この一年に読んだもののうち、主だったものを
整理してみると、
<文学・詩・エッセイ>
泉鏡花、夢野久作、大江健三郎、永井荷風、
町田康、山田風太郎、埴谷雄高、武田泰淳、
梶井基次郎、吉行淳之介、安部公房、
谷崎潤一郎、宮沢賢治、吉増剛造、藤井貞和、
芥川龍之介、稲垣足穂、ドストエフスキー、
ジョイス
<思想・評論>
小林秀雄、江藤淳、中島梓、花田清輝、
武満徹、遠山一行、山根銀二、高橋悠治、
吉田夏彦、中村雄二郎、井上ひさし、柴田南雄、
山崎正和、北村透谷、岸田秀、熊谷高幸、
磯崎新、秋山邦晴、三浦展、茂木健一郎、
松浪信三郎、梅原猛、鷲田清一、九鬼周造、
柄谷行人、吉田健一、唐木順三、森有正、
辻邦生、坂口安吾、萩原朔太郎、吉本隆明、
西田幾多郎、黒田亮、孫子、デリダ、ベルクソン、
パスカル、バシュラール、マレイ・ゲルマン、
アルトー、クロイツァー、カンディンスキー、
クレー、ウィトゲンシュタイン
<宗教>
聖書、内村鑑三、土井健司、道元
<漫画>
つげ義春
これに対し、買ったCDは
キース・ジャレットの「Radience」、たった一枚。
免許の取り直しや就職活動のために資金を使ったのと
購入対象が書籍へとシフトしたためだろうか。
*************************
さて、自分の過去を顧みるに、自身の顔のまんなかの、
狭い眉間に、吊りあがった三白眼という
この目つきの印象が、かなりマイナスに作用しているのでは
ないだろうか、と思い至った。
就職の面接などもそうだけれど、人間は初対面のときの
たった五分間で、相手に対する印象のはたらくルートが
決まってしまうものだともいう。
それを大きく左右するのが、いわゆる「パッと見」という
要因だそうだ。
昔から、目は口ほどにものを言う、というし、
顔に人格は表れる、ともよく言われることで、
まあ、ある程度それも当てはまっているのかもしれない。
そのひとの顔に対して、人間はそのひとの人格を見る。
そのひとの顔や目から、人間は自分がどう見られているかを探る。
顔は人間が唯一、まっぱだかにしている場所だから、
そのひとの存在、人格、性格のあらゆるものを反映するものだと
了解されている。
顔が違えば、同じ言葉を口にしても、相手が受ける印象が違う。
例えば「好きです」といったとき。
こころ動くか、気持ち悪がるか、笑って済ませるか。
「その考えは違う」といったとき。
素直に聞くか、一生懸命反論するか、殴り返すか。
なによりも自分の顔を一番多く見ているのは
ほかならぬこの自分自身だ。
教育を受け勉強をし、ひととかかわりながら
生きていくなかで、
誰もが自分の顔を鏡に映し、その映像に導かれて
自身を反省し、自己分析し、心の仮面をつくり、
化粧を施している。
自分の人格をつくるものが、自分の顔だといってもいい。
自分の顔を見ることで、自分というものに対する意識も
うまれてくる。
とすれば、この自分の目つきに一番眼差されてきたのは
ほかならぬ自分自身、ということになる。
美人に生まれれば美人として育つし、
賢そうに生まれれば賢そうに育つ。
逆もまた、然り。
他人から、「冷酷、生意気、神経質、近寄りがたい」と
印象を言われれば、
それが自己暗示のように働いて、自分自身までもが
自分のことを、冷酷で生意気で神経質で近寄りがたい人間と
思い込み始めてしまうかもしれない。
鏡に映る自分の顔は、誰もが「他者」として眺めている。
それがほかならぬ「自分自身」だということに、
耐え切れなくなってしまうひとも多い。
ぼくの場合は、冗談が冗談として通じないときや、
眼が合っただけで喧嘩を売られることがあった。
論理だてて話すと、とてつもなく神経質で冷酷と思われ、
丁寧に話すと生意気と取られ、真心は表面的な建前と取られ、
他人を見下していると取られ、
「すべてを見抜かれている気がして恐い」と思われていて
なかなか心を開いてもらえないことがあった。
そうした印象を少しでも緩和して、やわらかさや優しさを
表情に与えてやれば、
他人とのコミュニケーションに生じる、自分の印象が与える
あらぬ誤解のリスクを回避することにつながるかもしれない。
出会った相手との関係の進み方も違ってくるかもしれない。
「ひとは見た目が9割」という統計結果・研究結果もある。
だから、ぼくはある試みをしてみようと思った。
自分の「顔」というものを、少し変えてやろうと思ったのだ。
「だてめがね」をかけることにしたのである。
世の中を斜に構えて見る癖、こころの乱視を
矯正する意味でも。
**************************
そして今日、生粋のめがねっ子に同伴願って、
名古屋でめがねを買ってきた。
延べ3時間、延べ4ヶ所の眼鏡屋を廻り、
デザイナーズブランドを中心に、
めがねっ子の彼女のアドバイスや販売員の勧めに沿って、
ぴんと来たものをいくつも掛け替えながら、
彼女に似合っているかどうかのチェックをしてもらう、
ということを繰り返した。
工業デザイン先進国のドイツ製のものはやはり
フォルムとして美しかったが、
「印象を柔和に、やさしくする」という基準で選ぶと
どうしても外れてしまう。
ピンキリとはいえ、それなりのデザインのものは
フレームだけで3万円以上もするわけで、
これで度の入ったレンズを調製すると軽く5、6万円、
自転車なら2,3台買える値段になるということを
初めて知った。
ぼくは裸眼で1,0あるのだが、いまさらながらに
視力の大切さを思う。
栄ナディアパーク内のロフトにある眼鏡屋で
店員の勧めた眼鏡を、
めがねっ子の彼女はいちばん似合うと判断した。
掛け心地もよく、デザインにも優れ、値段も手頃、と
好条件を満たしていた。
彼女のセンスを信じて、購入。
帰宅して家族に見せたところ、好評だった。
いわく、めがねっ子のセンスの勝利らしい。
**********************
いい買い物ができた。
めがね探しのときの似合い度合いのチェックで
何十回もぼくの顔を見つめるのにも、
楽器屋でピアノを弾くのにも、CDを探すのにも、
カフェに行き、youtubeの動画を幾つか見て
YUKIのメランコリスタに燃え上がるのにも、
仕事や過去やビジネスやらさまざまの話をするのにも、
ぼくが傘を忘れたために相合傘をするのにも、
嫌な顔ひとつせずに笑ってつきあってくれた
illy greenに感謝。
整理してみると、
<文学・詩・エッセイ>
泉鏡花、夢野久作、大江健三郎、永井荷風、
町田康、山田風太郎、埴谷雄高、武田泰淳、
梶井基次郎、吉行淳之介、安部公房、
谷崎潤一郎、宮沢賢治、吉増剛造、藤井貞和、
芥川龍之介、稲垣足穂、ドストエフスキー、
ジョイス
<思想・評論>
小林秀雄、江藤淳、中島梓、花田清輝、
武満徹、遠山一行、山根銀二、高橋悠治、
吉田夏彦、中村雄二郎、井上ひさし、柴田南雄、
山崎正和、北村透谷、岸田秀、熊谷高幸、
磯崎新、秋山邦晴、三浦展、茂木健一郎、
松浪信三郎、梅原猛、鷲田清一、九鬼周造、
柄谷行人、吉田健一、唐木順三、森有正、
辻邦生、坂口安吾、萩原朔太郎、吉本隆明、
西田幾多郎、黒田亮、孫子、デリダ、ベルクソン、
パスカル、バシュラール、マレイ・ゲルマン、
アルトー、クロイツァー、カンディンスキー、
クレー、ウィトゲンシュタイン
<宗教>
聖書、内村鑑三、土井健司、道元
<漫画>
つげ義春
これに対し、買ったCDは
キース・ジャレットの「Radience」、たった一枚。
免許の取り直しや就職活動のために資金を使ったのと
購入対象が書籍へとシフトしたためだろうか。
*************************
さて、自分の過去を顧みるに、自身の顔のまんなかの、
狭い眉間に、吊りあがった三白眼という
この目つきの印象が、かなりマイナスに作用しているのでは
ないだろうか、と思い至った。
就職の面接などもそうだけれど、人間は初対面のときの
たった五分間で、相手に対する印象のはたらくルートが
決まってしまうものだともいう。
それを大きく左右するのが、いわゆる「パッと見」という
要因だそうだ。
昔から、目は口ほどにものを言う、というし、
顔に人格は表れる、ともよく言われることで、
まあ、ある程度それも当てはまっているのかもしれない。
そのひとの顔に対して、人間はそのひとの人格を見る。
そのひとの顔や目から、人間は自分がどう見られているかを探る。
顔は人間が唯一、まっぱだかにしている場所だから、
そのひとの存在、人格、性格のあらゆるものを反映するものだと
了解されている。
顔が違えば、同じ言葉を口にしても、相手が受ける印象が違う。
例えば「好きです」といったとき。
こころ動くか、気持ち悪がるか、笑って済ませるか。
「その考えは違う」といったとき。
素直に聞くか、一生懸命反論するか、殴り返すか。
なによりも自分の顔を一番多く見ているのは
ほかならぬこの自分自身だ。
教育を受け勉強をし、ひととかかわりながら
生きていくなかで、
誰もが自分の顔を鏡に映し、その映像に導かれて
自身を反省し、自己分析し、心の仮面をつくり、
化粧を施している。
自分の人格をつくるものが、自分の顔だといってもいい。
自分の顔を見ることで、自分というものに対する意識も
うまれてくる。
とすれば、この自分の目つきに一番眼差されてきたのは
ほかならぬ自分自身、ということになる。
美人に生まれれば美人として育つし、
賢そうに生まれれば賢そうに育つ。
逆もまた、然り。
他人から、「冷酷、生意気、神経質、近寄りがたい」と
印象を言われれば、
それが自己暗示のように働いて、自分自身までもが
自分のことを、冷酷で生意気で神経質で近寄りがたい人間と
思い込み始めてしまうかもしれない。
鏡に映る自分の顔は、誰もが「他者」として眺めている。
それがほかならぬ「自分自身」だということに、
耐え切れなくなってしまうひとも多い。
ぼくの場合は、冗談が冗談として通じないときや、
眼が合っただけで喧嘩を売られることがあった。
論理だてて話すと、とてつもなく神経質で冷酷と思われ、
丁寧に話すと生意気と取られ、真心は表面的な建前と取られ、
他人を見下していると取られ、
「すべてを見抜かれている気がして恐い」と思われていて
なかなか心を開いてもらえないことがあった。
そうした印象を少しでも緩和して、やわらかさや優しさを
表情に与えてやれば、
他人とのコミュニケーションに生じる、自分の印象が与える
あらぬ誤解のリスクを回避することにつながるかもしれない。
出会った相手との関係の進み方も違ってくるかもしれない。
「ひとは見た目が9割」という統計結果・研究結果もある。
だから、ぼくはある試みをしてみようと思った。
自分の「顔」というものを、少し変えてやろうと思ったのだ。
「だてめがね」をかけることにしたのである。
世の中を斜に構えて見る癖、こころの乱視を
矯正する意味でも。
**************************
そして今日、生粋のめがねっ子に同伴願って、
名古屋でめがねを買ってきた。
延べ3時間、延べ4ヶ所の眼鏡屋を廻り、
デザイナーズブランドを中心に、
めがねっ子の彼女のアドバイスや販売員の勧めに沿って、
ぴんと来たものをいくつも掛け替えながら、
彼女に似合っているかどうかのチェックをしてもらう、
ということを繰り返した。
工業デザイン先進国のドイツ製のものはやはり
フォルムとして美しかったが、
「印象を柔和に、やさしくする」という基準で選ぶと
どうしても外れてしまう。
ピンキリとはいえ、それなりのデザインのものは
フレームだけで3万円以上もするわけで、
これで度の入ったレンズを調製すると軽く5、6万円、
自転車なら2,3台買える値段になるということを
初めて知った。
ぼくは裸眼で1,0あるのだが、いまさらながらに
視力の大切さを思う。
栄ナディアパーク内のロフトにある眼鏡屋で
店員の勧めた眼鏡を、
めがねっ子の彼女はいちばん似合うと判断した。
掛け心地もよく、デザインにも優れ、値段も手頃、と
好条件を満たしていた。
彼女のセンスを信じて、購入。
帰宅して家族に見せたところ、好評だった。
いわく、めがねっ子のセンスの勝利らしい。
**********************
いい買い物ができた。
めがね探しのときの似合い度合いのチェックで
何十回もぼくの顔を見つめるのにも、
楽器屋でピアノを弾くのにも、CDを探すのにも、
カフェに行き、youtubeの動画を幾つか見て
YUKIのメランコリスタに燃え上がるのにも、
仕事や過去やビジネスやらさまざまの話をするのにも、
ぼくが傘を忘れたために相合傘をするのにも、
嫌な顔ひとつせずに笑ってつきあってくれた
illy greenに感謝。
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