ジョージィのおとなりさんたち

【個人史】「人生って、とっても楽しいもの」
そんな風に感じている今日この頃。Blogでメモっておきたい。

<鉄道の安全基準>および腰の「安全感覚」

2008年04月28日 23時56分03秒 | 格差社会と政治
[現代日本史]: 優先順位? 国民の安全 民業収益、 国民ダマシ政治
※ 鉄道族利権 官業癒着 天下り(官僚・議員・知事・副知事)

 ■【 参考番組 】 (NHK HPより転載)
 ・ NHK 「クローズアップ現代」
 ・ 2008年 4/28 放送 見過ごされた車両強度

<「安全」より「新技術」優先思考>
番組のゲストが発する言葉や雰囲気からは そう 感じた。

JR福知山線の事故で感じていた私の 疑問 は、 今夜の放送で肯定されたのだと思う。

米国では、大事故を教訓にして 事故が起こっても乗客の生命を守るための堅牢な車輌製造の基準が定められ、 その安全車輌は 日本で製造されている。 米国を訪れたなら 日本製の車両に乗ることができる というものだ。

つまりは、 日本の政府やメーカーは 米国の安全基準を熟知していながら、 日本国内では 事故を起こさない 事を目標に 乗務員に責任を押しつけ続けながら、 一方、鉄道会社は 製造価格や 運用・保守費用が安いからと 軽量車両 を導入してきたという事か?

私は 元鉄道員を父に持つ、その息子だから 決して見逃す事ができない 国と事業者の 運用方針だ。

しかも、
<条件による「新安全車両」>
日本型安全車両の設計思想が報じられた。
運転手席部分を 衝突時のクッションにする新技術だと 自負 したいようだが、 蛇腹型の強化構造の乗客車両と合わせ、 まったく失敗者の感覚である。

さらに過酷な義務と責任を 乗務員に押しつけたり、 道路財源の無駄遣いで 踏切を無くし、 正面衝突事故を起こさない環境整備を前提にした 使えない新技術だ。
そんな 単純感覚技術では ゼニ(ODA)を払ってでしか 海外には売れない。

技術立国が判っていない。 (怒!

記録する。

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*04/25 <JR福知山線>脱線事故から2年 その原因

<後期高齢者> 押しつけ的「説明」で納得できるか?

2008年04月28日 21時40分16秒 | 格差社会と政治
[現代日本史]: 後期高齢者 不公正政治 格差形成行政 社会弱者叩き 国民ダマシ政治
※(ネタ記事) 厚労利権 医事利権 社会弱者イジメ 取りやすいところから 奪い取り

高齢者医療制度で対策を指示 (NHK) 4月28日 16時29分
【記事抜粋】 福田総理大臣は、衆議院山口2区の補欠選挙の敗北を受けて、舛添厚生労働大臣を総理大臣官邸に呼び、75歳以上を対象にした後期高齢者医療制度について、国民に理解を求めるため制度の周知徹底を図るなど、必要な対策をとるよう指示しました。
■ 政府・与党内では、補欠選挙の敗北について、後期高齢者医療制度についての説明が足りなかったことなどが敗因の1つだという指摘が出ています。 ◇ このため、福田総理大臣は、28日午後、舛添厚生労働大臣を総理大臣官邸に呼んで会談し、後期高齢者医療制度について国民に理解を求めるため制度の周知徹底を図るなど必要な対策をしっかりとるよう指示しました。 ◆ このあと、舛添大臣は記者団に対し、与党内の一部に制度の見直し論が出ていることに関連して、「そういう意見があることは知っている。 ◇ しかし、根幹としては、長期的にみて、この制度でやろうということであり、必要な手直しを加えるかどうか議論したい」と述べました。
[記事全文]

<押しつけ的「説明」の無意味>
事前に明確で的確な説明もなく、 制度が始まっての サプライズ! 続き。

政府・与党(自民党・公明党)の いう 説明 とは、 「黙って 納得しろ!」 の意味にほかならない。

無能なリーダーは 民の心を惹き付けられない。
その結果 強権による「押しつけ」 政治(強制) となるのは、 実は 政治のみならず、 職場(や家庭) でもおなじことだ。

よくよく自分の回りを見てみれば、 その 無能な上司(や未熟な夫)が強行した結果を見ればよくわかる。
何度失敗しても その責任を部下(や女房・家族)に押しつけて、のうのうとまた同じコトを繰り返す。

そのことを知る人々ならば、 強行決議を繰り返す 福田・自公政治の結末も容易に予測がつくものだ。
(だから私は 反対 している)

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** 09/18 嫌われ者ジョージィ(職場編)クビ!かい?!(1)

日記: 人間の始祖の罪(後) (聖書)

2008年04月28日 02時02分55秒 | Weblog
[個人史]: 日記 思想・信条・(宗教 聖書) 終末観
※ 天地創造 罪と罰 善悪の木

ユダの記録(旧約聖書)の始め 『創世記』 には、人類創造の出来事が記されている。

<[原罪]>
ユダヤ教は聞く機会が無かったが、 キリスト教界では 「もしアダムとエバが罪を犯さなければ、いまでも 人類は神の許(もと)で幸福に暮らしていた」 と考えるらしい。

だが、神と共に暮らすコトが幸福だと感じるためには、はじめから苦痛や病いもなく死ぬことも悩みもない状態で どのように「幸福」を知ることが出来るものかと思うのだ。

<[反対(逆)]のもの..>
空気が有ることがフツーな生活をしていて、ヒトはいつから空気が有ることを「幸福」だと知ったのだろう?

母親のオッパイを欲しがって赤ちゃんが泣くのは お腹が減ったからであって、「不幸」 を悲しんでではない。
なに不自由なく育った少年が「悲しみ」を知るのは、いつも有ったオヤツが見つけられない時だ。

40代はじめまで病院知らずだった私が 「『健康』 の喜び」 を知ったのは、いつまでも改善しない体調不良を自覚し始めてからである。

神とともに住まうコトが 幸福 だと知るためには、 神のもとから追い出されなければ気づくこともなかったに違いない。

病気も死ぬこともない者には 「老齢」が無いのだから、 子をもうけ(残し)、生命をつなぐ必要もないではないか。

(続)

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