書店でこの本を見かけたとき、昔それについて読んだことがあり少しばかり知っているハビアンについての本で、著者が釈徹宗さんなので興味を持ち読んでみることにした。釈徹宗さんは浄土真宗の僧侶で内田樹氏との共著の「インターネット持仏堂」等の著作がある。でも彼は宗教思想それも比較宗教論の大学の先生でもあったのだ。ちなみにこの人の名字は釈(しゃく)で、あの釈由美子とおなじ。明治になって全国民が強制的に名字を持つことになったとき、僧侶の中には仏陀つまりゴータマ・シダールタの出身のシャカ族にちなんで釈という苗字を選んだ人が多くいた。もっとも釈徹宗はペンネームの可能性もあるが。
不干斎ハビアンは安土桃山時代から江戸時代初期までに生きた人で、禅僧からキリシタンのイルマン(修道士)になり神仏儒とキリシタンの知識を駆使して著作「妙貞問答」や論争でキリシタン信仰の布教に努めたが晩年には棄教して「破提宇子(はでうす)」を著わしキリスト教を批判した。当時の宣教師たちの衝撃は大きく、「破提宇子」をペストと呼びキリシタンに手に取ることを禁止した。現代のカトリック作家などからは、「ハビアンはニセインテリ」だとか、「もともとキリスト教の理解が浅い」とか、と非難が多い。
ハビアンについて僕が昔読んだ本の内容では、「妙貞問答」における神仏儒を批判しキリスト教を擁護した同じ論拠を使い「破提宇子」でキリスト教を批判しているという。この本の著者もそれは認めているが、そこから「妙貞問答」の仏教各宗、儒教、神道の批判と「破提宇子」のキリスト教批判を繋げると一貫したものを含む比較宗教論となる。これは世界で初めての比較宗教論であるという。
山本七平はハビアンをキリスト教及び宣教師が合わせて持ち込んだ自然科学の知識のうち自分の基準に合うものを取り込んでいく「日本教徒」との典型だという。しかし釈氏は、キリスト教自体の戦略が現地に合わせる面ももっているので、日本教徒という地域性の特殊性ではなく、ハビアンのそれは現代のスピリチュアル・ムーブメントと共通する宗教的個人主義ではないのかという。
ところでの本ではいままで僕が疑問に思っていたことに触れている。それは時代劇などでキリシタンがいつもデウスを口にするがイエスがほとんど出てこないことだ。この本によるとカトリックは本来、地域社会にねざしたチャーチを基礎とした宗教組織だが、新教徒の対立で布教に乗り出したため、個人が宗教を選択するセクトという形をとった。そしてその布教先において布教内容の力点を変えていった。日本では三位一体などは説明しづらいのでイエスよりデウスに重点を置いた。したがってキリシタンとは日本だけの宗教ともいえる。このことで、僕が頭に思い描いたのは、キリスト教系の新興宗教である統一協会、エホバの証人、モルモン教徒のこと。この3団体は十字架を尊ばない。そこで僕は、キリスト教徒でもないにもかかわらず、この3団体は聖書でいうところの終末期にあらわれる偽預言者ではないのかと思った。だからキリスト教を偽装しても、反キリストであるがゆえに十字架を受け入れられないのだと。キリストも聖書も信じていないのにこう考えていたわけだ。しかし今考えると、チャーチの人間は三位一体を空気のようにうけいれる、独自で聖書なりに向かい合うと、キリスト教の初期と同じく、さまざまな解釈がでることになるのだろう。既存の宗教的権威を認めなければ、唯一神にして人間というのは理解が難しいであろう。もし宣教師たちが三位一体を前面にうちだしたなら、日本のキリスト教徒は受け入れる者、キリスト教自体を不可解として拒否する者、そしてキリストの神性を疑い独自の解釈を立てる者と様々に混乱したであろう。
不干斎ハビアンは安土桃山時代から江戸時代初期までに生きた人で、禅僧からキリシタンのイルマン(修道士)になり神仏儒とキリシタンの知識を駆使して著作「妙貞問答」や論争でキリシタン信仰の布教に努めたが晩年には棄教して「破提宇子(はでうす)」を著わしキリスト教を批判した。当時の宣教師たちの衝撃は大きく、「破提宇子」をペストと呼びキリシタンに手に取ることを禁止した。現代のカトリック作家などからは、「ハビアンはニセインテリ」だとか、「もともとキリスト教の理解が浅い」とか、と非難が多い。
ハビアンについて僕が昔読んだ本の内容では、「妙貞問答」における神仏儒を批判しキリスト教を擁護した同じ論拠を使い「破提宇子」でキリスト教を批判しているという。この本の著者もそれは認めているが、そこから「妙貞問答」の仏教各宗、儒教、神道の批判と「破提宇子」のキリスト教批判を繋げると一貫したものを含む比較宗教論となる。これは世界で初めての比較宗教論であるという。
山本七平はハビアンをキリスト教及び宣教師が合わせて持ち込んだ自然科学の知識のうち自分の基準に合うものを取り込んでいく「日本教徒」との典型だという。しかし釈氏は、キリスト教自体の戦略が現地に合わせる面ももっているので、日本教徒という地域性の特殊性ではなく、ハビアンのそれは現代のスピリチュアル・ムーブメントと共通する宗教的個人主義ではないのかという。
ところでの本ではいままで僕が疑問に思っていたことに触れている。それは時代劇などでキリシタンがいつもデウスを口にするがイエスがほとんど出てこないことだ。この本によるとカトリックは本来、地域社会にねざしたチャーチを基礎とした宗教組織だが、新教徒の対立で布教に乗り出したため、個人が宗教を選択するセクトという形をとった。そしてその布教先において布教内容の力点を変えていった。日本では三位一体などは説明しづらいのでイエスよりデウスに重点を置いた。したがってキリシタンとは日本だけの宗教ともいえる。このことで、僕が頭に思い描いたのは、キリスト教系の新興宗教である統一協会、エホバの証人、モルモン教徒のこと。この3団体は十字架を尊ばない。そこで僕は、キリスト教徒でもないにもかかわらず、この3団体は聖書でいうところの終末期にあらわれる偽預言者ではないのかと思った。だからキリスト教を偽装しても、反キリストであるがゆえに十字架を受け入れられないのだと。キリストも聖書も信じていないのにこう考えていたわけだ。しかし今考えると、チャーチの人間は三位一体を空気のようにうけいれる、独自で聖書なりに向かい合うと、キリスト教の初期と同じく、さまざまな解釈がでることになるのだろう。既存の宗教的権威を認めなければ、唯一神にして人間というのは理解が難しいであろう。もし宣教師たちが三位一体を前面にうちだしたなら、日本のキリスト教徒は受け入れる者、キリスト教自体を不可解として拒否する者、そしてキリストの神性を疑い独自の解釈を立てる者と様々に混乱したであろう。