朝6時頃、仕事だと思い込んでいる母親に起こされる。
有休だよと言ったら、もっと早く言えと怒られました。
気が付いたら昨日からPC付けっぱなしで更新せずにおいたままだったので、少し付け足して投稿。
朝食を母親の家でいただきます。
ご飯に目玉焼きにサラダに味噌汁の定番朝食。
さいきん納豆と生卵かけご飯、あんまり食べなくなった。
それから、また寝ていってしまう。
起きてからブログいじったり、『ヒューマン・ブッダ』(アジズ・クリストフ)を読み込む。
千鶴さんに起こして貰うようにお願いしていたのを思い出し電話した。
「今何時ですか-? 8時20分に起こしてって言ったの誰ですか―」とお怒り状態。
明日、彼女の家で夕飯を御馳走になる予定で買い出しに行ってくれてた。
優しい彼女に感謝しないといけないけれど、個人的なことでいっぱいになっている。
N先輩と職安に行こうと思っていたので電話してみるが繋がらない。
1時間おきに電話するが、電源が入っていない。
南くんから何度も確認の電話が入る。相当気にしているようだ。
最近の疲れが溜まっているので、布団でゴロゴロしながら、起きてきてはいろいろやる。
ツイッターやミクシィを見たり、阿部さんのページ見たり、ハートの悟りについて検索したりする。
『Gurdjieff, Tsabropoulos: Chants, Hymns and Dances』(Anja Lechner)を聴く。
スクールウォーズを少し飛ばしながら見た。
お風呂に湯を張ってのんびりと入る。
体が疲れているのが、わかる。
精神的に根本から変わってしまう必要性がある。
昔書いていたブログに『愛と在る状態の維持』というタイトルで記事を書いていた。
それが今脳内で気になって読み返してみると、とても良い方向性で書いている。
この記事を書いていた時には気付いていなかったが、アジズを読んで思うに愛は全体にむけて安らいでいる状態である。
しかし、ひとつひとつの魂が全体を形成しているために認識と感情とはひとつの解決法では無理である。
思考の放棄と感覚の鋭敏性が、感情へと働きかける。
魂が世界へ解放されたがってくるのだが、自我はそれを抑圧し続けているので葛藤して苦しむ。
愛を他者への投影から得ようとする感情の状態が問題である可能性を考える。
自分自身の胸の奥に愛があり、それは全体性へと溶け込みフュージョンするのだ。
僕はここで他者に対する感応の仕方に問題を抱える。
もちろん、それは人生全体に波及しているので、ここさえ変われば人生のステージが違ってくる。
アジズに寄れば、『気づき』と『存在』と『愛』という3つの状態が魂を全体にフュージョンさせるようだ。
このあたり、グルジェフの理論とそっくりである。
無数の雫が、永遠にそれぞれに違ったユニークなやり方でひとつの太陽を反映している。
『ヒューマンブッダ 魂の探求者へ』(アジズ・クリストフ著・中村知子、荻原智子訳)より
僕は一つの全体を反映させる魂なのだ。
そして他者、動物や、植物など全ての生命がそれぞれのユニークなやりかた(魂)で全体を反映する。
色々考えながら、煙草が切れたのでコンビニへ行って2箱購入してくる。
『ア・ラ・ポテト』と『爽ーチョコマーブル』も買ってきた。
また南くんから電話が入る(笑)
他者を感じる時の癖が問題であると考える。
理想を言えば、表層を見るのではなく、魂のキラキラと輝く状態と出会うのだ。
私は全体を存在させる者だが、また個々全ての生命が全体を存在させている神の分身なのだから。
それらの個々の全体意識がフュージョンしていくには?
しかし実際問題、個々の魂は全体意識に覚醒していないので視点が生存パターンに限定されている。
個人的な注意があちこちに引っ張られ、エゴの干渉によって純粋な感情が死んでしまっているのだ。
解像度をあげなければ!
実際に他者と出会っている自分を見てみる。
この出会っている私は人格である。
人格は様々なパターンの中で自己の感情を守ろうとする。
しかし私は本来の自己へ帰って他者とフュージョンすることが必要だ。
注意を自己へ与え私を消し去ると視点は天から全体を感じる視点になる。
感性は鋭敏になり、リアルな感覚が感情に躍動感を与える。
感情は今にも何かとフュージョンして溶け入りたいと訴えている。
しかし、ここで他者の個の意識は私の注意を引っ張る。
なぜ引っ張るのか?
他者の反映する宇宙において私も一定の役割を持っていて何か、人と人を繋ぐものが機能している。
愛が機能しないのは条件付けによって抑制されているからだ。
この条件付けを自己の内部で干渉されないようにしてしまわないといけない。
全体に飛ぶというのは解決になり得ない。
この問題にすべて掛かっているのは分かっているのだが一向に進展せず堂々巡り。
奥にあるエネルギーと出会うという発想が沸いた。
世界が実存するのは愛のみというのはそういう発想かもしれない。
全体の放射が全ての魂に届いて魂はそれぞれのユニークな生を表現している。
それらはすべてエネルギーの動きである。
根本では愛である者が表層では光の反映である過去に惑わされている。
過去が消えても、反映者である魂は消えない。
魂はリアルなエネルギーと出会うが、心の表層がエネルギーを融合させることを許していない。
なぜなら私の心は傷ついて痛いと訴え続けている。
全体へ解放すると心は安らぐが、それは他者の干渉を許さなくなる。
しかし他者の魂は私と同じ宇宙全体の意識を反映したユニークな存在である。
このエネルギーは内奥から秘められている光の反射を私の魂に表現するために注意を惹かれる。
これらの神秘的なエネルギー放射の交流を遮るのが個人的感情の問題だ。
感情を遮断するのは傷ついたからだが、しかし普通に開いても、また傷つくだろう……。
どういう内的状態が愛である状態を他者とあるリアルな瞬間に持ち込むのか?
何がフュージョンさせるのか!?
アジズに寄れば、感情は感じることであり、観察が見ることである。
視点を変更したり、観念の書き換えだけでは感じる能力が変化しないことは明白だ。
感じる対象の変化により一時的な解放感に浸ることは全体的な変化に繋がらない。
見るのではなく感じることが、心の変化に繋がっている。
しかし他者に心を開いて感じることは傷つくことである。
私は例外なくエゴの範疇に属している関係性しか結べていないからだ。
心の奥の愛は逃避的にしか解放されていない。
であるからして、ブログでこのような内容を書かなくてはいけなくなる。
実際のリアルな関係性の中で実現すべきものを仮想空間への解放だけで代替えしようとする行為は自滅的である。
私が弱い部分が関係性の弊害になる。
心が攻められない事柄に関しては開放的になれる。
この現代社会、システムに押さえこまれてしまった状況の中で、生きる人間の誇りをとりもどすには、打ちくだかれることを恐れず、ひたすら自分を純粋につき出すほかはないのである。
『自分の中に毒を持て』(岡本太郎著)より
僕は自分なりのやり方で対処するべきだと思う。
色々考えたが生命の煌めきは全ての存在から放たれている。
それと個々別々の鬩ぎ合いや闘争の世界は別の次元にあるのだ。
表層を無視して魂の奥へと注意を向けることが必要であり、その間に自分の感情は全体性の中へと安らぐ愛の状態との繋がりを維持する。
しかし、出る杭は打たれるので、世間的な対処は別な次元で行わなければならない。
思考の複雑な鬩ぎ合いや、生存競争の中で純粋な魂の次元へと常に焦点を合わせ続けるのである。
解像度をあげよう!
僕は誰かと会っていて、それは表層的な関係性である。
しかし僕は全体意識へと感情を開き表層性をスルーして相手の煌めく魂の反映を映し出そうとする。
同時に表層的な関係性では夢の中の姿勢を何かのテーマで縛ることで乗り切れないか!?
魂という概念!
やっぱり逃げると言うことしか思いつかないな……。
攻撃的関係性は無視してハートの注意を全生命の煌めきに開き続けると言うことだ。
その間、私の反映である他者が私に関係するのは表層を通り越した真実在のみである。
と、休みなのでマニアック思想全開してしまいました(笑)
みんなで毒抜きしたいなぁ。
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有休だよと言ったら、もっと早く言えと怒られました。
気が付いたら昨日からPC付けっぱなしで更新せずにおいたままだったので、少し付け足して投稿。
朝食を母親の家でいただきます。
ご飯に目玉焼きにサラダに味噌汁の定番朝食。
さいきん納豆と生卵かけご飯、あんまり食べなくなった。
それから、また寝ていってしまう。
起きてからブログいじったり、『ヒューマン・ブッダ』(アジズ・クリストフ)を読み込む。
千鶴さんに起こして貰うようにお願いしていたのを思い出し電話した。
「今何時ですか-? 8時20分に起こしてって言ったの誰ですか―」とお怒り状態。
明日、彼女の家で夕飯を御馳走になる予定で買い出しに行ってくれてた。
優しい彼女に感謝しないといけないけれど、個人的なことでいっぱいになっている。
N先輩と職安に行こうと思っていたので電話してみるが繋がらない。
1時間おきに電話するが、電源が入っていない。
南くんから何度も確認の電話が入る。相当気にしているようだ。
最近の疲れが溜まっているので、布団でゴロゴロしながら、起きてきてはいろいろやる。
ツイッターやミクシィを見たり、阿部さんのページ見たり、ハートの悟りについて検索したりする。
『Gurdjieff, Tsabropoulos: Chants, Hymns and Dances』(Anja Lechner)を聴く。
スクールウォーズを少し飛ばしながら見た。
お風呂に湯を張ってのんびりと入る。
体が疲れているのが、わかる。
精神的に根本から変わってしまう必要性がある。
昔書いていたブログに『愛と在る状態の維持』というタイトルで記事を書いていた。
それが今脳内で気になって読み返してみると、とても良い方向性で書いている。
この記事を書いていた時には気付いていなかったが、アジズを読んで思うに愛は全体にむけて安らいでいる状態である。
しかし、ひとつひとつの魂が全体を形成しているために認識と感情とはひとつの解決法では無理である。
思考の放棄と感覚の鋭敏性が、感情へと働きかける。
魂が世界へ解放されたがってくるのだが、自我はそれを抑圧し続けているので葛藤して苦しむ。
愛を他者への投影から得ようとする感情の状態が問題である可能性を考える。
自分自身の胸の奥に愛があり、それは全体性へと溶け込みフュージョンするのだ。
僕はここで他者に対する感応の仕方に問題を抱える。
もちろん、それは人生全体に波及しているので、ここさえ変われば人生のステージが違ってくる。
アジズに寄れば、『気づき』と『存在』と『愛』という3つの状態が魂を全体にフュージョンさせるようだ。
このあたり、グルジェフの理論とそっくりである。
無数の雫が、永遠にそれぞれに違ったユニークなやり方でひとつの太陽を反映している。
『ヒューマンブッダ 魂の探求者へ』(アジズ・クリストフ著・中村知子、荻原智子訳)より
僕は一つの全体を反映させる魂なのだ。
そして他者、動物や、植物など全ての生命がそれぞれのユニークなやりかた(魂)で全体を反映する。
色々考えながら、煙草が切れたのでコンビニへ行って2箱購入してくる。
『ア・ラ・ポテト』と『爽ーチョコマーブル』も買ってきた。
また南くんから電話が入る(笑)
他者を感じる時の癖が問題であると考える。
理想を言えば、表層を見るのではなく、魂のキラキラと輝く状態と出会うのだ。
私は全体を存在させる者だが、また個々全ての生命が全体を存在させている神の分身なのだから。
それらの個々の全体意識がフュージョンしていくには?
しかし実際問題、個々の魂は全体意識に覚醒していないので視点が生存パターンに限定されている。
個人的な注意があちこちに引っ張られ、エゴの干渉によって純粋な感情が死んでしまっているのだ。
解像度をあげなければ!
実際に他者と出会っている自分を見てみる。
この出会っている私は人格である。
人格は様々なパターンの中で自己の感情を守ろうとする。
しかし私は本来の自己へ帰って他者とフュージョンすることが必要だ。
注意を自己へ与え私を消し去ると視点は天から全体を感じる視点になる。
感性は鋭敏になり、リアルな感覚が感情に躍動感を与える。
感情は今にも何かとフュージョンして溶け入りたいと訴えている。
しかし、ここで他者の個の意識は私の注意を引っ張る。
なぜ引っ張るのか?
他者の反映する宇宙において私も一定の役割を持っていて何か、人と人を繋ぐものが機能している。
愛が機能しないのは条件付けによって抑制されているからだ。
この条件付けを自己の内部で干渉されないようにしてしまわないといけない。
全体に飛ぶというのは解決になり得ない。
この問題にすべて掛かっているのは分かっているのだが一向に進展せず堂々巡り。
奥にあるエネルギーと出会うという発想が沸いた。
世界が実存するのは愛のみというのはそういう発想かもしれない。
全体の放射が全ての魂に届いて魂はそれぞれのユニークな生を表現している。
それらはすべてエネルギーの動きである。
根本では愛である者が表層では光の反映である過去に惑わされている。
過去が消えても、反映者である魂は消えない。
魂はリアルなエネルギーと出会うが、心の表層がエネルギーを融合させることを許していない。
なぜなら私の心は傷ついて痛いと訴え続けている。
全体へ解放すると心は安らぐが、それは他者の干渉を許さなくなる。
しかし他者の魂は私と同じ宇宙全体の意識を反映したユニークな存在である。
このエネルギーは内奥から秘められている光の反射を私の魂に表現するために注意を惹かれる。
これらの神秘的なエネルギー放射の交流を遮るのが個人的感情の問題だ。
感情を遮断するのは傷ついたからだが、しかし普通に開いても、また傷つくだろう……。
どういう内的状態が愛である状態を他者とあるリアルな瞬間に持ち込むのか?
何がフュージョンさせるのか!?
アジズに寄れば、感情は感じることであり、観察が見ることである。
視点を変更したり、観念の書き換えだけでは感じる能力が変化しないことは明白だ。
感じる対象の変化により一時的な解放感に浸ることは全体的な変化に繋がらない。
見るのではなく感じることが、心の変化に繋がっている。
しかし他者に心を開いて感じることは傷つくことである。
私は例外なくエゴの範疇に属している関係性しか結べていないからだ。
心の奥の愛は逃避的にしか解放されていない。
であるからして、ブログでこのような内容を書かなくてはいけなくなる。
実際のリアルな関係性の中で実現すべきものを仮想空間への解放だけで代替えしようとする行為は自滅的である。
私が弱い部分が関係性の弊害になる。
心が攻められない事柄に関しては開放的になれる。
この現代社会、システムに押さえこまれてしまった状況の中で、生きる人間の誇りをとりもどすには、打ちくだかれることを恐れず、ひたすら自分を純粋につき出すほかはないのである。
『自分の中に毒を持て』(岡本太郎著)より
僕は自分なりのやり方で対処するべきだと思う。
色々考えたが生命の煌めきは全ての存在から放たれている。
それと個々別々の鬩ぎ合いや闘争の世界は別の次元にあるのだ。
表層を無視して魂の奥へと注意を向けることが必要であり、その間に自分の感情は全体性の中へと安らぐ愛の状態との繋がりを維持する。
しかし、出る杭は打たれるので、世間的な対処は別な次元で行わなければならない。
思考の複雑な鬩ぎ合いや、生存競争の中で純粋な魂の次元へと常に焦点を合わせ続けるのである。
解像度をあげよう!
僕は誰かと会っていて、それは表層的な関係性である。
しかし僕は全体意識へと感情を開き表層性をスルーして相手の煌めく魂の反映を映し出そうとする。
同時に表層的な関係性では夢の中の姿勢を何かのテーマで縛ることで乗り切れないか!?
魂という概念!
やっぱり逃げると言うことしか思いつかないな……。
攻撃的関係性は無視してハートの注意を全生命の煌めきに開き続けると言うことだ。
その間、私の反映である他者が私に関係するのは表層を通り越した真実在のみである。
と、休みなのでマニアック思想全開してしまいました(笑)
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