[書籍紹介]
藤沢周平による
彫師伊之助捕物覚えシリーズの3冊。
主人公の伊之助は、かつて凄腕の岡っ引だったが、
今は足を洗い、彫藤の工房で、
版木彫り職人として働いている。
版木彫りとは、
浮世絵などの絵画や滑稽本の文章やらを
版元から送られて来る版下に従ってノミで板に彫り、
摺師(すりし=印刷)に回す仕事。
出版は、江戸時代の一大産業だった。
昔は所帯を持ったことがあったが、
女房が男と逃げて心中して以来、
もう二度と女とは所帯を持つまい、と
女とのことは臆病になっている。
だから、一膳飯屋を営む恋人のおようとの関係も、
今一歩踏み込めないでいる。
一人暮らしであくせく働いて金を稼ぐこともない、
気楽といえば気楽、寂しいといえば寂しい境遇だ。
その伊之助のところに、
同心の石塚宗平が時々頼み事にやって来る。
親方や仲間には、昔岡っ引だったことは秘密にしているので、
迷惑なのだが、
伊之助の捜査の腕を知っている石塚は、
うまいことを言って、伊之助を巻き込んでしまう。
伊之助も心の深い所に岡っ引魂を隠し持っているので、
ついつい捜査の中に埋没してしまう。
「消えた女」は、
昔世話になった弥八親分から
娘のおようが失踪し、
助けを求める文が届いたことを告げられ、
できる範囲でならということで捜索を引き受ける。
おようの行方を追う先々で怪事件が起こり、
その裏に、材木商高麗屋と作事奉行の黒いつながりが浮かびあがってくる・・・。
「漆黒の霧の中で」は、
伊之助は仕事に行く途中で、
川から引き上げられた死体を見かける。
ふと興味を覚えて死体を見ると、
耳の後ろに何かに刺された痕がある。
伊之助は殺人事件と断定する。
その不審な水死人の素姓を洗ってくれるよう、石塚が話を持ちかけてくる。
聞きこみを続ける伊之助の前に、
第二、第三の殺人が起こり、
大店の主人や寺僧たちの悪と欲の世界が明るみに出て来る・・・
「ささやく河」は、
島帰りの男・長六が刺殺され、
二十五年前の迷宮入り強盗事件と関わりがあるらしい。
道に倒れていた長六を一時期引き取っていた関係から
伊之助はまたも石塚により探索に引きずり込まれる。
昔の事件を洗い直す伊之助の前に、
意外な下手人の姿が明らかになる。
終盤、犯人の動機が描かれ、
25年の歳月を越えた哀切な事情が見え、
と共に、題名の意味も分かって来る・・・
時代小説の名手・藤沢周平が初めて挑んだ捕物帖。
武家ものでも一流、市井の人々の人情ものでも一流、
そして、捕物帳でも一流の手腕を見せる。
聞き込みする相手の長屋のおかみさんたちや
飲み屋の女中たちや
職人たちの姿に、
江戸の香りが匂い立つ。
ほんの小さな人物も生き生きと、本の中から立ち上がる。
たとえば、畳職人の言う
「お粗末な代物だが家には嬶(かかあ)と子供がいて、帰りを待ってるもんでね」
などという言葉に、江戸っ子の心意気が現れる。
捜査する伊之助の前に次々と新事実があらわれ、
事件の真相が見えて来るあたりはサスペンス。
伊之助は時々何者かに狙われ、危険な目にあうが、
昔覚えた体術でかわす。
石塚は捜査するのに便利だろうと、
お上の仕事である証明の手札を渡そうとするが、
伊之助はかたくなに拒む。
それが伊之助の矜持だった。
一匹狼の影のある私立探偵のような、
大江戸ハードボイルド。
仕事狂いで、
受けた仕事を期日までに仕上げることが生き甲斐のような
親方の藤蔵は、
石塚が訪ねて来ることに不審な思いを持っており、
伊之助が時々、仕事を放り出して何かをしていることに苛立つ。
伊之助は仕事を大切にしながらも、
捜査にのめり込んでいく。
そのあたりの描写がなかなかいい。
また、幼なじみのおまさとの関係も、
彩りとして読む者の胸を豊かにする。
「消えた女」は1979年、
「漆黒の霧の中で」は1982年、
「ささやく河」は1985年の刊行。
後に文庫化。
シリーズは3冊で終わり、続編が望まれたが、果たされなかった。
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