テレビの医療ドラマをよく見る僕も、医療をテーマした小説はあまり読んではいなかった。海堂尊『チーム・バチスタの栄光』もテレビでも映画でも見たが、同じ内容ならあらためてその原作小説までは読みたいと思わなかったので読んでいない。ところが最近、書棚のなかに幻冬舎文庫の大鐘稔彦『孤高のメス 外科医当麻鉄彦』の第1巻があるのに気づいて読み始めた。本の裏表紙の内容説明に輸血を拒否する「エホバの証人」の手術についてのドラマらしいので興味をもって念のため数年前に買っておいたものである。
読み始めるとこの本は輸血拒否の問題はそのエピソードの一部にすぎず、主たるテーマ―は日本の外科医療に携わる医師のあり方と医師養成の在り方への告発である。ぐんぐん引き込まれ読み進んだ。『孤高のメス 外科医当麻鉄彦』は全6巻なので、2巻以降はアマゾンの中古で取り寄せた。中古本の値段は各巻とも1円だが郵送料は250円で合計1冊につき251円となる。1円では保管費用も出ないと思うがたぶん郵送料名目の250円のなかから利益を出しているのであろう。その証拠に数巻まとめて同じ出展者に注文してまとめて送られてきたがやはり1冊分は251円請求された。中古としているが本は全く新品とかわりなかった。いまは6巻全部読んで、次のシリーズの『孤高のメス 神の手にはあらず』を取り寄せて読んでいる。
最初のシリーズの6巻を読み終えた時点で、インターネットで「孤独のメス」を検索してみた。今月つまり6月の初めである。するとなんと映画の『孤高のメス』が6月5日から封切りするというではないか。「え!なんたる偶然、あと数日で映画が見られるのか!」と思ったが、なんのことはない2010年つまり去年の6月5日のことであった。そういえば去年ぐらいにそんな映画の宣伝を映画館で見たような気がしてきた。DVDが昨年末に発売になっているらしいので、早速TSUTAYAに借りにいったが見つからない。主演(当麻鉄彦役)の堤真一の主演作がかたまっているコーナーにもなかった。DVDは発売になってもレンタルにはなっていないのかなと思ったが、GEOにいってやっと見つけて100円で借りてきた次第である。
DVDを見ると登場人物名と手術内容は同じだが、病院の背景とか登場人物の家族関係などが違っている。原作の長いストリーを2時間ぐらいの1本の映画に納めるためかなり加工しているようだ。ちなみに手術というのは脳死者からの肝臓移植だ。この小説と映画の舞台となる年代では日本ではまだ脳死に関する法律ができておらず、当然ながらこの肝臓移植手術は日本で最初という設定。この小説は作者で外科医の大鐘稔彦氏の体験をもとに書かれているが、エホバの証人への無輸血手術は大鐘氏自身の体験でもあるが、日本最初の肝臓移植手術はそうではないと思うが、日本の外科医療の問題点の描写のために主人公の当麻鉄彦をその渦中に置いたのだろう。
さて映画(DVD)と小説の違いに戻ろう。映画では手術室担当の看護婦(今では看護師)の中村浪子の視点から物語が進んでいく。市民病院(たぶん千葉県にある市)の手術室担当の看護婦の中村浪子は病院の外科医の粗雑なメスさばきで多くの患者や死んで行くのに深い憤りと絶望感をもっていた。そこに新しく第1外科医長として当麻鉄彦が赴任してきたわけである。第1外科医長というのは元々1つだった外科だが当麻が来たが、大学から派遣されたもう1人を排除できないため外科を2つに分けて医長を2人にしたもの。
ところが小説のほうでは中村浪子は極めて有能な看護婦ではあるが、ほとんど発言(せりふ)もない。そうそう映画では中村浪子は30代の子持ちの母子家庭の女性であるが、小説では20代の未婚女性である。そうそう第一に中村浪子は別の病院(日赤病院)に勤めていたが、当麻の病院の調理員をしていた浪子の母親の手術を当麻が行うのに立ち会ったのがきっかけで当麻のいる病院に勤めたのだ。
小説のほうでその目を通して病院内の様子を描写するのは医局秘書の江守京子の役割だ。だけど映画では出てこなかった気がする。江守京子は当麻に好意を寄せているが、完全に片思い状態。中村浪子も当麻が好きらしいが小説ではその他看護婦と同様の扱い。江守京子は美人であるが、もっと超美人が病院へ併設のホスピスに看護婦としてくるが、当麻とはほとんど没交渉で当麻の助手の矢野のエピソードに絡んでくるだけ。では当麻鉄彦にロマンスは関係ないかというとそうでもなく、町長の娘の大川翔子とお見合いの後交際している。映画では母親をなくして父親の市長に甘やかされて育ったような現代的な娘という感じで当麻とのロマンスもない。小説では母親も生きていて神戸の大学院で国文学を学ぶ理知的な女性で当麻と交際する。
ちなみに町長とか市長とかややこしいが、映画はたぶん千葉県にある市の市民病院が舞台だが、小説では琵琶湖湖畔の民間病院の話になっている。映画では市長だから市民病院に大切な人物ということだが、小説では当麻のいる民間病院である甦生病院に理解があり、役場内での町立病院設置の動きを抑えるだいじな人ということだ。肝臓移植手術をうけるのはこの町長(映画は市長)だ。
もう少し違うところを書くと、映画では大学病院教授の実川(さねかわ)教授は、当麻とアメリカのピッツバーグで一緒に肝臓移植を学んだことになっているが、小説では当麻はピッツバーグだが実川はイギリスのケンブリッジで肝臓移植を学んでおり、以前には面識がなかったのだ。なお小説では最初は実川は助教授として出てくるが、当麻の肝臓移植時点では教授になっていたのでその点では映画の実川教授は間違いでない。
そうそう映画では当麻鉄彦は手術中に都はるみのテープ流すが、小説ではポール・モーリアだ。主人公の性格設定に違いがでるのでは?
最後に設定の抹消なことでなく映画と小説の違いを言おう。映画では手術中のメスを持つ外科医の不手際で血が噴き出すというショッキングな場面で始まっている。この点では映画も小説も同じ主張をしていることになる。すなわち技量の伴わない外科医がいっぱい横行しているということだ。でも映画はそこで終りだ。つまり中には未熟な外科医もいるのであったら不運だ。せいぜいそうした医師にはメスを持たせないようにというぐらいだ。
でも小説では、大学の医師養成システムを問題にしている。大学病院の外科の教授なのにまともにメスを扱えない者がいる。外科医が箔付けのために技術の鍛錬をほっておいて博士論文のための無駄な統計取りなどに何年も費やすこと。また専門医の肩書を持っていても専門医の認定はなんら実技内容が考慮されていないことだ。
医師の間で学閥意識が横行していること。また地方病院や中小病院の医師の中には難しい手術を要する急患が運び込まれたとき、すぐ手術しなければ患者の命が危ない場合でも、他の大きな病院へ回そうとすることだ。とにかく自分が引き受けなきゃ。なんだか公務員の話に思えてきた。
読み始めるとこの本は輸血拒否の問題はそのエピソードの一部にすぎず、主たるテーマ―は日本の外科医療に携わる医師のあり方と医師養成の在り方への告発である。ぐんぐん引き込まれ読み進んだ。『孤高のメス 外科医当麻鉄彦』は全6巻なので、2巻以降はアマゾンの中古で取り寄せた。中古本の値段は各巻とも1円だが郵送料は250円で合計1冊につき251円となる。1円では保管費用も出ないと思うがたぶん郵送料名目の250円のなかから利益を出しているのであろう。その証拠に数巻まとめて同じ出展者に注文してまとめて送られてきたがやはり1冊分は251円請求された。中古としているが本は全く新品とかわりなかった。いまは6巻全部読んで、次のシリーズの『孤高のメス 神の手にはあらず』を取り寄せて読んでいる。
最初のシリーズの6巻を読み終えた時点で、インターネットで「孤独のメス」を検索してみた。今月つまり6月の初めである。するとなんと映画の『孤高のメス』が6月5日から封切りするというではないか。「え!なんたる偶然、あと数日で映画が見られるのか!」と思ったが、なんのことはない2010年つまり去年の6月5日のことであった。そういえば去年ぐらいにそんな映画の宣伝を映画館で見たような気がしてきた。DVDが昨年末に発売になっているらしいので、早速TSUTAYAに借りにいったが見つからない。主演(当麻鉄彦役)の堤真一の主演作がかたまっているコーナーにもなかった。DVDは発売になってもレンタルにはなっていないのかなと思ったが、GEOにいってやっと見つけて100円で借りてきた次第である。
DVDを見ると登場人物名と手術内容は同じだが、病院の背景とか登場人物の家族関係などが違っている。原作の長いストリーを2時間ぐらいの1本の映画に納めるためかなり加工しているようだ。ちなみに手術というのは脳死者からの肝臓移植だ。この小説と映画の舞台となる年代では日本ではまだ脳死に関する法律ができておらず、当然ながらこの肝臓移植手術は日本で最初という設定。この小説は作者で外科医の大鐘稔彦氏の体験をもとに書かれているが、エホバの証人への無輸血手術は大鐘氏自身の体験でもあるが、日本最初の肝臓移植手術はそうではないと思うが、日本の外科医療の問題点の描写のために主人公の当麻鉄彦をその渦中に置いたのだろう。
さて映画(DVD)と小説の違いに戻ろう。映画では手術室担当の看護婦(今では看護師)の中村浪子の視点から物語が進んでいく。市民病院(たぶん千葉県にある市)の手術室担当の看護婦の中村浪子は病院の外科医の粗雑なメスさばきで多くの患者や死んで行くのに深い憤りと絶望感をもっていた。そこに新しく第1外科医長として当麻鉄彦が赴任してきたわけである。第1外科医長というのは元々1つだった外科だが当麻が来たが、大学から派遣されたもう1人を排除できないため外科を2つに分けて医長を2人にしたもの。
ところが小説のほうでは中村浪子は極めて有能な看護婦ではあるが、ほとんど発言(せりふ)もない。そうそう映画では中村浪子は30代の子持ちの母子家庭の女性であるが、小説では20代の未婚女性である。そうそう第一に中村浪子は別の病院(日赤病院)に勤めていたが、当麻の病院の調理員をしていた浪子の母親の手術を当麻が行うのに立ち会ったのがきっかけで当麻のいる病院に勤めたのだ。
小説のほうでその目を通して病院内の様子を描写するのは医局秘書の江守京子の役割だ。だけど映画では出てこなかった気がする。江守京子は当麻に好意を寄せているが、完全に片思い状態。中村浪子も当麻が好きらしいが小説ではその他看護婦と同様の扱い。江守京子は美人であるが、もっと超美人が病院へ併設のホスピスに看護婦としてくるが、当麻とはほとんど没交渉で当麻の助手の矢野のエピソードに絡んでくるだけ。では当麻鉄彦にロマンスは関係ないかというとそうでもなく、町長の娘の大川翔子とお見合いの後交際している。映画では母親をなくして父親の市長に甘やかされて育ったような現代的な娘という感じで当麻とのロマンスもない。小説では母親も生きていて神戸の大学院で国文学を学ぶ理知的な女性で当麻と交際する。
ちなみに町長とか市長とかややこしいが、映画はたぶん千葉県にある市の市民病院が舞台だが、小説では琵琶湖湖畔の民間病院の話になっている。映画では市長だから市民病院に大切な人物ということだが、小説では当麻のいる民間病院である甦生病院に理解があり、役場内での町立病院設置の動きを抑えるだいじな人ということだ。肝臓移植手術をうけるのはこの町長(映画は市長)だ。
もう少し違うところを書くと、映画では大学病院教授の実川(さねかわ)教授は、当麻とアメリカのピッツバーグで一緒に肝臓移植を学んだことになっているが、小説では当麻はピッツバーグだが実川はイギリスのケンブリッジで肝臓移植を学んでおり、以前には面識がなかったのだ。なお小説では最初は実川は助教授として出てくるが、当麻の肝臓移植時点では教授になっていたのでその点では映画の実川教授は間違いでない。
そうそう映画では当麻鉄彦は手術中に都はるみのテープ流すが、小説ではポール・モーリアだ。主人公の性格設定に違いがでるのでは?
最後に設定の抹消なことでなく映画と小説の違いを言おう。映画では手術中のメスを持つ外科医の不手際で血が噴き出すというショッキングな場面で始まっている。この点では映画も小説も同じ主張をしていることになる。すなわち技量の伴わない外科医がいっぱい横行しているということだ。でも映画はそこで終りだ。つまり中には未熟な外科医もいるのであったら不運だ。せいぜいそうした医師にはメスを持たせないようにというぐらいだ。
でも小説では、大学の医師養成システムを問題にしている。大学病院の外科の教授なのにまともにメスを扱えない者がいる。外科医が箔付けのために技術の鍛錬をほっておいて博士論文のための無駄な統計取りなどに何年も費やすこと。また専門医の肩書を持っていても専門医の認定はなんら実技内容が考慮されていないことだ。
医師の間で学閥意識が横行していること。また地方病院や中小病院の医師の中には難しい手術を要する急患が運び込まれたとき、すぐ手術しなければ患者の命が危ない場合でも、他の大きな病院へ回そうとすることだ。とにかく自分が引き受けなきゃ。なんだか公務員の話に思えてきた。