豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

分からないね

2016-08-17 16:28:24 | 読者に人気の記事
見ている自分が消えると、普通はリアルが鮮明に感じられてくる。

見ている自分の方へ引くと、今度は、世界が遠ざかる。

誰もいないと意識すれば、これは、もー、凄まじく絶望気分。

何かする前に起こっているのは、思考の認識以前に活動、つまり、動作や感情が動くこと。

じゅんころさんとゆー、ひとは、在るの中にある統一的全体とする。

これは分かる。

もしくは空とか、神や仏も、なんらかの意識スペースを前提とした統一。

こういったものが、大和田さんの説には登場しないように思える。

ライフと全体をイコールで繋ぐことは、この分離もないことを表す。

神さまを明確に否定するのも。

引くことで全体とゆーか、見かけ上の出来事から離れることはできる。

そして、更に自己をこかす。

これは、禅とは、反対方向だが、あの生き生きとした笑いがでるのはなぜだろう。

まだ、何か、違うのだな。

まあ引き続き、いろいろ試していく。

気分落ちてるなあ

2016-08-16 15:40:06 | 読者に人気の記事
地獄の底からこんにちは笑

人生やることなすこと、すべて、碌でもなく感じている豊田ですw

昨日の朝からスマホのゲームしたり、ツイキャス聞いたりしてましたが、飽きた。

ゴロゴロしてお菓子食べたり、どん兵衛やカップヌードル食べる。

そして外出はコンビニのみという。

まあ、人に会いたくないので丁度良かったのだが、ここまでボロボロの精神状態は久しぶりですね。


阿部さんが夜にUstreamやってたのでちょっと聞いて、なんか、まあ、そっから色々動画見てました。

澤木興道さんとか、鈴木大拙さんとか、井上哲玄さんとか、弟子の人とか、あと誰だっけ?

とにかくいろいろ聞いてました。

大和田菜穂さんは、やっぱり表現がすごいですね。

とゆうか、他の人の話はオボロゲには付いていけますが、彼女の『私はいない』はちょっと難しい。


だいたい聞いてても思考以前の私とかになってますよね、誰もが。

ただ目の前にあること、それだけに徹するのだとか、まあ、思考も含めて自然現象だとかね。

まあ、そこの先になんか理想的なものをひっつけるか、付けないかの違いぐらいか。


ところが、この私はいない、起きていることがあるだけ、そして実際には何も起きていないというのは、似ているようで理解不能領域。

思考の認識以前のところで、そこを認識することも推奨しない。

なにもしないとか、なにかをするとか、意思の介在も許されないww

何が何でも、ここにある、これ。

つまり全体の表現があって、そこに私は不在なのだ。

しかも、これは、不在になったとかではなく、もともと不在なのだという。


何かがずれているとゆうか、もっと、何か違うポイントを指しているように思える。

だいたいにおいて、僕が、ここまで混乱するのは、彼女のメッセージくらいであるwwwww

禅とか、スピリチュアル、悟り、もしくは、まあ第四の道でも、はっきりは分からないながらも、ある程度、まあ、こうねと推測される。

その推測で記事を書いているわけだが、ノンデュアリティはマジで別次元すぎますね。


でも聞いてると、この人間視点と、その、至高点みたいな違いがあるのかなと思ってしまう。

しかし、何の変化もないと説かれる。

何の変化もないが、この体に収縮したエネルギーが消えるらしい。

これは、たぶん、僕は未体験だな(体験ではないらしいがw)


まあ、しかし、人生終わってきたし、やりたいこともないので、また研究でもしましょう。


思考以前に出来事が瞬間的に沸いては消えている。

まあそうだ。

思考も、その認識以前である。

それも、まあ、そうだ。

だからこそ、人間には、差が無い。

すべては因縁によって起こっているだけだ(ここはまあ否定されている)

原因も縁も結果もない。

何も起こっていない。

この何も起こっていないとは??


私に対しては、何も起こっていない。

なぜなら、私は、存在していないからということだろうか。

何か、僕が理解してないことがあるのは直観的に分かるんですけどねえ。


何かのスイッチがポチッと入ったとしか思えないなwwww


まあしかし、仏教とかの手放しと方向性は似ているんだろう。

それが、まあ自分には不可能とくるわけだが、まあ、何となくは似ているwwwww


精神的には、かなりの疲弊状態なので、なんか新しい境地にでも飛び出しそうだな。

ホントにさ。

自分が自分を自分しているとか、自己切りの自己だよね。


やっぱり、何らかの意思を仮定して、そこにすがるのがいいのかねえ。

ヒンドゥみたいにさ。

よくわからない混乱の最上級ですな。


とにかく、追い詰められてるので、かなり強烈に、嫌世の中精神でいこう。


ただ跡形もない、その先に、全体とか、生命を見るのか。

それとも自己の完全性を見るのか。

分離のないとは、対象と自己の合一なのか、消滅なのか。


どうも今日は支離滅裂だが、このあたりで。

まあボチボチやりますよ

2016-08-07 17:04:05 | 読者に人気の記事
今月も更新しときますか。

今日は昼に起きてきて、どん兵衛たべてから野球に参加しましたよ。

いまから打ち上げです。

どうもバタバタしていてゆっくり休めてない。

Wi-Fi復活してからツイキャスにはまって、暇な時間はずっと聴いている。

坐禅は10日で終わった。

でもまあ、個人的にはすごい、いい感じ。

前の感じが、戻ってきた。

若いころの感性は、まだまだ死んでない。

人生は思い通りにならない、好きな人とは別れるし、嫌いな人には会わなきゃならん。

体は思うように元気ではない。

生活は自由ではなく、年老いて、そして病は気づかずやってくる、いつか朽ち果てるからだ。

すべては無常であるから、らくは苦である。

それでも心情の美しさは残る。

心の声。

常に向こう側から語りかけている。

この世界には属せぬ意識、感受性。

高度なる感情。

それは作為からは生まれないのだ。

個人的なものではない。

知識は不要。

生まれながらにして、そこなのである。

自然そのものである自己のあまりの近さに、そこを離れて感じるだけなのである。

見失った光。

自己意識が弊害なのだ。

まあ伝わらんけども、間違ってないんやけどなw

聖者なんていない。

手に入れるものはない。

まあ、ボチボチ今月もがんばりますよ。

きれいな人はいいな、心の声。

否定性との関係性

2016-07-20 16:26:10 | 読者に人気の記事
またしても更新できずにいます。

先週の誕生日から、また坐禅してます。

あとは自己憐憫と自己否定にたいしてどうするべしかの研究中。

生活は自堕落になっている。

観察していると、自分が優れているとか、相手と気軽に打ち解けているとか、親密な関係性とかに弱みを発揮しているのが、見て取れる…。

とくに、ちやほや、されたい病は深刻。

ちやほやとゆーのか、優しく接してもらう人に、いや、愛情を感じる関係性のところ、で、非常に弱い。

自分が惨めに感じると、すぐに否定的な状態に陥るが、これはなにが原因なのか。

どういう気持ちの問題か。

この辺りで、ウロウロしてますね。

たぶん、このへんが、まったく手付かずなので、私生活で問題が多発する。

まあ単純に言えば渇愛なのだろうけど、もっと感情的に強くならないといけない。

この欲求の原因を突き止めて解消しないかぎり、いまの状況からは脱せないだろう。

まあ、がんばります。

一応、更新途絶えてるので書いときました。

では!

あ、誕生日、祝ってくれた人たちに、こころから感謝します。

立ち直るチャンスをくれました笑

まあ、焦らず、ゆっくりと改善しますね。

迷惑かけた分、がんばらんとやわあ。

どうしようもなく最低なわたし

2016-06-25 19:05:26 | 読者に人気の記事
このままだと6月の更新が途絶えるので、書いておこうと思います。

前回の更新から色々とあって、まあ、自分なんていうものの、どうしようもなさを痛感します。

禅なんかで言われる、三昧とか、スコーンと抜けた状態っていうんは、確かに気持ちいいんだけど、その前に捨てられるものが、捨てられてないといけない。

捨てられるものとは、自我である。

なぜ、最初から、救われているのに、捨てなくてはならないのかと言うと、この自我とか気持ちの働きが、他者と対立することで、心が開かなくなるからなのだ。

ごめんなさい、ゆるしてください、愛していますと繰り返すのはオポノポノとかゆーハワイの教えでしたっけ。

この自我の働きを弱めるには、良心が働かないといけないが、それは衝撃的な事実とかがないと開いていかない。

人間には3つの機能がある。

思考、感情、動作であるが、この、管理をするはずの主人は不在である。

主人は自己意識と、良心が機能しているときに、働き出すが、それは自我の抑制という効果を、意図的な苦悩によってもたらす。

意図的な苦悩とは、超絶な努力であるが、これは意識的に働くときに合う抵抗に対して情け容赦なく戦っていくことだ。

ゴータマブッダは、

アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の穢れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。
(スッタニパータ)

と言うが、ここに全て核心がある。

無明に対するのは智慧だが、この智慧とは注意しているエネルギーのことである。

そして、貪りと怠惰は動作中枢の反応として、または本能中枢の反射として感情を突く。

この感情中枢はできるだけ楽ができるように、自我以外を否定し続けるが、これが、欲心である。

苦悩は、この自我と他者との隔絶、自我と自然との隔絶など分離から生まれている。

主客一体となれば、その人はもう悟ることはない。

良心とは相手の立場に立って公平無私に感じることだが、それは、自己がコケていないと不可能である。

見ることはできても感じるのはべつの中枢の働きであり、長い修練をしなければ、自己の弱さは克服されない。

何をするにしても、抵抗があるが、それは、常に貪りと怠惰である。

ある程度ということが重要になり、もっともっとと、求めることが苦しむ要因となる。

たるを知るとは、ほどほどで満足することだ。

自我活動とはクビの後ろでいつも、ブツブツと不満を垂れたり、否定している、そのおのれと勘違いしている悪魔を打ち倒して消すことである。

それには暴力は役に立たない。

光と愛が悪魔を打ち倒してしまうのだが、その光と愛は、真の内奥の主人の機能である。

そこを、解放すれば、悪魔は檻に入れられた狼のように抵抗できなくなる。

彼ら、普段は自己と勘違いさせている悪魔の武器は恐怖である。

恐怖とは苦悩だとブッダは言う。

苦悩に、対する恐怖なのだが、それを乗り越えるのは非常に長期の時間が、かかる。

満足していれば、それは、簡単であるが、ちょっと引っ掻かれると自我は暴れる。

グルジェフさんの改心した狼と一緒である。

外的に考えるのは、非常に役に立つが、そのときに、ごめんなさい、ゆるしてください、愛していますとゆー呪文?w は使える。

人間は一度、動物にならなければならない。

そして動物本能からの鋭い感受性の中で思念世界を抜けることが第一歩だ。

これは悟りのような体験である。

見たものだけがあって、すべて空とは、この状態であるが、ここで止まったら、慈悲はない。

確かに苦しみの思念的な部分からは解放されるが、それは独特な個人の悟りに留まり、おそらく他者を大切にするどころか、反対側へ暴走するだろう。

何も問題がなくなるからだ。

しかし目が覚めて見れば、そんな単純なことではないことが分かる。

人はひとりではないのだ。

僕たちはひとりではない。

人間はひとりでは生きられないのである。

他者を大事にできることが、まったくできないとゆー僕の問題に迫ってきたw

これは、自我があるからである。

自我とは否定である。

否定とは悪魔のことである。

慈悲とは肯定であり、肯定とは、仏である。

世界からの眺めだけでは十分ではない。

その世界からの眺めに溶けてしまわないといけないのだが、それが良心の火、炎である。

我々の太陽は熱も光も発しない。

この炎は、ハッキリ言ってしゃれになりません。

抵抗に対して気持ちを殺すことなのだ。

これは恐怖とセットになっている。

安心とは恐怖の消失のことであるが、この恐怖とは自我の悪魔、そのものなのだ。

だれも消えたいとは思っていない。

新しい主人がいなければ、これは不可能である。

この辺りの研究を続けよう。