白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

jouer

2006-03-15 | 音について、思うこと
「詩を書く人は
いつも宙に浮いている
どこにいったいそんな浮力があるのか
だれにも分らない
 
 
詩を書く人は
ピアノを弾く人に少し似ている
かれの頭脳がキイを選択するまえに
もう手が動いているのだ
 
 
手がかれを先導する
手は音につかまれて遁れられないのだ
それで手はあんなにもがいているのさ 
 
 
音が手をみちびき
手は音から遁れようとしながら
彼を引きずって行く どこへ
 
 
いったいどこへだろう
詩を書く人の姿が見たかったら
きみは全世界の一番高いところからとびおりるのだ
 
 
逆さまに
落下するその逆さまの眼に
闇の中で宙に浮いている詩を書く人の姿が
もしかしたら見えるかもしれない」

        (田村隆一 『詩を書く人は』)





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プルーストは、美しいピアノの旋律が、生き生きと
響きわたりながら死ぬように消えていくさまに、
花火のような、激しく燃えながら尽きていく恋愛の
ありさまを重ねた。
例えば、こんな感じだろうか。
煌き、響いたものはあっという間に減衰して消えた。
それなのにこころには今もなお、その余韻が響く。
それは石綿のように燻りながら、ちりちりと胸を焦がし、
自分自身を内側から、鈍く重く焙りだしてくる・・・





『失われたときを求めて』のスワンには、ヴァンテュイユの
ピアノとヴァイオリンのためのソナタが聴こえていた。
それは、確かに美しい映像を、閉じた瞼のスクリーンに、
頭蓋の内側のプラネタリウムに投影したのかもしれない。
旋律はかれのなかで未だ見ぬ美しく恋しい女性へと変容し、
彼女の匂い、姿、微笑みがたちのぼり、
かれの妄想は、この仮想の女性との情事にまで至る。





では、それを演奏した、名もなき音楽家は、
なにを思いながら、演奏をしていたのだろう?
楽譜を読み、記された音程を、作曲家の指示と
自らの判断に従って、奏法と強弱と音色と連関に
留意しながら、ただ楽器に向かって手を動かして
いたのだろうか。
かれはこの曲が好きだったのか?
かれはこの曲にどんな思い入れをしていたのか?
かれはどんな顔で弾いていたのか?
かれはスワンを見て、なにかを思ったのか?





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音楽から立ちのぼり、聴き手にもたらされる感興は
いかなるものであってもよい。
だから、それを一つの方向に導いてはならない。
音の広がりの中で直観した色彩を、言葉にして
聴き手に話してもよいのは、音が消え去ったあとである。





音楽家は、自分の弾きたい音を弾くのではない。
いつも、自分の聴きたいと思う音を弾くのだ。
他人の聴きたい音など、考えたこともない。





全身に無数に設けられた水門を開け放つような
こころもちで、
なにものをも目指さず、なにものをもさえぎらず、
聴こえてくるもの、響いてくるものに即応して
腕、肩、指が、屈折と伸張、緊張と弛緩をする。





もつれる指や反応せぬ腕もあれば、
ひとりでに吸い寄せられる指もあり、
勝手に先を急ぐ腕もある。
ぎこちない線描もあれば、よどみなく流麗な筆致もある。





そうして、鍵盤から目をそらす。
音を出す、という意識を外し、
音を出す主体としての自身を忘れようとする。
すると、聴きたいという音も消えていく。
後は、やってきては現れ、あともなく消えていく音が
指、手、肩、眼、耳、皮膚、呼吸をつたって、
大洋の凪いだ水面に静かな波紋を揺らがせるように
鳴り響くだけとなる。





音はこのとき、誰のものでもない。
好きに意味を与え、名づけるがいい。
きみにも、演奏したぼくにも、
もう、つかまえられやしないのだから。





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「いまだかつてピアノの根源をたたいたもののないように
 いまだかつておれは火のような無垢を直視していない」

            (吉増剛造 「中心の歌」から)





ボブ・ディランの「マイ・バック・ペイジ」を鋳型として
Dm、Am、B♭、C、と弾きすすめる。
聴きたい音を、指に移していく。
そのうちに、Dエオリアと、Gドリア(on D)の交代音が
ぼくの指を導いていく。





右足は、旋法が生み出す音の渦が混沌をきたして濁るのを
食い止めるように、時に浅く、時に深く、
ダンパーペダルを細かく踏みかえる。
左足は、ピアノという楽器を大地につなぎとめるように
弱音ペダルの上に置かれたまま保たれている。
ハンマーの打つ弦の位置がずれ、3本叩くところは
2本になり、倍音の拡散は鈍く、霧のようにくぐもる。





左小指が、周期的に根音のDをはじく。
左中指から親指が、A、B♭、C,D、E、Fの付近に
綾取りをするようにして、編み目を張る。
特性音であるAとB♭は、左人差し指によって弾かれる。
左薬指は、時折Fの音を弾きながら、
全体としては左手の一連の動きを宙吊りにするように、
重心、あるいは指標、基準として定まり、
音楽的には死にながら、運動のなかで生きている。





左手によって編まれた網によって、
右手がはじき出す音は、限られた飛翔を約束される。
旋法の上でならば、5本の指の放つ音のそれぞれが
もし墜落しても、音の網に引っ掛かって、
それ以上落下することがない。





鍵盤楽器の奏法が、多声音楽の時代から
和声音楽の時代に移るのと時を同じくして、
鍵盤楽器を弾くのには用いられることのなかった親指が
運指の基準として用いられるようになった。
バッハのフーガの演奏に、親指を用いない古い奏法を
知らねば難しい場面があるように、
和声音楽の文脈に沿って習熟してきた自分の演奏が
親指を基準点とした奏法に従って行われていることを
知ることによって、
旋法を用いた即興によって、コード奏法に馴致した
自らの運指を解放して、それまではついぞこの指が
弾くことのなかったやりかたで音を連ねていくことも
できるようになる。





鍵盤と鍵盤のあいだから、なにか奇妙なものを
取り出すようにして、
あるいは、鍵盤を前に押し付けるのではなく、
手前に引き、なぞるようにして、
旋法に拘束された限られた状況のなか、
たちのぼる霧のようなくぐもった倍音の中から、
名もない音がやってきては帰っていくのを
おだやかに、無心に、ただ感じ続けている。





それでもなお、音がどこからやってくるのか、
ぼくにはよくはわからない。
音のなかに、さまざまに夢見ることはできるが、
それが耳からもたらされるのか、指からなのか、
よくわからなくなって、夢はいつも簡単に破れる。
そうして、また、試み、遊ぶ・・・





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演者の手、呼吸、汗、姿に、音を見るのは容易い。
音に、演者の手、呼吸、汗、姿を聴くことがなぜ
これほど難しくなってしまったのか。
メディアとITによる技術革新と情報の氾濫が
人間の脳を疲弊させ想像力を圧殺しただけでは
ないだろう。





「光を煮詰めれば人間が出来る」と信じられた時代には
音楽に質的高低の美学などはなく、
音楽は聴くものではなく、みなで歌うものだった。
いまや音楽は、聴こえるもの、と成り果てた。
都市に満ちるノイズや機械音と鳥のさえずりが等価となり
自己陶酔的な叫び声を密室に押し込める文化が栄え、
短期的情報処理により可視化された一義的で硬直した成果が
増減と進捗率によってのみ評価されるなかでは、
いずれ、音楽は死に絶えることだろう。





音楽は、人と人とを取り結ぶものであり、
いかようにも読み替えられ感じられながら
久遠の時間の中を生きられてはじめて生まれるものだからだ。





そんななかで、たったひとり密室にこもり、音を遊んでいる
ぼくには、音楽など出来るわけがないのは明らかなのに、
それを捨て去ることなど出来ないのは、呪いなのだろうか。





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デュマの『椿姫』のなかで、
主人公の娼婦マルグリットはピアノの前に座って、
ウェーバーの舞踏への勧誘を弾き始める。
何度やっても、第三部の嬰記号のところが弾けない。
彼女はとうとう苛立って楽譜を部屋の隅に投げつけて
地団駄踏みながらこう言うのだった。

「ここのところでいつもひっかかってしまうのよ。
 よく、朝の2時ごろまで稽古することもあるのに!
 でもあの伯爵のバカ、楽譜も見ずに上手に弾くのよ。
 あたしあの人が癪にさわって仕方ないのは、きっと
 このせいなのかもしれないわ。
 ちぇっ!・・・どうしてあの、嬰の8つ続いたところが
 弾けないんだろう?
 ウェーバーも、楽譜も、ピアノも、みんな悪魔に
 くれてやるわ!!」






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