8月30日の木曜日に名古屋駅前で映画を見てきた。交通費がもったいないので2本のハシゴである。時間の関係で先にピカデリーで『あなたへ』を見てそのあと109シネマズで『ダークナイト ライジング』を見た。ピカデリーでは株主優待券で無料、109シネマズでは60才以上なので1000円の入場料だ。ミッドランドでも『ダーナイト ライジング』を上映しているからミッドランドで株主優待券で見ればいいとも言えるがどのみち株主優待券は足りなくなるので時間つなぎの関係でこうしても経済的に損したわけではない。
109シネマズでは年齢確認のために求められ免許証を見せた。以前ミッドランドで優待券を使わない時に免許証を見せようとしたら必要ないと言われた。109シネマズのほうが気分がよいのは何故だろう。あ、いろいろ取り留めもないことも書いているけどこのブログは個人的な日記も兼ねているので我慢してね。
『あなたへ』も『ダークナイト ライジング』も良い映画でどちらも面白くテーマについても考えさせるものも持っている。洋画だけでいえば『ダークナイト ライジング』はその前に見た『プロメテウス』よりはるかに良い。『プロメテウス』は宣伝により知的興味を持って見にいったがまったくの期待はずれである。『ダークナイト ライジング』では社会学的にも哲学的にも衝撃性を持っている。でも今日のブログの対象は『あなたへ』だ。
『あなたへ』はすごい観客動員力だ。ピカデリーでは二つのスクリーンで1時間ズレの同時上映していた。異例なことだ。同一映画の同じ映画館内での別スクリーンの同時上映は洋画ではよくあるが、それは3D版と2D版あるいは字幕版と吹替版とかなんらかの違いがある場合だ。『あなたへ』の場合は1スクリーンでは観客を収容できないからだろう。
平日なのに満席に近かった。夏休み中だからではない。若い人ましてや学生らしき人はほとんどいなかった。大部分は中高年で夫婦づれも多かった。ではこうした人たちは何を期待してこの映画を見にきたのてあろうか。当然に老年にさしかかった夫婦の愛情と絆だろう。おそらくこの映画はそうしたものを伝えるつもりで作られたのだろう。でもシュチエーシに偏りがある気がする。個人主義的傾向の強いリバタリアンの僕が言うのも変だが、あまりにも個人主義すぎて主人公が最後につかんだものは何なのだと思う。希望かそれとも絶望か。ドラマは感情移入の力が強いから多くの観客は感動して帰ったろう。しかしもし自分が主人公で局留めの妻の最後の手紙を見た時つまり映画の最後にこそ多くの人は「洋子、君は私と結婚して、本当に幸せだったのだろうか」と問うかもしれない。
「洋子、君は私と結婚して、本当に幸せだったのだろうか」というのはノベライズ本の帯の文。本の編集者が適当につけたのか、本当に本と映画に出てくる言葉なのかは分からない。普通に書店でこのノベライズ本を手に取り帯文を見れば、主人公はこの問の答えを求めて旅に出たと思うだろう。しかし映画を見た僕にはこの問が最後に残ったものと思える。
ええと、まだ映画を見ていない人は何を書いているのかわからないと思うので筋を書いてみよう。高倉健が演ずる富山刑務所の作業技官の倉島英二は妻の死後しばらくして遺言状を預かるNPO法人の女性から妻からの手紙(遺言状)を受け取る。そこには遺灰を妻の故郷の長崎の海に散骨して欲しいということと、そのあと長崎の郵便局で局留めで妻の手紙を受け取って欲しいと書いてあった。手紙はNPO法人の女性が投函する。局留めには保管期限があるので早く散骨して手紙を受け取らねばならない。倉島は自分でキャンプ設備をしつらえた車で長崎を目指して出発する。
ここで人物背景を説明すると、倉島は刑務官を定年退職後に嘱託の作業技官として富山刑務所の受刑者に木材加工の職業訓練を指導している。死んだ妻の洋子はもと童謡歌手で過去に何度も富山刑務所に慰問にきていてしばらくしてぶりに見学者として富山刑務所を訪れて倉島に声をかけられたことが縁で結婚した。倉島は晩婚で十数年の夫婦生活で子どもはいない。
さてまず確認したいのは、少なくとも妻が死ぬまでは倉島は妻が結婚生活で幸せではないとは思ってもいなかっただろう。たびたびでてくる回想場面にはそんな徴候はない。だかから「洋子、君は私と結婚して、本当に幸せだったのだろうか」という問いがでてくるとしたら「散骨」の遺言を知った以降だと思う。
僕はNPOの人が散骨という亡妻の遺言状を持ってきた時、「散骨?ああ子どもがいないからな」と軽く思った。でもいま考えると疑問点が出てくる。普通「散骨」なんてことは生前から家族とよく話し合って意向を伝え理解し了承してもらうものなのに、遺言状で一方的に伝え、しかも「散骨」のあとに局留め郵便の手紙を読めなんて必ず散骨させる保険みたいなことをなぜしたのだろう。倉島が散骨せずに先に手紙を読むことは可能だ。しかし読んだらやはり散骨することになっただろう。ちなみに手紙の内容は一言「さよなら」だ。
倉島の友人で上司の刑務所の総務部長も自分の妻との会話で「散骨なんて俺はいやだ。さみしすぎる」と言っていた。これが普通の感覚であろう。「散骨」なんてものはある種の人生観世界観があってしかもそれを家族と共有していなければできるものではない。それがみられない倉島家の場合は「あんたとは一緒のお墓に入りなく無いわ」と言うキンチヨーのコマーシャルの台詞を言われたのとおなじだ。
NPO'法人を通しての遺言状というのも異常だ。争いのない睦まじい家族でも財産分与で遺言状を残した方が良い場合がある。でもそんな時は「金庫に入れてあるから万一の時に見るように」で済むはずだ。なぜ他人の手をとおすのだろう。局留め郵便という手のコミようのことも考えても他人行儀だ。
回想場面で元童謡歌手の妻の刑務所慰問は実は入所している内縁の夫に自分の姿を見せるために行っていたがその内縁の夫は獄中で病死したという。これを見たとき昔のキリスト教の論争を思い出した。夫と死別したのち再婚した妻は自分も後夫も死亡したのち天国で三者が出会ったら妻はどちらの男を夫とするのかという問題だ。この映画を解釈する上にこのことも外せないだろう。
この映画の主旋律は倉島と亡妻との関係だが、副旋律として南原という移動販売員とその妻との関係が出てくる。これがこの映画を解く鍵かもしれない。南原は各地を回ってイカめしの駅弁を実演販売する2人組チームの一員だ。他方より年上だが数年前に加わった新米なのでチーフではない。じつは南原は以前漁師で水難事故にまみれて姿を消し別人として生きて妻や娘とも連絡をとっていない。南原は借金があったが生命保険がおりたのか妻と娘は食堂を開いて生活している。南原は保険金を返さねばならなくなるためか妻と連絡をとろうとしない。しかしそれだけではなさそうだ。妻が嫌いというわけではない。偶然だが南原の家族とも知り合いになった倉島だが、南原に家族と連絡を取れとは言わない。また南原の家族にも黙っている。南原の妻も南原が生きていて倉島が何か知っている気がするがあえて聞かない。
つまり副旋律から推測するこの映画のテーマは、どんなに睦まじい家族でも個人にはそれに還元されない何かがあるということかもしれない。でもリバタリアンで個人主義者の僕でもこの結論はさみしすぎる。
では次の可能な解釈はというと、亡妻の洋子が本当にこの世で愛したのは獄死した内縁の夫だけであの世では内縁の夫と二人で暮らしたいというもの。これもさみしいな。
番外でサスペンス仕立てのとんでも解釈を言うと、洋子は内縁の夫の獄死の原因を刑務官の倉島の虐待と思っていて復讐のために倉島に近づき結婚した。復讐の機会を探しているうちに倉島の情にほだされとうとう復讐できずに死を迎えた。復讐ができなかったので獄死した内縁の夫にたいするせめてもの罪滅ぼしに倉島と同じ墓にはいらないことにした。松本清張タッチで暗いなあ。
最後に僕のとっておきの解釈を言おう。亡妻の洋子は実はキツネの化けたものだ。出演の田中裕子がキツネ目というのではない。以前倉島は山の中でワナにはまった仔ギツネを助けたことがある。仔ギツネはその後修行して妖力を身につけた。恩返しをしようと独身の倉島の前に童謡歌手の姿に似せて現れ妻となった。キツネの寿命は短いが妖力をつけた妖狐は長い。キツネは仔ギツネからキツネの平均余命を差し引いた期間恩がえしをするつもりだったので十数年たったら死んだふりをして消え去ることにした。死んだふりをしてばれないように死体は他の者とすり替えた。しかし自分でないものを同じ墓に埋葬されるのは忍びないので散骨を希望した。そして「さよなら」の言葉を残した。
これが高倉健版「キツネの恩返し」である。僕も独身だけど化け物でもいい何か美人に化けて嫁さんになってくれないかな。人間の女性は若い時は美人でも年を経ると化け物にかわるからこわいけど、逆ならばいい。あ!フェミニストの人ごめんなさい。本気じゃないですよ。嫁の来てのない男の虚勢と思ってください。糾弾だけはやめてね。さてそうそうキツネはやめとこうキツネ目になるから。田中裕子のことではないよ。美人になるのなら元も綺麗でないといけない。すると白鳥か?いやいや日本なら昔から「鶴の恩返し」という話がある。僕は宇野重吉ではないが鶴にするか。日本の鶴なら丹頂鶴、あ!駄目だ。綺麗でも頭が赤くてはつき合いきれない。お後がよろしいようで。