セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

また斎藤一人さん本がでた。

2006-05-07 08:58:00 | 文化
この間いろんな本などについて書き込みたいことがなかったわけではないが、なかなか新しい生活時間に対応するライフスタイルを確立できてなく、そうした時間をつくれないでいた。朝早いため夜は早く寝なければいけないのに、ずるずる無駄な時間を使ってしまい、結局一日の自由時間を有効に使ってこなかった。それに連休中も出勤だったし。
ただ早く目が覚める習慣は定着しすぎて、休日の土日でもテレビのニュースショウが始まる朝8時まで寝るつもりで前日夜更かししても朝5時に目が覚めてしまい、そのまま布団の中にいてももう眠れない。そんなわけで、朝早くめが醒めたので、久しぶりに書き込むことができる。でもやはり寝不足で頭がすこし痛い。

斎藤一人さん本が、また1冊出たので買って読んだ。遠藤忠夫「斎藤一人 天才の謎」。著者は例によって斎藤一人さんのお弟子さんの一人(アレ?)。
でもこのお弟子さんたちの本をみていつも思うことがある。本の著者の紹介でいつも、その地域やあるいは全国の「高額納税者の常連」という記述がある。出版社の意向かもしれないけど、それがなにか評価の基準になっているのかな。それにこのお弟子さんたちすべて斎藤一人さんの「銀座まるかん」関連の仕事をしている。それがちょっと残念なこと。だってうがった見かたをすれば、みんな一人さんのおこぼれで高額納税者になっているけど他の仕事をしていたらそんなに成功しなかったのではないかとも言えるから。

でもね、本でみる一人さんの考えはすばらしいよ。「弟子」という言葉から過度に思想的な面のみを見てしまうが、この場合の「弟子」とは一人さんと同じ仕事をしているため日常的に接触する機会が多いという意味にとればいいだろう。斉藤一人さんの考えに共鳴する人は全国にかなりいて、「ファン」と呼ばれていて「弟子」ではない。純粋に思想的な面では斎藤一人さんは弟子をもたないかもしれない。なぜなら斉藤一人さんの考え方はだれもが持っているが曇らされて発揮できていないものかもしれない。だから一人さんの考えは一人さんの発明ではないので、一人さんとファンは同じ考えを求めるご同朋ということ。おお、ここまでくると、親鸞が、自分は弟子を一人も持たない、といったことを思い出す。(というよりも親鸞のことから斎藤一人さんのことを類推したけれど。)

親鸞で思い出すのは、歎異抄で親鸞が、つらつら思うに阿弥陀如来の本願は自分の一人のためにある気がする、と言ったことだ。これは宗教的には敬虔主義な態度だ。外部からの理屈やイデオロギーにより帰依するのではなく、直接に自分自身が阿弥陀物(神、良知、サムシング・グレート等)に向き合う。ひょっとしたら斎藤さんの名前はこの親鸞の言葉から取られたのではないのだろうか。