ。これは同時だから光速を超える。また宇宙の物体は重力で引き合うが、全宇宙の物体がそれぞれ互いに引きあっているらしい。とすると全宇宙の物質は情報を共有する量子コンピュータになってきたと考えることも現実的だ。瞬時に情報が宇宙全体の伝わるシステムができたのだ。ここに神が生まれた。我々の思考は原子・分子段階の化学反応によっているが、そのさらに深い段階で見守っているものがありそれは全宇宙と繋がっている。どんな稀なる偶然を全宇宙の量子コンピュータなら簡単に計算でき設定できる。

あ、こんなことを書くと僕が順風万般の人生みたいに聞こえるかもしれないがそうではない。え?出世していないことは知っているって。いやいやそういうことではない。自分が管理職にむかないことは百も承知だ。陽明学者は外部的な尺度を用いない。そうではなくて、「こうすればよかった」とか「こういう偶然がなければ(あれば)いいのになあ」ということや恥ずかしきことも10ぐらいすぐ思い浮かぶ。でもそういうことが人生でないということはありえないだろう。ただきままに注意力に欠陥があって多動するこの僕が他人の命に係わることや仕事や職場にパニックを起こしそうことは辛くも避けられた。それだけでも神は存在する。


映画鑑賞:『オオカミは嘘をつく』と『神は死んだのか』

2014-12-18 20:15:21 | 文化

今週の初めにメジャーでない外国映画を2本続けて観た。遅まきながらその感想を書いておく。しかし申しわけないがこれらの映画はどちらも明日金曜日までの上映なので、もし見たい方がいても見るのが難しいだろう。実はもっと前に書きたいと思ったが「東郷哲也氏の落選」がこれも旬の話題なのでそちらを優先した。

『オオカミは嘘をつく』は名古屋の栄のセンチュリーシネマで15日月曜日に見た。『神は死んだのか』は翌16日に同じく名古屋の栄の名演小劇場で見た。なぜこうなったかというと、月曜日に栄にある漢方医院に行ってその後に『オオカミは嘘をつく』を観たわけだが当初はその予定ではなかった。医者に行く前に栄に行くのだからついでに付近の映画館で観る映画はないか調べた。その条件は日ごろ車で行くミッドランドシネマ名古屋空港で上映していない映画であることと、医者に行った後で見てから午後4時までに自宅に帰れることだ。まず『神は死んだのか』が目に付いた。その哲学的内容に興味があった。しかし上映時間が医者に行く時間と重なり月曜日に行くのは不可能。しかしどうしても見たかったので火曜日に行くことにした。その他の栄付近で上映している映画も医者に行った後では4時までに帰れそうもなかった。

月曜日に医者に行ってその後に薬局に行った。医者も薬局もいつもより患者は少なかった。ひょっとすると早く解放されて映画館に行けるかもと薬を待つあいだiPhoneで映画館を調べてみるとセンチュリーシネマで『オオカミは嘘をつく』が見つかった。

『オオカミは嘘をつく』はイスラエルの刑事ドラマ(?)だ。少女が誘拐されて首の無い死体で発見された。場面は刑事が容疑者を拷問しているところに移る。しかしそこは警察署ではない。イスラエルでも警察の拷問は禁止されているのだろうから警察署内ではできないのだろう。拷問するのはどうやら刑事が容疑者を犯人だと確信しているが証拠がないためだろう。証拠がないので上司から容疑者を解放しろという命令の携帯がはいる。やむなく容疑者は刑事の車に乗せられて家まで送られる。容疑者は学校の教師だが状況証拠があるためか生徒たちからもうたがわれている。おさまらない刑事は再び容疑者を拉致し森の中においてロシアンルーレットで容疑者を脅して白状させようとする。脅して得た自白に証拠能力があるのかと思われるかもしれない。しかし少女の首の隠し場所を白状させればそれが証拠となる。刑事は容疑者が犯人である事に何の疑いも持っていない。だが容疑者は頑なに否定する。見ている僕はなぜ刑事はこんなにも確信があるのか不思議である。ところがその刑事も容疑者も二人とも少女の父親に拉致されてアラブ人地区の一軒家の地下室に連れ込まれてしまう。この家は拷問に適しているとして父親が借りた(買った)もの。この地下室で刑事は手錠で柱につながれ容疑者が少女の父親から拷問を受けるのを見ることになる。父親の目的は犯人を割り出すことではなく(これまた父親には自明のことらしい)、少女の首のありかを白状させることだ。首のないまま埋葬するわけにはいかないからだ。

父親の拷問は爪を剥ぐなど残酷なものだ。しかし容疑者は知らないと言う。観客はこんなに拷問されても言わないのだから容疑者は無実であるかもしれないと思うだろう。実際にこれほどの拷問や命の危険にさらされたら宗教とか主義に殉ずるのでないなら隠す理由がない。死ぬより刑務所の方がマシだし、同じ死ぬのでも痛くない方がいいからね。

ところがさらに新たな登場人物が出てくる。娘の父親の父親だ。彼は息子が治安の悪いアラブ人地区の家に引っ越したので様子を見に来たのだ。彼は地下室の事に気付いて息子に言う。今なら引き返せるから2人を解放したらどうかと。理性のある父親にみえる。ところが息子は拒否すると、父親はそれならガスバーナーで焼けば白状だろうと言う。その先は映画のネタバレになるから機会があったら映画館かDVD(でるかな?)で観てください。この映画で言えるのは、出てくる人間で一番まともなのは馬に乗って巡回しているアラブ人だということ。

さて翌日の火曜日に朝9時過ぎに家を飛び出して 名演小劇場の10時半からの『神は死んだのか』に向かった。映画は大学の新入生の青年がある哲学の教授の講義を選択するところから始まる。履修登録の係員はこの教授の講義はやめた方がいいと言うが、青年はその教授にすると言いはる。係員がなぜかやめた方がいいと言い、青年がその教授の講義にすると言い張るのかは不明だ。いくつか理由を推測できるがその答えは最後まで不明だ。単位が取りにくいと言うのとは全く違うからだ。また青年がその教授に固執したのは講義の内容を知っていたからとは思えない。たぶん神の見えざる手に導かれてだろう。なんちゃて。

さて青年は最初の講義にでると、教授は過去から現在の十数人の大科学者のリストを示しだ。それらは全て無神論者であった。そしてホーキングの言説を示しながら学生たちに紙に自分の名前と「神は死んだ」と書けば今学期のこの講義の単位を保証すると言った。学生たちはみんな紙に記入するが、青年は拒否する。そして自分はクリスチャンだから書けないという。教授はホーキングのような優れた科学者に異をとなえるのかと半ば怒る。青年はホーキングの言説に今は反論できないがきっと反論できるがという。それならばと教授はこれから3回の講義の時に最後の最後の30分間時間をやるから無神論を否定してみろと言う。

この映画はアメリカのいくつかの大学で講義内容について訴訟が起きているのでそれに答えるために作られたと言う。だからキリスト教的有神論のプロパガンダ映画ともいえる。そのため教授の人物の描き方が偏見に満ちているような気がする。この教授は単位で学生を釣って無神論を広めようとしているが、こんな教授はあまりいないだろう。

アメリカはキリスト教色の強い国だと思っていたが社会や地域によって様々なのだね。よくアメリカのいくつかの州では教育委員会が進化論を教えることを禁じているという。その理屈は進化論が仮説の一つにすぎない。知的デザイン説も含めて生命の起源の学説は色々あるというもの。たぶん大学での訴訟もこれに関わることだろう。

地域社会では聖書の記述が強くても、大学では進化論が優勢なのだろう。教授の同僚たちも無神論者ばかりに描かれている。しかし教授の高圧的な無神論の押し付けは粗雑だ。この映画でこの大学は一流大学ではないように描かれている。青年の彼女は同じ大学に来たが、「学年で2番の私があなたのためにこの大学にきたのよ」というセリフがあるようにトップクラスの学生はあまり行かないようだ。しかしこの大学の成績がよければロースクールに進学できるのでそう悪い大学ではなさそうだ。青年は教授の講義に不可がつけばロースクールの進学は難しくなる。

この映画では宇宙論、進化論、有神論で興味深い言説が出てくる。書き出してみよう。

《アリストテレスは宇宙に始めも終わりもなく定常なものだと言った。これが2300年間科学を支配した。しかしビッグバン学説のよって「光あれ」と一瞬に宇宙ができた聖書の記述が正しいことがわかった。2300年の間科学が間違っていて聖書が正しかった。》

《生物は長い時間をかけて進化したという。しかし宇宙の始めから現在のまで1日の時計で表すと、生物は最後の数秒間に一瞬に生まれたことになる》

これは屁理屈のようだが面白い視点だね。

教授《ホーキングが言うように「重力の法則で宇宙の自発的発生が説明できるので神など不要だ。」》これにその場で答えられなかった青年は勉強してきて、《数学者の・・・はホーキングの言説には3か所間違いがあると言っている》と答えた。その具体的内容は不明で数学者の名前は僕が覚えられなかったが、必ずしもホーキングの言説が定説とは言えないという結論らしい。

この教授は無神論者の戯画化にされている。教授の少年時代は熱心なキリスト教徒だったが、母親が病気になったとき神に祈ったが母親は死んだため、無神論者になったというもの。そして教授は言う「熱心な無神論者はみな元クリスチャンなのだ」。論戦で青年の最後のとどめのことばが「いないはずの神をあなたはなぜ憎む」というもの。

この映画の最後はやはりステレオタイプの宗教物語になっている。教授の妻はクリスチャンである。このため教授や教授の友人からバカにされる存在だ。論戦に敗れた教授は家に帰ると妻がいない。机のうえに新聞がありそれをみるとキリスト教のミュージシャンのコンサートのことが載っている。教授は表に飛び出しコンサート会場に向かう。その時車にひき逃げされる。たまたま通りかかった牧師に瀕死の状態で抱えられ「神を信じるか?」と問われ、「信じる」という。牧師は「あなたがこの周りの誰よりも早く神に会える」という。なんだこれは普通「しっかりしなさい必ず助かる」でしょ。いやはや、かくて頑なな無神論者は最後には神を信じて死にました。めでたしめでたし。


映画鑑賞:クリント・イーストウッド監督『ジャージー・ボーイズ』

2014-10-02 18:30:15 | 文化

アトピーのせいで何カ月も書いていなかった。おっと、これは言い過ぎかな。書き込んでいる今もアトピーなのだから。僕の場合は両手とも指の症状がひどい。指という感覚が鋭い部分が痛いのは集中力が落ち着かず、本を読むこともましてや文章を書くこともままならない。ではなぜ書き込むかと言うと、昨日、クリント・イーストウッドが監督をした『ジャージー・ボーイズ』を見てきたからだ。

あ!昨今の経済情勢からなんか書きたがっていると思っているのではと考えた人は残念でした。今さら経済情勢について得意げに何かを言う気にはならない。経済情勢の理解については「週刊ダイヤモンド」に毎週載っている野口悠紀雄さんのコラムを読むことをお勧めする。

さて俳優としての実績は脇においても、クリント・イーストウッドという人はなんと才能のある監督だろう。監督し始めてからいくつも作品を出したが、ジャンルがみんな違うがそれぞれにいい作品に仕上がっている。さすがリバタリアン。

映画はフランキー・ヴァリという歌手とその仲間のザ・フォーシーズンズというグループが世に出て成功して挫折する実話の物語。僕は「ザ・フォーシーズンズ」とかヒットナンバーとかの事前の情報にはピントこなくて、ただただクリント・イーストウッドが監督だという点が興味の中心だった。もともと音楽には詳しくない人生だったからね。ところが映画の前半に「シェリー」という曲が出てきた。あ、これは知っていると思った。でも僕は洋楽に親しんでいたわけではない。僕の学生時代より以前は、日本ではアメリカのヒットした曲を日本語の歌詞をつけて日本の歌手やグループが歌っていたのが流行っていた。フォークソングやグループサウンズが流行る前だから高校より前かな。「カレンダーガール」とか「ヘイ、ポーラ」(?)なんて曲もあった。そんなわけでこの「シェリー」も洋楽好きでなくても家にテレビがあれば普通に聞いたことがあるだろう。

でもそれ以上に驚いたのは、ザ・フォーシーズンズのメンバーのひとりが、それ以前にボーリング場で働きながら「シュシュ」という曲を作曲していたということ。なんとこの曲はタモリの深夜番組の「タモリ倶楽部」(だったと思う)の女性のお尻が並んで出てくるオープニングに使われている曲ではないか。あの曲の出自がわかった。

映画は1951年から始まる。ちなみにこの年は僕が生まれた年。そのころフランキー・ヴァリは床屋の見習い。歳は16歳ぐらい。こわもてでもないのに町のマフィアの親分に可愛いがられている。歌好きでうまい事は町のみんなが知っている。このころのアメリカの田舎町では大概同じ町で一生を過ごす。町から出るのは、軍隊に入る、でもこれは死んでしまう。ぶっそうでまさかだが朝鮮戦争を念頭に置いているのかな?二つ目はマフィアに入る。でもこれも死んでしまう。三つめは有名になる。フランキー・ヴァリは二つ目と三つめの間にいる。当時は大学へ行かない者はこんなものだろう。ヴァリは窃盗の手伝いみたいなこともするが、お目こぼしでつかまらなかった。主犯の友人は6カ月の刑務所暮らし。この町で犯罪者も警官も判事もみんな顔見知りみたいだ。やがてヴァリは町の酒場で歌っているグループに加わる。

この映画は、ヒットしたミュージカルの映画化らしい。なんかイーストウッドの独創性が薄れるような話だが、イーストウッドはフランキー・ヴァリや他のメンバーにあらためて当時の様子などを聞き取り調査して正確を期したらしい。このため2013年の日本公演はイーストウッドへの協力のため延期になったとのことである。

映画の中で登場人物がときどき映画を見ている観客に語りかけるが、これもミュージカルのなごりであろう。だからこの映画は実話が元だが、実録物みたいなリアリズム映画ではなく、楽しい映画である。

ところでこの文章を書いたのは以上のことを書きたかったからではない。それはこの映画に「Can't Take My Eyes Off You」(「君の瞳に恋してる」)が出てきたからだ。映画でこの曲がでてきたとき、あ、この曲はフランキー・ヴァリだったけ、と思い出した。再度いうが僕は洋楽にも音楽にもとくに趣味はない。だけどふと聞いたりまた口ずさんだりした曲が非常に気になることがある。そうした曲はアップルストアで買ったりAmazonでCDを買ったりする。そうしてiPhoneやiPadに取り込んで、保養施設で友人とマージャンをするときなどは流したりする。他のお客がいるときは嫌がられるからできないが、仲間うちだと「今日は音楽はないの?」だと言われと喜んで流す。「Can't Take My Eyes Off You 」はパソコンのiTunesの中にはFrankie Valli & the four Seasones のものとSheena Easton のものと The Boys Town Gang のものの3つが入っているが、iPhone とIPad には The Boys Town Gang だけが入っている。

ところで経済情勢について書かないといったけど、経済の本に面白いことが載っていたから書いちゃおう。今『国債パニック』という本が出ている。著者はゲーム理論の啓蒙書を早くから出している逢沢明氏だ。紙でも出ているが僕はKindleの電子版で買った。紙で買ってもすぐ自炊するから電子版で買ったほうが良い。たぶんメモリーも電子版の方が少ないはずだもの。

さて何が面白いかといえば、この本には日本財政は破綻しないという意見の人の考えを紹介している。ほら日本国債は日本国内でほとんど買われているから大丈夫というのだよ。逢沢さんは本のなかで、この大丈夫論者らしき文章を引用する。確かにあの人たちの議論だ。読み始めて、ふとこの引用のパラグラフには引用元が書いてない。もしそうした人の意見の要約なら、そうは言っていないと突っ込まれる。また引用だとしても一部を取り出しては正確ではないと突っ込まれる可能性がある、人ごとながら心配になった。僕は逢沢さんと同じ側にいるが論争の作法として不必要に突っ込まれ事は避けたほうがいいという意見だ。ところがパラグラフの後の文章を見て笑ってしまった。あの引用は内容的には現代のリフレ論者の意見そのものだが、じつは太平洋戦争直前にだされた大政翼賛会推薦の『隣組読本 戦費と国債』を現代表記に変えたものなのだ。 天が下に新しき事なし。つねに愚か者が欲望のため同じ過ちを繰り返す。もちろん戦時国債も大政翼賛会のお墨付きにもかかわらず破綻すべくして破綻した。我が家にも紙くずとなった戦時国債があったような気がする。


DVD鑑賞:『ソウル1945』

2014-02-13 22:33:10 | 文化

昔は正月休みにはDVDの『ドクトル・ジバコ』をよく見たものだ。ハリウッド製のだよ。ほらエジプト人のオマー・シェリフがロシア人の医師で詩人の主人公を演じた。革命時のロシアが舞台のスペクタル映画だ。今は毎日が正月休みの境遇だから正月だからといって長編ドラマを敢えて見る必要はないのだが、ひょんなことから革命家がでてくる歴史スペクタルを見ることになった。それは韓流歴史ドラマの『ソウル1945』だ。DVDで35巻の71話だから昨年末から見始めて見終わったのは2月に入ってからだ。見ごたえのある大河ドラマといえる。

このドラマを知ったのは偶然だ。昨年末にケーブルテレビのBS日テレで見ていた『夢見るサムセン』を見逃した日があった。さっそくTSUTAYAに行ったがDVDが見当たらない。そこでGEOへ行った。そこにもなかった。ちなみに『夢見るサムセン』は今年に入って1月10日からリリースされたのだからその時点ではどこにもない。GEOに行ってみるとTSUTAYAもGEOもそれぞれ韓流ドラマのコーナーがあるけど置いてあるDVD作品は必ずしも同じではない。GEOで見かけたのがこの『ソウル1945』で日本統治時代から始まって朝鮮戦争までのドラマで、韓国ドラマには珍しく共産主義者が主人公らしい。そこで借りてみた。

このドラマは朝鮮戦争開戦直前に工作のため南朝鮮(韓国)に潜入した著名な共産主義的知識人でもある朝鮮労働党幹部を北へ逃亡するのを助けた罪で米軍関係者の妻である韓国人女性が死刑判決を受けて処刑された実話がモデルとなっている。しかし関係者の背景や関係者同士の関係はまったくドラマの創作になっていてモデルになった事件とは異なる。第一に米軍関係者はモデルになった事件ではアメリカ人だがこのドラマでは韓国人で準主役をなしている。

ドラマの初めの方を見て僕はこの共産主義者のチェ・ウニョクが主人公だと思っていた。だって咸興(朝鮮北部の工業地帯)一の秀才で平壌高普に首席合格したチェ・ウニョクが工場の事故での姉の死と労働争議と傷害事件に巻き込まれて高普への進学がダメになるが、ムン子爵の弟のムン・ドンギの助けによりイ参政の学校に入りそこから京城帝国大学を卒業して高等文官試験の司法科に受かり裁判官に任官するまでが前半で描かれているもの。おお!こんな経歴なら今の韓国なら親日分子としてその子孫も財産没収されるな。ところが労働争議を指導した共産主義者のムン・ドンギの逃走を助けることになってしまい自分もソ連に行くはめとなる。この人は共産主義者の理想には共感しているがその活動家にはなる気がないのだが状況によって二度も巻き込まれて裁判官と大学教授の地位をうしなうのだね。かわいそう。

少し話が変わるけど、日本統治時代でも朝鮮半島と日本では制度が違うのだね。学校でも平壌高普なんてでてくる。日本なら旧制中学か、それとも旧制高校も含むのかな。京城帝国大学はあるけどその下の高等学校が見当たらないから高普がそれに当たるのかな。それとも大学予科なんてものがあったのかな。とにかく教育勅語を含む日本の教育制度がそのまま施行されてはいないらしい。徴兵制度も戦争末期まで施行されていない。そうそうチェ・ウニョクが受かったのは高等文官試験の司法科で任官の辞令をもらいに京城まで行った。そうなると官僚制度も別々となる。日本では高等文官試験と司法試験及び外交官試験は官吏登用の三試験として別々だ。また高等文官試験に受かったのなら東京の本省で辞令を受けるはずだ。だからチェ・ウニョクが受かったのは朝鮮総督府独自の高等文官試験ということになる。よく日本は朝鮮を植民地にしたという人がいるけど、一次産品と労働力を奪う植民地とは違う気がする。日本の方の持ち出しが多いほど資金を投入しているから。こう言うと韓国人がそれは大陸侵略の基地にするためだと言うだろう。でもそれは筋の違う話。しかし古代ギリシャの植民市とも違う。でも本土といろんな制度が違うことはやっぱり植民地なのかなとも思う。でも内鮮一体を目指していた政治家もいたことは事実。太平洋戦争がなければ昭和20年代には徴兵制度も教育制度も選挙制度も同一になっていた可能性がある。その上で自治権の拡大の上昭和40年ごろに朝鮮は独立していたかもしれない。たぶん朝鮮半島の人々にはそれが一番良い結果のような気がする。しかし逆に太平洋戦争の敗戦がなければ日本の民主主義は遅れていただろう。日本としてはこれでいいのだ。

 

話を戻すと、チェ・ウニョクは主人公ではなかった。やはり共産主義者は主人公ではない。後半ではチェ・ウニョクは現実とのギャップに苦しみ活動が精彩を欠いてくる。逆に前半は存在感が薄かったイ・ドンウが韓国軍に加わり活躍し始める。結局ウニョクの恋人でドンウの婚約者であるキム・ヘギョンが主人公だったことがわかる。モデルになった人物は処刑されるが、このドラマでは貨物船で日本に逃げて生き延びる。

 

余分なことを先走って書き過ぎたが、このドラマでは4つの家族が中心に話が進む。それ以外にもう1人悪役で出てくる。4つの家族とは、一つはチェ・ウニョクの家族。父親は鉱山労働者で母と姉と二人の妹がいた。 姉のグミは工場で働いてウニョクが進学するのを楽しみにして制服代を貯金していたが工場の事故で死ぬ。二つ目はキム・ゲヒ(ヘギョン)の家族。父親はムン(文)子爵の咸興にある別邸の管理人。母親も別邸の使用人として働いていた。ゲヒ自身もムン子爵の一人娘ムン・ソッキョンの付き人になる。妹が二人いたが妹の1人は父親と一緒にムン・ドンキを助ける時に警官に打たれて死ぬ。三つ目はムン(文or文山)子爵の家族だ。ムン子爵は鉱山労働者の出身なのにこのドラマの時点では朝鮮経済界の大物で爵位まで持っている。妻の寺内雨香は朝鮮人ながら寺内総督の養女だ。咸興や総督府の役人もムン子爵を閣下と立てまつっている。ムン子爵の一人娘はムン・ソッキョンだ。若くして日本のピアノコンクールに優勝して東洋一のピアニストと言われている。ムン子爵の弟ムン・ドンギは東京帝国大学在学中に高麗共産党事件で逮捕された経歴を持つ共産主義者だ。4つの家族の最後はイ参政の家族だ。イ参政の家は名家でムン子爵が経営する鉱山は元はといえばイ参政の家のものだった。参政というのは総督府でのある種の地位を表す称号らしい。そのイ参政の息子がイ・ドンウだ。ムン・ドンギが教師をしていた学校でチェ・ウニョクと親友となった。ただイ・ドンウは共産主義者にはならなかった。しかしムン・ドンキの逃亡には手を貸したため警察の追求を避けるためにアメリカへ留学する。なおイ参政は鉱山を取り戻すため策謀するが、息子ドンウとムン・ソッキョンを婚約させることでムン子爵と和解する。そして悪役はパク・チャンジュだ。彼はムン子爵の所有する工場の労働者だったが労働争議の首謀者を密告することでムン子爵から補助憲兵学校に推薦してもらい警察官になって太平洋戦争中には警視まで出世する。日本の敗戦後ソ連が進出した北朝鮮では人民政府から死刑判決を受けるが逃亡して南朝鮮では防諜隊の中佐にまで出世する。パク・チャンジュは労働者時代からムン・ソッキョンを恋慕しいているがその恋が叶うことはなかった。

さて登場人物の背景は書いたが、ここでは全編のストーリーを書くつもりはない。僕がここでは興味を引いたのは日本統治時代を現代の韓国人がどう感じているのかということだ。つまりドラマの製作者としてもあるいは視聴者としても自分達の持つ観念とかけ離れた設定のドラマは流れないはずだと思う。だからドラマの描写で日本統治時代にたいする韓国人の観念が解る。そう言うと、きっと残酷な圧政で不当に弾圧されている場面が出てくると思うかもしれない。でも違うなあ。確かに警察の拷問なども出てくる。でもこの『ソウル1945』で共産主義者を拷問するのは朝鮮人であるパク・チェンジュ(当時は木村警部補)だ。そういえばこのパク・チャンジュ役のパク・サンミョンが主役をしていた『将軍の息子』という実録ドラマでも、警察署の日本人の警部は人格者で主人公と親友になるが、ただ1人執拗に主人公をねらう国本刑事は創氏改名をした朝鮮人という設定であった。『将軍の息子』では悪役と言えるのはこの国本刑事だけ。主人公と対立する日本人ヤクザの親分も朝鮮人の子分とその家族の面倒を見るので朝鮮人の子分も多いという設定で悪役ではなくイケメンの役者が演じている。総じて『将軍の息子』では日本人は公平という価値観を持ち、朝鮮人は民族主義という価値観を持ちそれぞれが自分の価値観の優位性を信じている。それから『将軍の息子』ででてくる戦前の京城の街は清潔で文化的に見える。これは『ソウル1945』でも同じ。鉄道もこぎれいだ。

おっと話がそれたので『ソウル1945』に戻そう。このドラマを見始めて最初に驚いたのはムン(文山)子爵という人物が出てくる。子爵だって!子爵は公候伯子男の下から二つ目だからそれほど高いとは思われないかもしれないが旧大名が受け取る爵位だ。華族制度ができた時、大大名が侯爵、中大名が伯爵、小大名は子爵になったはずだ。領地の実税収額で見るから幕府での公式石高とは違いがあるので幕府下の序列とは逆転もあった。朝鮮人でも爵位を持つ者はあった。大概は日韓併合に功績のあった李朝末期の政治家や国王の縁戚者である。しかしムン子爵は鉱山労働者の出身だ。もちろん経済人でも国家に功績があれば爵位がもらえる。血盟団事件で殺された三井合名の団琢磨が男爵をもらっていた。ムン子爵はその上の位だ。一体どんな功績があったのだろう。ドラマにはその理由がでてこない。ただ寺内総督の養女の雨香(あめかおり)と結婚した時に寺内総督から京城の屋敷を贈られたという話が出てきた。もちろんムン子爵という人物は創作だ。僕にはモデルとなった人物もいたとは思えないし、あり得ないだろうという感じ。ただ僕がここで言いたいのは、この設定が韓国人にとって「全くあり得ない。荒唐無稽だ」とは思われていないみたいなことだ。

ムン子爵は鉱山や工場のある咸興では絶大な権力をもち日本人官吏も「閣下」とよんで服従する。「朝鮮は天皇が支配するが、咸興はムン子爵が支配する」と言われたらしい。ムン子爵は時々大礼服をきて総督府の会議に出る。多分経済人の会合だろう。朝鮮人の綬爵者などは表向き奉られだけで実質は無視されるだろうと思われるが、どうしてどうしてムン子爵は総督府で重きをなしている。「植民地」ということで現地の生産手段は宗主国の人間に奪われると思いがちになる。たしかに咸興の鉱山は元の持ち主のイ参政から奪われたらしい。でもこれは軍事的に重要な施設だから総督府が取得したものと解釈できる。それは日本人でなくムン子爵に運営を託された。イ参政もかなりの資産家だからその時かなりの補償を受けたのだろう。時は流れ鉱山の運営の委託の更新時期が来た。イ参政はこの機会に鉱山を取り戻そうと策略する。また真崎男爵など日本人も運営権を得ようと画策する。しかし結局は引き続きムン子爵の手に委ねられた。その時宇垣総督は真崎男爵に「朝鮮人の誇りを持たせるため、朝鮮人に渡すことが必要なのだ」という。

ムン子爵の妻は雨香だ。これは寺内初代朝鮮総督の養女ということになっている。雨香は創作上の人物だが、寺内総督に朝鮮人の養女がいたかどうかはWikipediaを見てもわからない。朝鮮人の懐柔のため朝鮮人の侍女を養女にしたことは考えられる。そうするとポーズだから朝鮮総督をやめたとか死んだ後で他の親族とかとは疎遠になると思われる。ところが雨香は寺内総督の息子の南方軍司令官の寺内大将を電話で「お兄様」と呼び出し助けを求めたりする。終戦後ムン子爵は自決したので雨香は寺内総督の親族を頼り日本に逃れる。朝鮮戦争時に雨香は娘のムン・ソッキョンを迎えに韓国に来るが裕福そうであった。寺内総督の親戚が軍需工場を経営していて朝鮮戦争特需で儲かっているとのことだ。日本人は血のつながらない異国人の義理の親戚をも優遇するらしい。

昭和19年の末ごろと思われるが、総督府の会議でフィリッピンの日本軍がアメリカ軍を打ち破ったという誤った情報(大本営発表か)で、「もうすぐアメリカはお手上げで降伏する。そうなると弾丸を多く作って戦争に協力したムン子爵は功労者だ。戦争終了後陛下に宮中に呼ばれるだろう。陞爵(しょうしゃく、爵位が上がること)もあるだろう 」などと総督府の要人がムン子爵をおだてた。どんな状況認識だろうね。そういえば同じ昭和19年だが東條首相の辞任のあとに首相になった朝鮮総督の小磯國昭は首相になって「日本がこんなに負けているとは知らなかった」と言った記録がある。ただ総督府の日本人を含む要人がムン子爵を褒めるのは口先だけの社交辞令ではない。日本が敗戦後に共産主義者が咸興を支配したときムン子爵が逮捕されそうになったが共産主義者の弟ムン・ドンギの制止を振り切って割腹自殺をした。するとそれを知った京城の総督府の要人は「ソ連に捕まって辱めを受けるより死を選んだのだ。さすが文山(ムン)子爵」と褒め称える。つまりムン子爵は位階にふさわしく扱われ尊敬もされていた。

つまり現代の韓国人でも、日本統治下では日本人は朝鮮人を平等に扱おうとしたという暗黙の了解があるのだ。そういえばパク・チャンジュは最初の登場から何年かたった時は咸興の警察で警部補になっていて共産主義者摘発の功績で勲章も授与されていた。驚くのはそのあと太平洋戦争中に出て来た時は警視になっていた。そしてパク・チャンジュはムン子爵に会いに行って娘のムン・ソッキョンを妻に下さいと言って断られる。その時パク・ジュンチェはもっと出世して総督府の警務部長になってムン・ソッキョンを妻にすると心にちかう。これを見て驚いた。はたして補助憲兵上がりの朝鮮人が警務部長という高官になれるのか。日本統治下の朝鮮では日本軍の憲兵組織が警察機構を受け持つ武断政治であった。日本陸軍の高級将校でなければ警務部長になれないと思うのである。でもドラマの製作者も現代韓国の視聴者もあり得ることとして違和感を持っていないのだ。しかし現代日本人の感覚でもノンキャリアが官僚組織のトップに行くようなあり得ない感じがする。朝鮮総督府では日本国内ではあり得ないような能力本位で出世すると思われるのかな。それから朝鮮人が日本統治時代をどう見ているのかの問題だ。この『ソウル1945』では8月15日の後の朝鮮人民の狂喜乱舞姿を描いている。たしかに民族主義的性向の強い朝鮮人民は独立が嬉しかったであろう。だがその後得たものはなんだろう。朝鮮戦争のさなか雨香はムン・ソッキョンを迎えに韓国へ来た。その時韓国人に言った言葉が「独立して7年も経つのにこの様はなんです」だ。韓国人の返事は「戦争なので仕方がない」だ。でも共産党の強い国やソ連軍が進駐しても共産党を含めた連立政権を立てて国家の統一を維持した国はいくつもある。フィンランドやオーストリアのように中立国として国を維持できたかもしれない。イタリアやフランスのように一旦は連立政権を作ってもよかった。でも非妥協的党争は李朝時代から現代に続く朝鮮民族の宿痾の病だ。突然の権力の空白は争乱の元だ。

「時代が悪い」この言葉は、1945年以後のこのドラマにたびたび出てくる言葉だ。でもこの登場人物たちは他のどの時代を知っているのだろうか。年配者は幼い頃の記憶で李朝時代を知っているかもしれないがほとんどの記憶は日本統治時代だ。比べられるとしたら日本統治時代しかない。

そうそう韓国軍がソウルにもどってきたとき、反共青年団が共産主義者の親を捕えて死刑にする。共産主義者を育てた罪は重いとのことだ。韓国政府も米軍も合法的なことだと容認する。まるで朝鮮王朝の反逆罪みたいだ。日本統治時代には考えられない暴挙だ。「時代が悪い」とはこういうことだ。

キム・ヘギョンはチェ・ウニョクの逃亡を助けた罪で死刑判決をうけた。ところが朝鮮人民軍がソウルを占領すると一躍英雄となった。しかし戻ってきた韓国軍によってチェ・ウニョクとともに山岳にこもった部隊で看護兵となる。その時チェ・ウニョクと話しあったのは平和になったらチェ・ウニョクは子供の学校の教師になって二人で暮らそうというもの。でもこの夢は日本統治時代の匂いがする。チェ・ウニョクのこの夢は恩師ムン・ドンギが粛清されるのを始め多くの共産主義政権の暗黒面を見過ぎたウニョクにはそれを全て忘れて共産主義政権下で学校の教師になることは難しい。ウニョクはあやまって味方に撃たれて死ぬがどのみち共産党政権では粛清されずにはおれない誠実な人間だ。だからウニョクの夢にふさわしい状況は日本統治下だと思う。キム・ヘギョンとチェ・ウニョクが婚約直前だったのは解放後だ。その時はチェ・ウニョクは京城帝国大学(大日本帝国は亡くなってもまだ帝国大学だった)法学部教授だった。その時に戻ることを望まないのはその時でも政治の渦が取り巻いていたからだろう。

そうそう『将軍の息子』では一番の人格者は警察の柔道師範の日本人警部だったが、この『ソウル1945』でもなかなか好感の持てる日本人がいる。それは半島ホテルのイケメンの支配人だ。彼は職を求めるヘギョンを洗濯係りとして採用して客室係りへと昇進させて英語も勉強させる。ヘギョンに好意を持っているがセクハラ・パワハラなどは一切しない。そして日本が敗戦して日本に帰ることとなった時「私のここでの最後の仕事はあなたをマネージャーに昇進させることです」と言って帰っていった。マネージャーは支配人の下で3人しかいないホテルの幹部だ

結論として韓国人は日本統治時代とはそれなりに良い時代だったと思っているのではないか。下層階級でも進学や出世のチャンスがあった。また日本人はおおむね公平であった。しかし民族主義の立場からそれを認めたくない。だから韓国人の中の親日分子狩りという歪んだ形となる。チェ・ウニョクは総督府のもとで判事になったから今なら親日分子だね。このドラマを見た韓国人はこのことをどう評価するのかな。


昨日の沢尻エリカと先週の『相棒』の就活女子学生

2013-11-19 22:14:55 | 文化

昨日TBS系列で放送された沢尻エリカ出演の『時計屋の娘』を見た。つくづく思うのは沢尻エリカの演技のうまいことだ。こんな風に演技のうまい人は役になり切っているのかなと思う。そうすると沢尻エリカもあの時「別に」なんて言わないで、まわりにあわせてそれらしく振舞うことぐらい簡単なのに、と思ったところで急に『相棒』の先週放送分を思い出して合点が行った。先週放送の『相棒』では就活中の女子大学生が殺された。その女子大学生は一流商社に入社することを目標に大学4年間いやそれ以前からすべての努力を集中してきた。予行演習と滑り止めを兼ねた他業種の面接も「取りたい優秀な学生」をアッピールして軒並み合格するが本命ではないので断りをいれて残念がられたり顰蹙を買ったりする。友人が目標にしていて不合格となった証券会社も合格したが断った。不合格の友人は「ふざけている」と非難するが、女子大学生は「あなたが不合格になったのは私のせいじゃない。あなたはその会社にはいるために4年間どんな努力をしてきたの」と言い返す。まあ正論だが職業のために努力するのは分かるが特定の会社のためにずっと努力するのはわからない。むかし公務員試験対策の専門学校出の人が役所に現れはじめたころ「そんな勉強までして入るところか?」というのが係長(僕・大卒)と係員(女性・高卒)の共通した感想だった。いまでは普通みたいだけど。

さて女子大学生が殺されたのは、その一流商社の採用担当者が彼女に入社してもらっては困ると思ったからだ。その会社の会長か社長はボランティアに強い関心をもっている。そのため就活者のあいだではその会社に入るのにボランティア活動の経歴が有利とのうわさがある。事実その採用担当者自身がカンボジアの井戸掘りボランティアの経験を強くアピールして入社して、さらに会長(or社長)の娘との縁談も進んでいる。しかしその井戸掘りボランティアはウソだった。実はその女子大学生こそがカンボジアで井戸掘りボランティアをしていたグループにいた。採用担当者は旅行者でそのボランティアグループから井戸掘りのことをいろいろ聞いて帰っていただけだ。採用担当者はその女子大学生を見たときボランティアをしていた学生だったことを思いだした。彼女が入社したら自分がウソをついていたことがばれてしまうと思ったのだ。

ところでその女子大学生は履歴書にボランティアのことは何も書いていない。その一流商社に入るのには断然有利なはずなのに書いてはいなかった。実際にしたことだから真の自分の姿を知ってもらうことができるはずなのに、というのが亨の意見。右京の解釈は、彼女は就活のためにあらゆる方策をとってきた。しかし彼女にとってカンボジアの井戸掘りバランティアは純粋にやりたかったことだ。それを就活に利用するとなんかボランティア活動の経験が汚される気がしたのだろう、というもの。

さて沢尻エリカに戻ろう。沢尻エリカにとってどんな場面・状況でのなり切った演技はお手の物だ。しかしここでエリカ自身が疑問にぶつかる。映画の舞台挨拶で感想を述べようと思うと、それがその場にふさわしく聴衆も望んでいる内容だと気が付くと、それが本当に自分のモノなのかそれとも演技なのかわからなくなる。ドラマ以外のところで演技することは大きな欺瞞ではないかと思い悩む。かくしてぶっきらぼうな発言となったのだ。