豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

仲間感覚

2016-11-20 11:37:35 | 読者に人気の記事
お久しぶりです!

まったくブログ更新できてませんねw

あれからは、将棋にハマってですね。

将棋ウォーズというゲームをして遊んだり、将棋の入門者の本を読んだりしてました。

が、飽きてきて、今は、あんまりやってない。

久しぶりに嫌われる勇気を再読して、更に夢をかなえるゾウも読み返しました。

なかなか楽しい。

私生活は相変わらずの激乱状態で、どうにもこうにも悩みが尽きないですね笑

悟りの境地からすれば、まあ、何の問題もなく、起きるべきことが起きているとなるのだけれども、人間、そー、言っても執着心があるからwwww

アドラーの話だと、相手に貢献することで社会の居場所を作ることで苦しみがなくなるらしい。

そうだろうね。

しかし、この仲間感覚とゆーのは、なかなか難しくないですか?

だいたい、みんな敵だとまでは行かなくても、用心してないと大変なことになると、そーゆー疑惑の中で我々は生きてるわけですから苦笑

しかし、ここで、損するような事態に陥っても、他者を信頼するのだとあります。

このへんの話が非常に複雑怪奇でぼくの小さな頭では、なかなか理解できません。

たぶん他人がどのような反応をするのかは、無視とゆーか、ほっといて、自分が相手に貢献することが大事だとゆーことでしょう。

これを僕のチンケな人生に当てはめて行くと、とにかく会社や友達や家族に貢献することが、幸せになるとゆー実に単純な話になりますwwww

だいたい、夢をかなえるゾウにしても基本、相手を喜ばせるとか、大切にするとか、そーゆー、自我中心から他者への愛への移行みたいなことを書いてあるようだ。

その愛、もしくは貢献とゆーものが、他者の認識とは関係ないところで実行されなければならないとゆーことなんだろうね。

つまり相手がどうあっても、喜ぶように環境を整えることなのだろう。

ひとりで坐禅することが、心身の健康には有益であっても、それが誰かに貢献することにまで、至らなければ不幸になる?のかなww

まあ坐禅まったくしてませんがw

この辺に僕の、信頼関係の構築へのキーがあるような感じがしますね。

信頼とか、受容とか、のキーワードの実現が平和への門であるのは間違いないことでしょう。

自己完結した、他者との交流を拒絶した悟りとゆーものは、害悪です苦笑

たとえば、なんらかの未知なる力、これが、現在ある、このわたしを含めた全体的生存の大いなる流れを形成しており、その中で、自己の善悪の観念を遮断して、この自然なる流れ、そのものの中に解放されていく、等々ですよ!

だいたい、こんな感じでしょう?

スピと悟りの、非二元のお話。

まあ単純な話、頭の世界を抜けて、この、ここにある、心身、その対象、全部の中に溶けていることをゆってるんですね。

自動的動きのことです。

考える前に物事は動いていると、そー言いたいわけですよね。

これは!

うまくいきませんです。

とりあえず僕はwwww

しかし、このハートが全体性に開いている、まあ愛の温泉的な状況は、たぶん、そーゆー系では、これ以上ないほどの、頂点に思われるのです。

これだと小さな空間だけで実現されるわけではなく日々の日常生活、そのものが、奇跡になるからですね。

正にライフはミラクルw

いやあ、しかし!

問題は人間関係にあるわけですから、もっと次元が低いわけですね僕の場合。

いや!

ここで人間なんていないと、そー、極限までいけば、確かに、孤立した自我はないのでありますから、間違いではないのです。

あってるかどーかではなく、僕自身の苦しみが、ほんとーに消えたかとゆー話なのですよ笑

つまり、答え合わせは必要なかったわけです。

答えがわかること、つまり、聖者の言っていたことがわかることは、別に価値がないかもしれないとゆーことです。

問題は、信頼とゆーことです。

相手に寄らない信頼とゆー、このアドラーの着眼点はいいかもしれませんよね。

しかし、では、何を信頼するのか?

普通は損得感情で、まあスピ的に表現するなら、ギブアンドテイクの関係である。

ところを損をしてまで愛するとは?

ここで仲間意識の登場ですね。

絆とか信頼は、仲間だから構築される。

この仲間が敵対関係になった時に不幸になる。

そして仲間になるには相手に貢献することが必要になってくるわけだ。

だから、やれることは、仕事とか友達とか恋愛とか結婚とか、親子の関係性の中に、仲間意識を持ち込むことなのである。

仲間だから貢献しよう。

その仲間感覚がどのように発展できるのか、が、重要な幸不幸の分かれ目のようである。

なにしろアドラー氏によれば、不幸の原因はすべて対人関係に起因するらしいのだから。

しかし、相手の反応に関係なく貢献するのに、仲間感覚を持つとゆーのも至難の技な気がするw

この辺り、もーちょっと勉強しよう。

では、野球に行ってまいります!

死とゆー名の張り手ビンタ

2016-10-15 04:04:45 | 読者に人気の記事
昨日、午前5時35分に祖母がグループホームにて息をひきとりました。

夜勤明けで家でゴロゴロとスマホを眺めていたら母親が「まさひろ、大変や!おばあさんなくなったって」と言った瞬間の空気感の変化の凄さ。

まあ、松枝さんは97歳で大往生だけれども、人の亡くなる時の衝撃は、凄まじい。

小さなころに、たくさん思い出があるので、そーいったイメージが、沸いたり、エピソードを語ったりする。

父親にも、もちろん伝えたようだが、すぐに忘れるし、にこやかにしている。

妹に電話したり、友達に電話する。

前に勤めていた会社の人たちと飲み会の予定があったが、それどころではなくなった。

一応、関係はなくなったけど、千鶴さんにも電話して30分くらい話した。

大往生やんかと、言う。

まあ、そーやね。

母方の祖母も96まで生きていたし、おばあちゃん長生きしたなあ。

もう何年も顔見せに行ってなかった。

数年前に地域の祭で、たまたま会ったのが、最期になってしまいました。

どちらさんでした??

と、僕の顔を見ても誰か分かってなくて、まさひろやんか、まさひろとww

夜の暗がりの中に盆踊りの提灯の灯りが映えていて、沢山の人が、踊る。

姪っ子も一緒にいたかなあ。

たぶん、輪に入って踊ってた。

それを、踊りを車椅子に座りながら、ずいぶんと嬉しそうに眺めていました。

介護してくれている伯母さんと一緒に。

また祖母は、ほとんど皆んなから嫌われた笑

口うるさく非難するからね。

僕も高校生くらいのころに、玄関で、怒鳴り合いの喧嘩してたの覚えているし、みんな、はらわた煮えくり返るくらい怒ったことあるだろう。

グループホームでも、すぐ喧嘩してたらしいw

母親が孤りで逝ったことに関して、業が深いでなあとポツリ言っていたが、そーなんかねー。

マハルシだったら、行為者はいないんだから、業なんてないぞとかゆーんだろうか。

生死を扱う宗教の、お勉強をたくさんしても、まあ、いざこのとき、どうも言葉は軽い。

そこに、行為者はいないのです、、、

で?

それでも、この起こってくる現実には、様々な記憶やら、涙やらがあるのだし、そこには、深い深い、感情がある。

それこそ宝のような、思い出がある。

無常無我であっても、そこには、人生はある。

心はないといっても、起こりくる感情はある。

もちろん、その、言葉は真理を突いているのだが、しかし、ハートが欠けてはならないのだ。

慈悲。

そのような、空の瞬間の連続である、この人生において、様々に変化する体験たち。

そこに愛の関係性があるのは、それは、大切なことである。

見かけ上の表現。

浮き世にオサラバして安眠したわけだが、そこは、最初から最期まで、そこにしかない、そこだろうと想像するが、、、

しかして、死者にしか確かめようがない。

彼女は存在するのか、しないのか。

分かりようがない。

死を知ることがあったのか、消滅したのか、霊魂が輪廻の旅をするのか。

チベット死者の書のようなところにいるのか。

確かめようがない。

霊魂がありますとか、人は死なないとか、観察主体がある状態での、発見は、これは、ほんとのところどうなのかは、実際的にそうなってみなければ、分かるわけがないだろう。

しかして、生きてある状態での、その観念の外れた時。

ただ、今ある浮き世の現実とハートの開かれた、その奥の沈黙がある時、そこは不滅であると、なぜなら、顕現していないからだと、心は安心するし、精神的な苦しみから逃れられるのは、僕の場合には、そー感じるということしか、言えない。

死の問題は、別にいまに始まったわけではなく、祖父が亡くなってからずーっと考え続けているわけだが、再び、張り手ビンタが飛んできた気分ではある。

いろんな人に死については聞いてみたけれど、やっぱりわからない。

わからない。

そのときになったら自分がいない。

考えても答えはでない。

とゆうのが生きている側にとっては精一杯だ。

アストラル領域での、つまり、感情と思考は、一定期間、個体性を保ち、新たな生命体へ生まれ変わるが、それは元々、個性を完成していた人だけであるとゆー説明をどうするのか?

どうしようもない。

また仏教で言われる六道輪廻をどう確認するというのだろう。

天界に昇るように、もちろん祈る。

地獄に堕ちないように。

しかし、天国、地獄、この世界とリンクしてあるという説があり、それをスピリチャル知識なんかに符合させると、その天国や地獄は、、、

とかなんとか。

しかし、頭は、どれだけ、想いを巡らせようとも、ここに解決を見ない。

要は、ここで、この神聖な、敬虔な感情に、対して、言葉での理解を持ち込むと侮辱されているように感じるのだ。

ほんとうの苦しみから解放されるのに、人はいないとか、それは幻想とかをぶつける。

それは真理だが、しかし、そのところを開くのには、感情の関与が必要だ。

つまり、愛情を感じなくては無理なのである。

言葉は正しい。

しかし、感情は、その言葉から、何を取るか。

実質の絶望から、学んで、解放に至るとき、簡単にはいかない。

もちろん、とても簡単なことなのだが、簡単なことを簡単だと表現してしまうと侮辱的に映る。

大抵、宗教の話は人から嫌われる。

そー言えば昨日も、あるブログを見ていたら、散々にスピリチュアルを批判していた笑

現実的ではないとゆーのだ。

この場合、社会の常識の範囲外とゆーような意味だろうと思われる。

そしてなんと、このような悟りやら霊性について、語るのは上から優越感に浸るためだとww

これもよく指摘されますね。

要するに僕なんかは、とんでもなく非現実的で、勝手な理論で優越感を感じたいだけ、みたいに思われているかもしれない。

しかし、生死の問題は、現実だ。

リアルに日々、起こっていることなのだ!

もちろん、忘れてしまう。

まさか、この自分が死ぬわけないとは思ってしまう。

未来に夢観るのも、この浮き世の悲喜こもごもに踊るのも、すべては確かな生命とゆー、基盤があっての話である。

しかし、それは儚い。

まるで夢のように過ぎる。

だから現実だとゆーのは、ほんとに、この、ここで僕たちが生きてあるのは、奇跡に近いとゆーことなのである。

その瞬間の連続が、いま、ここで、愛としてすべてを包んでいるのだ。

それを、アホらしいと批判するのは自由だがw

まあ長くなったんで、このへんにしとこ。

おばあちゃん、長いあいだおせわになりました。

まだ僕のこころには生きてるからね。

真の自己愛

2016-09-18 03:24:43 | 読者に人気の記事
こんばんは!

ただいま深夜ですけど寝てません。

感情の重さと風邪の咳で、えらい苦しむ。

いろいろ精神世界の動画見たり、掲示板見たりしてました。

相変わらずですなw

とにかく背中らへんと胸の辺りの苦しみようが、半端なくて、やばいww

まあ悟ってない僕が書くのもへんですが、昨今はやりの悟りについて、受け取っている感じを書き残しておこうと思います。

まず、パターン1の場合は、なんらかの偉大なる存在を根底におきます。

この場合、ひとつとか分離がないとゆーのは、このベースがあった上での話で、このところを空とか真我とか永遠の命とか、その他、様々な名称で呼んでいます。

本人は気がついてませんが、それはイメージの中にしかありませんwwww

それを知っている、体験を持ち運んでいる。

そこから発展してパターン2の場合は、このようなベースはどこにもありません。

ひとつとか分離がないとゆーのは、ほんとに、ひとつで分離がないのです。

このことを理解するのは、自己から世界に向けられている意識が、世界から自己に反転する時ですね。

そして、その世界意識の一部として自己があるわけですが、この今までの自己は、対象になっていますwwww

思考も感情も感覚も、また対象としての世界も、繋がっていて、動いているのですね。

これが、べつに意識的になされるわけではなくて、そのまんま、そーなのです。

すべては、ありのままです。

こーゆーことを人にゆうと批判の対象にされますが、まあ、リアルがすべてとゆーことですね。

そこにベースとしての仮定された存在がないのであります。

そして、パターン3はこのリアルの前に、行ってしまうとゆーか、そこと、リアルの両方が、ひとつになっている悟りです。

これは!

はっきりいって、ほとんど誰も言ってません。

まあ病院へ行けとか酷いことゆわれますwwww

大和田さんは、たぶんパターン3やと思うんやけど、それは、僕の勝手な印象かも笑

でね、僕は散々リアルに開くことを書いてきたわけですけど、これと、今ぼくが感情的に苦しみまくってる問題は、リンクしているのです。

全体としてのわたしを分割しているのが、我欲や分別で、その、想念としての我を手放すとゆーのは、だいたいの人が思ってる。

それに対してリアルに開くのは、この目の前の現実がわたしである。

つまり、我欲や分別も含めて、認識対象に消えた、融合したところ。

これだと、感情が置いてけぼりになるwwww

近ごろ散々、思っていた思いやりとゆーものは、全く生じないのです。

そして感情問題が解決されない限り、苦しみもあり続けます。

ちょっと話が、それますがグルジェフさんの手法では、体の緊張感を解放し、否定的な感情を現さないことを延々とします。

ここで想起される自己は、真我のことです。

しかし、このやり方だと、大変に精神が強い人でないと抵抗に勝てない。

常に我欲と思いやりの闘いになります。

そして観察者としての自我が立ってしまうので、そこを落とすことの理解が非常に難しくなります。

さて、世にたくさんいる覚者の方々は、こー言います。

無我である。

無心になることである。

意味を解体する。

大いなるものに手放す。

等々ですが、これらは既になされている。

そして、問題は、この解放に至ったときの経験が、すごい呪縛になっていて、そのイメージが、ずっとあることなのです。

そーなると、その、意味、つまり今は悟りとか解放なんかで現されている言葉の指す体験への、執着心が生まれて、それこそが真理だ、どーのこーのと言って、他者を導こうとします。

この場合、本人は非常なる親切心で、それはダメだ、ここは、こーしたらいい等々のアドバイスをしますが、その指してるところが、イメージの世界なのです。

その前とゆーのは、言葉にできませんから、必ずそーなってしまいます。

そして、こーだあーだと日々、宗教的テーマに於ける争いが、彼らの、まあ、ぼくも含めて、心の中で展開されていくわけです。

大和田さんが何も起こってないけど、すべてが起こっていると言う。

そこの両方の分離がない。

感情は、この、認識対象としての自己を愛さなければならないのだ。

『人の思いは何処へも赴くことができる。けれど、何処へ赴こうとも、人は己よりも愛しきものを見出すことはできない。それと同じで、他の人々も、すべて己はこの上なく愛しい。されば、自己の愛しいことを知るものは、他のものにも慈しみをかけねばならぬ』
by釈迦

とゆーわけで、このリアルに溶けるとか、無の、つまり、未知の認識以前の自己に溶けるとかにしても、自己を排除してはならないのだ。

ここが無我と矛盾するよーで難しく、安易に批判されてしまうところなのだか、自己の拠り所は、自己でしかないと釈迦自身が言っているのである。

仏道とは自己なり!

徹底的に自分になりきっている。

自己こそが主人公である。

自己の思いが清らかであれば平安である。

等々。

自己は排除されないのだ。

それが、リアルの中に消失する際に自己を排除しようとすると、凄まじい抵抗に合う原因である。

そして慈悲が生まれないのは、自己を愛そうとしていないからである。

自己を愛するならば、執着を棄てよとゆーことが本来であって、この自己は除外できないのだ。

では、無我との矛盾をどーするのか?

と、とーぜん、指摘するひとがいる。

無我とゆーのは、自分ではないとゆーことである。

体は自己ではないとゆーのが、その主たる指摘なのだ。

的確にこれだと指し示すような自己はない。

しかしながら、自己は存在する。

この、存在するのは、普段の知的な自己ではなく、何でもないものである。

それを空と色の混合体として描くのだ。

この時に、この普段の自己を排除してはならないのである。

それは、そのままあって、そして、ないのだ。

解放されるのは、この自己の方であって、感情が、この自己を愛さなければならない。

そうでないと分離する。

この自己が不要物として、分離されているのだ。

そこも内包した、解放でなければならない。

私があって初めて、無我が成り立つ。

意味不な言葉やな笑

グルジェフさんも、その最後の著作のタイトルは、生命は私が存在して初めてリアルになるとしています。

僕が感情の問題をいつまでも引きづるのは、つまり他者を大事にできないのは、この私である存在を無視しようとしたからでしょう。

それは融合されるべきで、消えるべきだが、しかし、そこにまだ在るのである。

吹き消えたとしても、リアルのみだとしても、如何にしても、この私は、在る!

なぜなら、それは、存在している万物を超えているからだが、実質のそれは無、もしくは、空、認識以前である。

しかし、あるのだ!

しつこい?wwww

とにかく、この肉体としての我も、空としての全体的融合も、どちらも、そのままにして排除してはならないのである。

それは両方あって、いいのだ。

このわたしを排除して、それ以外のすべてを愛することなど絶対に不可能であるだろう。

そーおもいませんか?

この私と全体的生命の世界の両方があって、しかも、それがひとつになるから慈悲が生まれる。

どちらもある。

その二つが融合する、中和する、調和するところが無我なのである。

どちらかによって、どちらかを消したら破綻する。

自己が立ち世界も立ち、そして、その両方の前に、つまり、言葉では指し示せない名称も形もない、そこ、その微妙なる、そこ。

その分離しないそこにあるチカラが、この対立した両方の中和となる。

ぼくの今考えるには、自己をコカそうとしたことが、無我を妨げたのだ。

全体に調和しなければ消えない。

両者がこの、以前たる未知の無相において、統一されることが無我なのであり、それが、風があれば風のみであるの意味である。

これしかないの意味である。

分離しないのだ。

これが自己をこかすわけではない。

もしくは自己がこれを内包するわけでもない。

両者はひとつなのだ。

そして、それは、実際にはあるけどない。

空である。

間違いなくあるけれども、あると言った時には消えている。

うーん、思いに任せて書いてしまったけど、どんなもんやろ?w

病院へ行けはなしでお願いします笑

あー、いつになったら、まともになるかのー。

とにかくリアルがある。

これは認識以前であり、そして、自己はそれと分離していないのだ。

とゆーより、自己とゆーか、その、そこは分離していない。

しかし、そこは、ない。

そして、その時に自己を否定してはならない。

肉体は自己ではないが、自己は在る。

私は存在するのだ!!!!!!!!

よくわからんことよのー

2016-09-13 09:57:53 | 読者に人気の記事
お久しぶりでーす。

またもや更新できぬ日々の豊田です。

今は精神的にキツイので、まあ、仕方ないですが月1くらいは書いてきたいので書いてみます。

で、今日は仕事帰ってからユーチューブで、スピリチュアルやら、非二元の動画を見てました。

鬱になると探し回るww

で、大和田菜穂さんとか、溝口あゆかさんとか、じゅんころさんの話を延々聞いてたら、まあ、頭ではなんとなく理解しました。

やっぱり表現としては体に収縮したエネルギーが解放されるとゆーのは秀逸。

全体と分離しない自己は、そのあとにくる。

色即是空。

で、じゅんころさんの話もわかる。

ラマナマハルシと同じですよね。

つまり、これは悟ってる人が何人もいるとゆー異様な状況にあるようです笑

この全体としての自己に振れるか、同時にある、この世界の側に振れるかの違いを僕なんかは感じるんだけど、非二元と禅は少し違う。

しかし、こうなってくるとグルジェフさんの思想とかテクニックは人為的にこの背後の自己を破壊しようとゆー、めちゃくちゃ強引なものであるように感じてきますね。

自覚してその全体意識を体に、また、感情的抵抗に当てていくのは、非常に合理的に本来の自己に帰らせますが、キツすぎるww

結局は解放に向けての知性に働きかける手段としては有効に違いないですが、なにしろ時間がかかって仕方がない気がする。

でも、まあ、僕が、こういった非二元やら禅やらの外側に少しでも触れることができるのは、この意識があるからである。

つまり動作やら感覚、感情にフォーカスする習慣を断続的ながらもしていたので、開くとか解放するとかのエネルギー的な意味を少しは理解できるのです。

もちろん未だに僕のハートは葛藤の嵐のまんまですが、しかし、このエネルギーとしての収縮が全体に開くとゆーことの意味は理解できる。

まあ単純にリラックスだろうけど笑

身心脱落と聞いて、大和田さんが完全なるリラクゼーションと表現していたけど神すぎるやろw

まあ覚者って、ホントに落ちたんだよなあ、この体が自己とゆー感覚なのか思考なのか。

そこまでは流石にいってないww

方向性としては分かるし、そーゆー瞬間もあるんだけれど、結局は思考とか恐怖が、それこそエネ的にあるもんだからね。

たぶん、ある日スコンと完全に抜けたとゆーのは本当だろう。

しかし、これは愛とかに繋がるのだろうか。

愛とゆーのは、つまり解放された自己の存在そのものとゆーことになる。

この自分自身が愛そのものなわけだ。

すると、この愛が非二元では虚構とされるこの世界に広がるには、グルジェフさんのテクニックは非常に有効だろうな。

でも、まあ、広まらないだろうww

どうも個人的な匂いが、まだ、あるんだよねー。

たしかに、ここにある、これしかない。

そして、ここにあるこれは、実際には、刹那の消滅なので、継続的な実態はない。

私は生まれていない。

しかし、じゃあ、この夢の世界は、いったいぜんたい何故に展開しているのだろう。

とゆーか、この世界を創造している力は、この世界の側のなんらかの意識なのか、自己の夢見る能力なのか。

よくわからん。

まあ、そこが同一だとして、この夢の世界で、

あー、そうか!

また時間を持ち込むから、そーゆー思考になるんだろうなあ。

でも、こうなってくると世界をどうこうしたいとゆー願望自体が否定されるんだよね。

その前に全部あるんだからさ笑

ちゅーことはブログ書いてどうこうも、無意味w

難しいことやなあ。

個人個人がそこにいけばいいのか。

個人はいませんと声がするがwwww

難しい。

開いたとしても、まあ実質、あるものはあるしね。

空だとしても、そこに、この全体としての出没が、まああるからねー。

それはそれとして、そこに、みんながいけばいいのかとすると、もともとみんないないわけだ笑

なんもせんと、そこにいるんが一番なんかな。

いるんがっちゅーか、最初からおるがなと、こらもなるやんかwwww

とゆーことで頭で考えると、まったく何にもならないこの、悟りとかゆーやつ。

まあでも、みんな、と、どーしても出てしまうんだよなあ。

だって、そーじゃ無いとマジで、このブログとか無意味すぎるもんw

とゆーか、世間にある、悟りへの道とかのお話とかも全部、意味ないやーんとなってしまう笑

だから、やっぱり個人はいると仮定して、その個人はいるとゆー世界の中で、如何に、気楽に仲良くできるかを目指さねばならぬのよw

でも、それを実現するには、体は私ではないのエネルギー解放で、そーなったら個人はいないんだから、実質、やっぱり元の木阿弥。

まあ、自分で、ホントにそこに落ちてから、考えたらいいか、そんなことは。

とにかく、まあ、その、全体さんが、この凝り固まった私を解放してくれるんを待つかな。

とゆーと、待たないでくださいとゆー声がww

こりゃー永遠ループ。

まあ、なんか苦しみすぎて、いい感じに壊れてきてるんで、がんはろー。

ほいじゃ、また!

大内山動物園へ

2016-08-20 15:58:55 | 読者に人気の記事
今日は3時間しか寝ずに、息子との面会に勢和多気へ行ってきました。

そこから大内山動物園へ。





高速で行ったけど森林の迫り来る感覚が、我が亀山よりもすごい!

なかなか爽快なる快晴。

悠聖も元嫁も機嫌よし。

動物園は貸し切り状態でした笑

熊とかライオンなんかが、やっぱりリアルで見ると迫力あっていい。

けど悠聖は白鳥に餌やりした時が一番よろこんでたな。





暑いんで休憩挟んで、1時間くらいで、全部見終わりました。

まあ東山動物園みたいにはいきませんが、人いないのでめちゃ気楽ですw





予定より早く回ったので、じゃらんで調べて、道の駅紀伊長島マンボウへ。

行く途中に山上からの超絶景箇所があったけど、通り過ぎてしまって写真は撮れず。

海まで見渡せる、爽快なる風景でした。

到着してさっそく探したマンボウの串焼き。

が!!

なんとですよ。





まだ昼なのに完売wwww

獲れなかったんじゃないかと、帰りに元嫁はおっしゃっていた。







しかたないので、さんま寿司が、うまいとネットにあったので、購入。

実際、うまかったわ。

元嫁は、めばり寿司、悠聖はおっとっとww

外の日陰にテーブルと椅子があったので、そこでいただきました。



滑り台があったので、悠聖を遊ばせていたら、なんと転落!!!!

うわぁああんと声がした時にはすでに頭から下へ、、、。

元嫁は切れる。



裏にあった池。







マンボウ串焼き食べたすぎで無念だったけど、帰ることにしますww

最後に大台とゆーところにある七福と名付けられた蕎麦屋さんへ。





僕がセットで、元嫁は単品の蕎麦。

ノンアルコールビールも頼む。

悠聖、注ぎに来て、どうぞとやるので、顔がほころぶw

蕎麦食べるか不安だったが、かなり気に入った様子で、もっとくれとアピールしてきます。

よかった、よかった。





最後にデザートのアイス。

アクム、アクムとゆーので、僕が悪魔??

と聞いたらアイスクリームと元嫁ww



それからお店を出て、帰りは下道で、のんびりトークしながら勢和多気へ。

家まで送ってバイバイです!

なかなか、いい日でしたな。

久方ぶりに。

家へ帰って、まあ、ブログ書いたり、友達と連絡取り合ったりしてました。

また来月、楽しみにしておこう。

んでは!