豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

愛のありか、教えます!

2014-06-09 13:33:26 | 日記
※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。

※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。



どうも、こんにちは!

祝福された安心の人生を体験されている、愛すべき、皆様。


少年少女のように純粋な心ほど、大切なことはないと想う、豊田です。



人気ブログランキングへ←僕に与えてください、笑



昨日は、相変わらず食事以外はPCを一日中やっていました。


様々に個性的な人たちが、どのような人生を歩んでも、最終的に『満たされる』ことを望んでいる。


この外側にはない、心の祝福は、想念を胸の奥(ハート)に落とすだけであります。

想念と罪悪感は繋がっています、頭のおしゃべりと、心の不快感(怒り)です。


生きるために経験してきたことが、各人、違っているので、警戒心の反応レベルも違います。

この警戒心(恐怖)に対応するために、人格、が形成されて、自身を守っているわけですね。

生まれたときは純粋な白だった心が、いつのまにか黒くなっていく。

これは自我が自身を守る必要に駆られて、心が傷ついた経験をなくそうとした結果です。


生まれたままの赤ちゃんは本能的欲求の塊ですね。

とても純粋に、ただ、自分の生存欲求、食事や愛情を求めて、泣きます。

最初は母親、また、近しい人たちの愛に囲まれて、この欲求を満たしています。

もちろん完全には、満たせませんが、この、満たされない部分を、どのように手に入れるか。

これによって、様々な観察から、また大人達を真似て、人格が形成されていく。


欲求には様々な段階がありますが、基本的に、自分自身のことだけです。

客観的な世界、相手の立場というものは、この自身の欲求にとって、どうかで判断されます。

例えば、愛して生きるという想いですら、欲求である場合が多いです。

愛を与えることによって、愛を与えられたいという、自己安心欲求なのですね。


何が言いたいのか。


この状態は、愛、そのものである、真我が、その愛を見失って、他に愛を探し回っている状態なのです。


相手の中に、また環境の中に、至福を、満たされた状態を探している。

この愛情欲求ほどに人生を左右しているものが、果たして、あるのでしょうか。

人間は、いつまでも、愛したい、愛されたい、満たされたいと、この願望に従っているのです。

これが満たされないとき、傷つけられたときに、苦しみが憂いとなって人生を覆い、迷いが生まれている。


普通は自分の行為によって、愛情の交換を為そうと努力しています。

善いことをして、善いことが帰ってくるように、自身の行為を律するわけです。

しかし、この時点で、様々な状態に置かれている人間は、欲求(愛)が、どこにあるか、理解できていませんので、それまでの成長の過程で、うまくいった結果に起点をおいて、行為を判断していきます。

両親、兄弟姉妹、祖父母、友人、学校の仲間や、まあ宗教でも、なんでも、外側から訪れた成功体験です。

この成功体験は、褒められたり、愛されたり、笑顔が生まれたりした記憶の中のものですね。


たとえば僕なら「努力したら、物事は達成できる」とか考えます。

しかし個人的な欲求(食う、寝る、やる)や、即物的欲求とは違い、この愛情欲求は、努力では手に入らないわけです。

なぜなら、この時点で、どこに努力するかということを完全に勘違いしているからです。


人格形成段階で、即物的欲求は、この努力を通じて叶えられてきました。

物は、外側にあるので、それを手に入れるためには、自己の行為を律していけば手に入るようにできています。

しかし、愛は正反対の場所にあるのです。


なんと、なんと、愛は、自分自身の心の奥にあったのです。

さいしょっから!


この、愛は、行為を落としたときに、はじめて気が付く状態なのでありました。

他者に愛を求めても、思い通りにはならないのが、人間関係、なのです。

しかし錯覚してしまいます。

この人といるとリラックスできるという人が、いると思いますが、このリラックスできると愛が自然に湧いてくるのです。

自分自身の愛情が、心の奥から花開いてくるのです。

この自分自身から泉のように湧いてきた、愛情を、この他者に投影するわけですね。

もちろん、この安心できる人が、自分の愛情を開かせたことは、真実なのです。


しかし、この愛情が、自分自身の心から出ているものだと知らないと他者への執着が生まれてきます。


きっかけ、状況、なんらかの関係性が、永遠に続くということはありません。

常に変化していくのが、この世界の法則であって、外側にも内側にも、永遠はありません。

ですから、自分の思いですら、変化していく。

求めたとおりに、物事が展開していかないわけですから、いつか悲劇に出会うでしょう。


この悲劇が、自分の行為を破壊するほどの強さを持ったときに、最初の解放が起こります。

まったく希望がない状態が望ましいということです。

こうなる前は、なんらかの方法があるはずだと、自我から生まれた行為に夢を見る。

しかし徹底的に終わってしまったとき、世界(変化)が自分だったと気が付くのです。


この世界(変化)を維持しているのは、自分自身の意識と真我なのです。

そして愛情や、癒しや、満たされた状態は、今まで探していた、外側の状況にではなく、自分自身の心にあった。

純粋な心です。

ここです!!!!


純粋な心とは、想念のない心です。

よく『無心』と表現されていますが、これは止まった心という意味です。

心の動きが、あっち、こっちと動かなくなる。

完全に絶望したら、そうなりますよね(苦笑)

もう茫然自失です。

しかし、自我が茫然自失したときに、この本来の愛、そのものである自己に出会うのです。


行為や努力が、その発現を邪魔していたのです。


これまでもきっと愛が生まれたときは、徹底的にリラックスしたときのはずです。


努力がなかったときのことのはずなのです。

欲望がなかったときのことのはずなのです。

自我が消えている瞬間のことのはずなのです。

作為が消えている瞬間のことのはずなのです。


このあとで記憶が、それを対象化して「ああ、楽しかった、嬉しい」と自我が想っている。

この自我が想っているのが、罠です。

この「ああ、楽しかった、嬉しい」というのは、記憶が新しい執着を作った瞬間です。


本当は、自分が、その状況、作為を手放した状況には、何もなかったはずなのです。

なんらかのきっかけが、頭のおしゃべりを止める働きを自然としてくれたのです。

この、頭のおしゃべりを止める働きが、もたらされた状況は変化していきます。

自分の状況が、複雑に絡み合って、その瞬間が生まれたわけですが、これは一時的なものだった。

だらら、追い求めても、再び、一時的に満足して、新しく追い求めなくてはならなくなる。


ここからが表現が難しい部分なのですが、この状況を、どうすれば良いのかという問題です。

僕の表現が、まだ洗練されていないので、伝わりづらいのかもしれません。


そこで何パターンか、書いてみたいと思います。


今ここで生ききる事が、この想念を払い落としてしまいます。

目の前にある、この、現実、そのものが、変化していく土台が自分自身なのです。

この現実には自分自身の身体も、心も、言葉も含まれている。

この、とにかく、ここにある、現実自体を生ききっていることで、想念は滅します。

このとき、心だけが不動なのですが、この不動の心というのは、心を止めようとしても止まりません。

この心の動きから離れることによって、心が自然と止まってしまっている状態になる。

何処に離れるかと言うと、自分自身が、今、ここで、やっている、現実に離れていくのです。

こうすると現実が自分に躍り込んできているわけですが、ここで自分を持っていると、失敗です。

ただ、無心に一体となって、行為の中に没頭していると、清浄になります。

つまり純粋な心でいられることになり、解放が、作為なしに起こっていることになるわけです。


さて、しかし、このように表現すると、努力してしまいます。


つまり、目の前の現実を生ききろうと『自我』が作為的にコントロールを始めてしまうのです。

こうなってしまうと、自我を保ったまま、一体化している夢を見るという、大変困った状況になります。

この『自我』というやつは『記憶』を利用して、なんでも『対象化』するのが大得意なのです。

真我の体験ですら『対象化』して、それが、どこかにあると錯覚させる。

一度でも体験してしまうと、それが、自分自身から離れて、努力の先にあると勘違いさせるのです。

これが、魔境と言われている状態です。


最初の解放が起こったとき、即座に、自我は、これを自分なりの方法で『記憶』しているのです!

そうしておいて、さあ、あの時の『至福』は、どのようにもたらされたかと分析を始め、そこに向かう努力を始めるのです、笑


こう考えてみると、今を生ききるのは、無努力でいることと表現した方が伝わるのではないかと想うわけです。

この無努力でいることは、今を生ききる事になる。

想念と罪悪感が払拭された状態ですから、欲求から、ああだ、こうだと考えていることがない状態ですよ。


しかし、こう書くと、今度は無努力でいようと、努力するということが起こってしまうのです!!!!(爆笑)


生ききろう、無努力でいよう、リラックスしよう、自分に帰ろうとしている、その人!

あなた自身だと錯覚させられている『自我』そのものが、落ちていく必要があるのですが、これは行為を離れることなのです。


では、今度は、心の奥に帰ることだと表現してみたら、どうかと想うわけですが、、、

延々とループするように、どんなことでも、自我は『記憶』にあてはめて、これを自分の食べ物にしてしまうのです。

そこから旅が始まり、努力が始まり、至福は破壊されます。


この、ことの判断基準があります。

『幸せであること、幸せになること』ですね。

もしも、自我が心の奥に落ちて、無心で、無努力でいられたら、

つまり純粋な心であったら、絶対に『至福』『幸せ』が心の奥から湧いてきます。


しかし、今度は自我は、またこれを『対象化』『記憶』して、感情に投影し、嬉しい、楽しい、大好きを欲求して努力を始めるのです。


なんと難しいことでしょう。


身、口、心の行為を見守って、これを離れていることです。

無常を観じて、この無常を受け入れていることです。

心を不動にして、ただあるがままに受容することです。

無為自然と想って、私はいないと黙想していることです。

静かにしていることです。

一つに止まることです。



愛のありかは、あなたのハートですよ。



まあ、今日も一日、生ききりましょう♪



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