「詩を書く人は
いつも宙に浮いている
どこにいったいそんな浮力があるのか
だれにも分らない
詩を書く人は
ピアノを弾く人に少し似ている
かれの頭脳がキイを選択するまえに
もう手が動いているのだ
手がかれを先導する
手は音につかまれて遁れられないのだ
それで手はあんなにもがいているのさ
音が手をみちびき
手は音から遁れようとしながら
彼を引きずって行く どこへ
いったいどこへだろう
詩を書く人の姿が見たかったら
きみは全世界の一番高いところからとびおりるのだ
逆さまに
落下するその逆さまの眼に
闇の中で宙に浮いている詩を書く人の姿が
もしかしたら見えるかもしれない」
(田村隆一 『詩を書く人は』)
***********************
プルーストは、美しいピアノの旋律が、生き生きと
響きわたりながら死ぬように消えていくさまに、
花火のような、激しく燃えながら尽きていく恋愛の
ありさまを重ねた。
例えば、こんな感じだろうか。
煌き、響いたものはあっという間に減衰して消えた。
それなのにこころには今もなお、その余韻が響く。
それは石綿のように燻りながら、ちりちりと胸を焦がし、
自分自身を内側から、鈍く重く焙りだしてくる・・・
『失われたときを求めて』のスワンには、ヴァンテュイユの
ピアノとヴァイオリンのためのソナタが聴こえていた。
それは、確かに美しい映像を、閉じた瞼のスクリーンに、
頭蓋の内側のプラネタリウムに投影したのかもしれない。
旋律はかれのなかで未だ見ぬ美しく恋しい女性へと変容し、
彼女の匂い、姿、微笑みがたちのぼり、
かれの妄想は、この仮想の女性との情事にまで至る。
では、それを演奏した、名もなき音楽家は、
なにを思いながら、演奏をしていたのだろう?
楽譜を読み、記された音程を、作曲家の指示と
自らの判断に従って、奏法と強弱と音色と連関に
留意しながら、ただ楽器に向かって手を動かして
いたのだろうか。
かれはこの曲が好きだったのか?
かれはこの曲にどんな思い入れをしていたのか?
かれはどんな顔で弾いていたのか?
かれはスワンを見て、なにかを思ったのか?
***********************
音楽から立ちのぼり、聴き手にもたらされる感興は
いかなるものであってもよい。
だから、それを一つの方向に導いてはならない。
音の広がりの中で直観した色彩を、言葉にして
聴き手に話してもよいのは、音が消え去ったあとである。
音楽家は、自分の弾きたい音を弾くのではない。
いつも、自分の聴きたいと思う音を弾くのだ。
他人の聴きたい音など、考えたこともない。
全身に無数に設けられた水門を開け放つような
こころもちで、
なにものをも目指さず、なにものをもさえぎらず、
聴こえてくるもの、響いてくるものに即応して
腕、肩、指が、屈折と伸張、緊張と弛緩をする。
もつれる指や反応せぬ腕もあれば、
ひとりでに吸い寄せられる指もあり、
勝手に先を急ぐ腕もある。
ぎこちない線描もあれば、よどみなく流麗な筆致もある。
そうして、鍵盤から目をそらす。
音を出す、という意識を外し、
音を出す主体としての自身を忘れようとする。
すると、聴きたいという音も消えていく。
後は、やってきては現れ、あともなく消えていく音が
指、手、肩、眼、耳、皮膚、呼吸をつたって、
大洋の凪いだ水面に静かな波紋を揺らがせるように
鳴り響くだけとなる。
音はこのとき、誰のものでもない。
好きに意味を与え、名づけるがいい。
きみにも、演奏したぼくにも、
もう、つかまえられやしないのだから。
*************************
「いまだかつてピアノの根源をたたいたもののないように
いまだかつておれは火のような無垢を直視していない」
(吉増剛造 「中心の歌」から)
ボブ・ディランの「マイ・バック・ペイジ」を鋳型として
Dm、Am、B♭、C、と弾きすすめる。
聴きたい音を、指に移していく。
そのうちに、Dエオリアと、Gドリア(on D)の交代音が
ぼくの指を導いていく。
右足は、旋法が生み出す音の渦が混沌をきたして濁るのを
食い止めるように、時に浅く、時に深く、
ダンパーペダルを細かく踏みかえる。
左足は、ピアノという楽器を大地につなぎとめるように
弱音ペダルの上に置かれたまま保たれている。
ハンマーの打つ弦の位置がずれ、3本叩くところは
2本になり、倍音の拡散は鈍く、霧のようにくぐもる。
左小指が、周期的に根音のDをはじく。
左中指から親指が、A、B♭、C,D、E、Fの付近に
綾取りをするようにして、編み目を張る。
特性音であるAとB♭は、左人差し指によって弾かれる。
左薬指は、時折Fの音を弾きながら、
全体としては左手の一連の動きを宙吊りにするように、
重心、あるいは指標、基準として定まり、
音楽的には死にながら、運動のなかで生きている。
左手によって編まれた網によって、
右手がはじき出す音は、限られた飛翔を約束される。
旋法の上でならば、5本の指の放つ音のそれぞれが
もし墜落しても、音の網に引っ掛かって、
それ以上落下することがない。
鍵盤楽器の奏法が、多声音楽の時代から
和声音楽の時代に移るのと時を同じくして、
鍵盤楽器を弾くのには用いられることのなかった親指が
運指の基準として用いられるようになった。
バッハのフーガの演奏に、親指を用いない古い奏法を
知らねば難しい場面があるように、
和声音楽の文脈に沿って習熟してきた自分の演奏が
親指を基準点とした奏法に従って行われていることを
知ることによって、
旋法を用いた即興によって、コード奏法に馴致した
自らの運指を解放して、それまではついぞこの指が
弾くことのなかったやりかたで音を連ねていくことも
できるようになる。
鍵盤と鍵盤のあいだから、なにか奇妙なものを
取り出すようにして、
あるいは、鍵盤を前に押し付けるのではなく、
手前に引き、なぞるようにして、
旋法に拘束された限られた状況のなか、
たちのぼる霧のようなくぐもった倍音の中から、
名もない音がやってきては帰っていくのを
おだやかに、無心に、ただ感じ続けている。
それでもなお、音がどこからやってくるのか、
ぼくにはよくはわからない。
音のなかに、さまざまに夢見ることはできるが、
それが耳からもたらされるのか、指からなのか、
よくわからなくなって、夢はいつも簡単に破れる。
そうして、また、試み、遊ぶ・・・
*************************
演者の手、呼吸、汗、姿に、音を見るのは容易い。
音に、演者の手、呼吸、汗、姿を聴くことがなぜ
これほど難しくなってしまったのか。
メディアとITによる技術革新と情報の氾濫が
人間の脳を疲弊させ想像力を圧殺しただけでは
ないだろう。
「光を煮詰めれば人間が出来る」と信じられた時代には
音楽に質的高低の美学などはなく、
音楽は聴くものではなく、みなで歌うものだった。
いまや音楽は、聴こえるもの、と成り果てた。
都市に満ちるノイズや機械音と鳥のさえずりが等価となり
自己陶酔的な叫び声を密室に押し込める文化が栄え、
短期的情報処理により可視化された一義的で硬直した成果が
増減と進捗率によってのみ評価されるなかでは、
いずれ、音楽は死に絶えることだろう。
音楽は、人と人とを取り結ぶものであり、
いかようにも読み替えられ感じられながら
久遠の時間の中を生きられてはじめて生まれるものだからだ。
そんななかで、たったひとり密室にこもり、音を遊んでいる
ぼくには、音楽など出来るわけがないのは明らかなのに、
それを捨て去ることなど出来ないのは、呪いなのだろうか。
*************************
デュマの『椿姫』のなかで、
主人公の娼婦マルグリットはピアノの前に座って、
ウェーバーの舞踏への勧誘を弾き始める。
何度やっても、第三部の嬰記号のところが弾けない。
彼女はとうとう苛立って楽譜を部屋の隅に投げつけて
地団駄踏みながらこう言うのだった。
「ここのところでいつもひっかかってしまうのよ。
よく、朝の2時ごろまで稽古することもあるのに!
でもあの伯爵のバカ、楽譜も見ずに上手に弾くのよ。
あたしあの人が癪にさわって仕方ないのは、きっと
このせいなのかもしれないわ。
ちぇっ!・・・どうしてあの、嬰の8つ続いたところが
弾けないんだろう?
ウェーバーも、楽譜も、ピアノも、みんな悪魔に
くれてやるわ!!」
いつも宙に浮いている
どこにいったいそんな浮力があるのか
だれにも分らない
詩を書く人は
ピアノを弾く人に少し似ている
かれの頭脳がキイを選択するまえに
もう手が動いているのだ
手がかれを先導する
手は音につかまれて遁れられないのだ
それで手はあんなにもがいているのさ
音が手をみちびき
手は音から遁れようとしながら
彼を引きずって行く どこへ
いったいどこへだろう
詩を書く人の姿が見たかったら
きみは全世界の一番高いところからとびおりるのだ
逆さまに
落下するその逆さまの眼に
闇の中で宙に浮いている詩を書く人の姿が
もしかしたら見えるかもしれない」
(田村隆一 『詩を書く人は』)
***********************
プルーストは、美しいピアノの旋律が、生き生きと
響きわたりながら死ぬように消えていくさまに、
花火のような、激しく燃えながら尽きていく恋愛の
ありさまを重ねた。
例えば、こんな感じだろうか。
煌き、響いたものはあっという間に減衰して消えた。
それなのにこころには今もなお、その余韻が響く。
それは石綿のように燻りながら、ちりちりと胸を焦がし、
自分自身を内側から、鈍く重く焙りだしてくる・・・
『失われたときを求めて』のスワンには、ヴァンテュイユの
ピアノとヴァイオリンのためのソナタが聴こえていた。
それは、確かに美しい映像を、閉じた瞼のスクリーンに、
頭蓋の内側のプラネタリウムに投影したのかもしれない。
旋律はかれのなかで未だ見ぬ美しく恋しい女性へと変容し、
彼女の匂い、姿、微笑みがたちのぼり、
かれの妄想は、この仮想の女性との情事にまで至る。
では、それを演奏した、名もなき音楽家は、
なにを思いながら、演奏をしていたのだろう?
楽譜を読み、記された音程を、作曲家の指示と
自らの判断に従って、奏法と強弱と音色と連関に
留意しながら、ただ楽器に向かって手を動かして
いたのだろうか。
かれはこの曲が好きだったのか?
かれはこの曲にどんな思い入れをしていたのか?
かれはどんな顔で弾いていたのか?
かれはスワンを見て、なにかを思ったのか?
***********************
音楽から立ちのぼり、聴き手にもたらされる感興は
いかなるものであってもよい。
だから、それを一つの方向に導いてはならない。
音の広がりの中で直観した色彩を、言葉にして
聴き手に話してもよいのは、音が消え去ったあとである。
音楽家は、自分の弾きたい音を弾くのではない。
いつも、自分の聴きたいと思う音を弾くのだ。
他人の聴きたい音など、考えたこともない。
全身に無数に設けられた水門を開け放つような
こころもちで、
なにものをも目指さず、なにものをもさえぎらず、
聴こえてくるもの、響いてくるものに即応して
腕、肩、指が、屈折と伸張、緊張と弛緩をする。
もつれる指や反応せぬ腕もあれば、
ひとりでに吸い寄せられる指もあり、
勝手に先を急ぐ腕もある。
ぎこちない線描もあれば、よどみなく流麗な筆致もある。
そうして、鍵盤から目をそらす。
音を出す、という意識を外し、
音を出す主体としての自身を忘れようとする。
すると、聴きたいという音も消えていく。
後は、やってきては現れ、あともなく消えていく音が
指、手、肩、眼、耳、皮膚、呼吸をつたって、
大洋の凪いだ水面に静かな波紋を揺らがせるように
鳴り響くだけとなる。
音はこのとき、誰のものでもない。
好きに意味を与え、名づけるがいい。
きみにも、演奏したぼくにも、
もう、つかまえられやしないのだから。
*************************
「いまだかつてピアノの根源をたたいたもののないように
いまだかつておれは火のような無垢を直視していない」
(吉増剛造 「中心の歌」から)
ボブ・ディランの「マイ・バック・ペイジ」を鋳型として
Dm、Am、B♭、C、と弾きすすめる。
聴きたい音を、指に移していく。
そのうちに、Dエオリアと、Gドリア(on D)の交代音が
ぼくの指を導いていく。
右足は、旋法が生み出す音の渦が混沌をきたして濁るのを
食い止めるように、時に浅く、時に深く、
ダンパーペダルを細かく踏みかえる。
左足は、ピアノという楽器を大地につなぎとめるように
弱音ペダルの上に置かれたまま保たれている。
ハンマーの打つ弦の位置がずれ、3本叩くところは
2本になり、倍音の拡散は鈍く、霧のようにくぐもる。
左小指が、周期的に根音のDをはじく。
左中指から親指が、A、B♭、C,D、E、Fの付近に
綾取りをするようにして、編み目を張る。
特性音であるAとB♭は、左人差し指によって弾かれる。
左薬指は、時折Fの音を弾きながら、
全体としては左手の一連の動きを宙吊りにするように、
重心、あるいは指標、基準として定まり、
音楽的には死にながら、運動のなかで生きている。
左手によって編まれた網によって、
右手がはじき出す音は、限られた飛翔を約束される。
旋法の上でならば、5本の指の放つ音のそれぞれが
もし墜落しても、音の網に引っ掛かって、
それ以上落下することがない。
鍵盤楽器の奏法が、多声音楽の時代から
和声音楽の時代に移るのと時を同じくして、
鍵盤楽器を弾くのには用いられることのなかった親指が
運指の基準として用いられるようになった。
バッハのフーガの演奏に、親指を用いない古い奏法を
知らねば難しい場面があるように、
和声音楽の文脈に沿って習熟してきた自分の演奏が
親指を基準点とした奏法に従って行われていることを
知ることによって、
旋法を用いた即興によって、コード奏法に馴致した
自らの運指を解放して、それまではついぞこの指が
弾くことのなかったやりかたで音を連ねていくことも
できるようになる。
鍵盤と鍵盤のあいだから、なにか奇妙なものを
取り出すようにして、
あるいは、鍵盤を前に押し付けるのではなく、
手前に引き、なぞるようにして、
旋法に拘束された限られた状況のなか、
たちのぼる霧のようなくぐもった倍音の中から、
名もない音がやってきては帰っていくのを
おだやかに、無心に、ただ感じ続けている。
それでもなお、音がどこからやってくるのか、
ぼくにはよくはわからない。
音のなかに、さまざまに夢見ることはできるが、
それが耳からもたらされるのか、指からなのか、
よくわからなくなって、夢はいつも簡単に破れる。
そうして、また、試み、遊ぶ・・・
*************************
演者の手、呼吸、汗、姿に、音を見るのは容易い。
音に、演者の手、呼吸、汗、姿を聴くことがなぜ
これほど難しくなってしまったのか。
メディアとITによる技術革新と情報の氾濫が
人間の脳を疲弊させ想像力を圧殺しただけでは
ないだろう。
「光を煮詰めれば人間が出来る」と信じられた時代には
音楽に質的高低の美学などはなく、
音楽は聴くものではなく、みなで歌うものだった。
いまや音楽は、聴こえるもの、と成り果てた。
都市に満ちるノイズや機械音と鳥のさえずりが等価となり
自己陶酔的な叫び声を密室に押し込める文化が栄え、
短期的情報処理により可視化された一義的で硬直した成果が
増減と進捗率によってのみ評価されるなかでは、
いずれ、音楽は死に絶えることだろう。
音楽は、人と人とを取り結ぶものであり、
いかようにも読み替えられ感じられながら
久遠の時間の中を生きられてはじめて生まれるものだからだ。
そんななかで、たったひとり密室にこもり、音を遊んでいる
ぼくには、音楽など出来るわけがないのは明らかなのに、
それを捨て去ることなど出来ないのは、呪いなのだろうか。
*************************
デュマの『椿姫』のなかで、
主人公の娼婦マルグリットはピアノの前に座って、
ウェーバーの舞踏への勧誘を弾き始める。
何度やっても、第三部の嬰記号のところが弾けない。
彼女はとうとう苛立って楽譜を部屋の隅に投げつけて
地団駄踏みながらこう言うのだった。
「ここのところでいつもひっかかってしまうのよ。
よく、朝の2時ごろまで稽古することもあるのに!
でもあの伯爵のバカ、楽譜も見ずに上手に弾くのよ。
あたしあの人が癪にさわって仕方ないのは、きっと
このせいなのかもしれないわ。
ちぇっ!・・・どうしてあの、嬰の8つ続いたところが
弾けないんだろう?
ウェーバーも、楽譜も、ピアノも、みんな悪魔に
くれてやるわ!!」
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