豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

鬱だぜベイべーw

2016-03-18 15:52:38 | 読者に人気の記事
そろそろ、更新いたしますw

えーっと、職場と家の往復以外に、ここのところ動いたのは、南くんとの飲みですね。

なんか、愛されすぎ、笑

あとは、千鶴さんたちのご機嫌伺いに、彼女の実家のある勢和多気へ。

なんか、嫌われすぎw

で、まったく帰ってくる様子が、ありません。

傷つきすぎた。

まあ、お釈迦様なら、望みを捨てて、煩悩の矢を抜きなさいとか、あるだろうかww

えーっと、あと、ファミリーレストランで友人と食事しながら会話しました。

まあ、いろんなひとが、豊田くんも、ついに、来るべき時が来たのだなあと思っているようだw


あんまり鬱なので、原始仏典に頼っている。

欲望がとか、認識作用がとか、書かれているけど、本来清浄な、その滅したものは、静けさ、沈黙のことだ。

でも、このような経典を読んで、大騒ぎする煩悩もあるw

執着は、無常に変せんする外界と内界に自己同一化していることである。

それが、頭と体だ。

この不二の世界から、出れば、そこが不動の滅であるが、そこは、認識不可能なのである。

あらゆる考え、あらゆる感覚の世界は、あるがままにあるのであり、それは、自然である。

これは、認識を通して気づくわけではない。

スッカラカンになれば、そうなのである。

スッカラカンは、わがものであるとか、こうであってほしいという思いが抜ける、相手にならなくなることである。

心の波が、静まろうと、騒ごうと、その先にある滅の、つまり無心の、そこは、安心である。

これは、難しくない。

ただのテクニックの問題である。

体から始めないといけない。

身体、頭、を見て、そして見ている、それを、つまりこれは内面のことだが、その内面を超えるためにら、目の前を利用するのである。

全部としてある。

その外界と内界の逆転、そのときに、それらの諸活動、の、いちいちから抜けている。

この力は、見る、気をつけている、そのようなものだが、それは、認識されない。

不可視のパワーが、この、向こう側の不動の滅へ運んでいくのだが、そこで、必ず、わかる。

て、また、意味不に書いてしまった。

まあ、嫁が出てって鬱なだけだろうなあ、笑

ほんでわ!