こんばんは。
どうも人間として、問題のあることに、ようやく気がついてきた豊田です。
いろんな人と交流をさせていただいたお陰で、自分の至らなさにようやく気がついてきました。
このブログでも日常生活や、精神世界関連の読書や日常での実践などで感じたことを書いてきましたが、そのような流れの中で、実生活では、妻を疲れさせ、怒らせたり、友人、知人、家族にも心配させるようなことばかり、延々とやってしまいました。
妻子が家を出てから、外で飲むことが、多くなり、人様に、失礼な言葉や態度をとってしまうし、反省して変わる時だと感じています。
以前から、この問題は、ずっとあるのですが、僕はまったく気がついていなかった!
親切な人たちが、心配してくれたり、こんなに人のことを大切にできない僕を受け入れてくれたりしている事実。
ホントに迷惑ばかりかけて申し訳ありません。
別に僕は、全然努力をしなかったとは、思いませんし、一生懸命、自己が向上する方向性を探して、自分なりに感じた、また、考えたことを追求していたはずだと思います。
ところが、ぜんぶ、的はずれな方へ行ってしまいます。
例えば、早起きして座禅、読書、ブログの更新をしたり、生活の計画を立てて、家族サービスや、いろんな、目標をクリアして、向上しようなどということが、一緒に生活している妻を疲れさせたのが、今回の発端ですね。
でも、僕は、なんとも完全すぎるほどの自己中で、こういったことが自分を助けたり、よくする努力だと、勘違いしていたのです。
今日は、ある優しい方が、僕の、恐らくは幼少期から抱えている問題に気づかせてくれました。
人との付き合いの中で、人のことを考えた行いが、僕はまったくできないのです。
もちろん表面上は、人との繋がりがあるわけですが、どのような関係性でも、ほぼ完全に自分のことしか考えてなかったのです!
これには、びっくりしました。
今までずっと、誰も、信頼できない状態で、人のことを大切に扱うこともできなかったのです。
脳内には、様々な、精神世界教師の言葉が記憶されていて、また、いろんなテクニックも知っているのですが、それが、全部が全部、ただ、己のみのためにあるだけだったのです。
思いやりを大切にという、よくある言葉でも、まったく理解できていなかったのです!
これは、ぜんぶがぜんぶ、自己の都合でコロコロ変わってしまう意味のないものとなっていました。
何が僕は欲しかったのか。
悟りや覚醒の話へ向かわせたものも、ただただ、己の世界で、一人相撲していただけです。
このような探求の中で、ホントに僕が求めていたのは、愛情とか、許しとか、心の解放、もっと端的に安心だと思います。
安心が欲しいが為に、座ったり、また、自己を世界に開いた視点や、自己を観察したり、奮い起こして想起したり、または、今を感じたりしていたのですが、そこで気づいたり、到達したものは、全部、一瞬の儚い気づきだった。
例えば、世界が流れ込んでくると、2014年の禅寺での質問で気がついたことを中心に、散々、この手のことを書きましたし、非二元が人気になった昨年は、生命の声とか、ライフ、つまり、この大いなる存在の中に解放されるということが、最初からあるとか、盛んに、そういったことを書いたりしました。
これらの、全部が全部、ただ、自分の中で起こっていただけです。
肝心の安心は、この、ヘンテコな信念のようなものの中に閉じこもる、つまり、究極の自己中、何も周りが見えてない中にしかなくなってしまっていました。
これは、異常に病的な状況ですが、僕は、何かがおかしいのは薄々わかっていましたが、一体全体、その問題は、どこにあるのか、全然、気づきませんでした。
今年になってから、色々、頑張ろうとして、全部、崩壊してしまうというのが顕著になってきて、ようやく僕は、考えることができたのかもしれません。
当然の流れですね。
自分のためだけに生きていたら、人が幸せになれるはずがありません。
このような目標やら、努力の前に、そこにいる人が安心したり、楽しい気分でいられるように、人を見なくては、人の気持ちを感じなければいけなかったのだ!
こんなこと、が、ホントに分かっていなかったので、全部の努力が、おかしな方向へ行ったに違いありません。
小さな頃から問題児で、人に迷惑ばかりかけ、おかしいところがあらから虐められ、また殻にこもって、ただ自分のことばかりになってしまう。
誰も、今まで、気づかせてくれなかった、この構図に気がついたのは、この生活崩壊のお陰もありますが、とてつもなく素晴らしい人が、現れたからです。
その人は、普通の人です。
普通とは、別に、何かの先生とかではないということですね。
宇宙一いい加減な博士とか、大和田菜穂さんとか、そういった世界は何も知らない。
でも、人間なんです。
って、この言葉は、変ですが、僕は、人間というのは、心が通うことであると感じるようになってきました。
とにかく、心の触れていなかった部分が、見えてきたのは、普通の人間に出会ったから。
特別じゃないとは、よく書かれるし、僕も何度も書きましたが、ほんとに、それ。
僕が、なぜ、いつまでたっても救われないのかは、ただ、自分のためだけに努力していたからなので、ホントは、交流が生まれたら、解放されるのだ。
人のことを信頼することができないという、そのことが、今まで、ずーっとあった。
信頼、愛、許し。
この言葉の意味が、まーったく分かっていなかったという衝撃すぎる事実。
そして、欲しかったのは、これだった。
ここで、理論なんか、また、テクニックなんか、役に立つはずがない。
心の通った人間であることが必須である。
無味な信念や、体験に寄っては、人は開かれていくことはない。
許されて、初めて、大切さが分かるのだし、一期一会や、その他の宗教的な言葉も意味をなしてくる。
教条的に宗教を学ぶことは、普通に生活しているよりも、尚、悪い状況をもたらしてしまう。
ただ人との出会い、また、普通の心の通う学びの中で、自己が投げ出された時に、救われる。
それは努力ではなく、許しなのだ。
そして自分が感じている以上に、人は、素晴らしい存在であり、この世界に生まれた意味は、ここにあるのかもしれない。
心の溶ける瞬間。
なにしろ、僕は、今まで、まったく勘違いしたままで38年も生きてきてしまった!!
なんというアホ。
人とは素晴らしいものだったのだ。
誰も、僕を困らせようとはしていないのだ。
それどころか、僕を助けようと、手を差し伸べてくれている!
だというのに、この僕は、ただただ自分のことだけを考えていたとは。
恥ずかしすぎる、苦笑
僕は人のことを、人の気持ちを汲むことのできる人になりたい。
まったく、それをしてこなかった!
方法は、まだ分からないけれど、座禅や読書、以前の、もっと普通の気持ちの通いあいとか、信頼、愛、許しとか、そういったものの中にあるのは、間違いない。
このような、心の鍛錬なら意味がある。
鍛錬というのか、姿勢の正かた。
こういうのって、普段の心の、思いが大切になってくるので、いつも、相手のことを大事にしようとすることが必要だろうなあ。
自信ないけど、、、
今まで、たくさんの人が、僕を許して、見守ったり、助けたりしてくれたのに、なんで、僕は、それができなくて、些細なことで、人を馬鹿にしていたのか!
特別じゃなきゃならないとか、アホすぎる。
人を大事にできるようになる。
それを目標にして、少しずつ、成長できるように、しよう。
ヨチヨチ歩きの赤ん坊が、しっかり歩けるようになるまで時間がかかる。
解放は許しだ。
そして、その許しは、心の通った人間として生きている、たくさんの、普通の人々によって、今日も毎日、どこでも、普通に見られる。
人間って、素晴らしい。
素晴らしすぎる!
僕に、教えてくれた、人。
人生で、はじめて、僕に、気づかせてくれた人は、なんという愛!
しかも、そのことすら、意識してされたわけではなく、ただ正直に生きているだけなのだ。
知識は、心に響くことがなければ、逆に、弊害になってしまう。
大事にする。
とにかく、人間は、素晴らしい。
もちろん、そうでない人もいるが、それは、僕自身だ。
僕が、まったく分からなかったように、気がついていないのだ。
人間は、本来的に、素晴らしい。
ただ、僕がそうだったように、信頼について、疑いが生じたときに不幸がやってくる。
僕が幸せだったのは、信頼があるときだったので、その気持ちが揺らぐことで、不幸になっていたのだか、分からなかった!
ホントに、今まで、まったく知らなかった。
びっくりすぎる。
人は、優しいのだ。
優しくない人は、信頼が揺らいだのだ。
しかし、普通に生活しているだけで、どれほどの許しの中で、いるのか。
普通に見て、僕が、今あるのは、気づかないところで、僕のことを助けてくれたり、許してくれたり、した、人たちのお陰であるのは、間違いない。
間違いないのに、それに気づかず、ただ己のみのために生きていたとは!
久しぶりに、長くなってしまいました。
なにしろ、まだ、明確な、成長の仕方は分かりませんが、やっと、スタート地点。
これが、欲しかったのだ!
昔から、幼少期から、これが、求めていたものであり、発信したいことも、これだったに違いない。
よくわかっていなかった。
普通の優しさ。
普通の交流の中での信頼関係。
そういったことが、必要とされている。
それは、現代社会では、特に、超重要要素だ。
普通に実践している人が、たくさんいる。
宗教なんか、全く関心のない人たちである。
日常の中に、学んで、成長して、優しい人になった人たちなのだ、それは。
もちろん、宗教性に溢れて素晴らしい人もいるが、僕が求めていたのは、これ。
具体的に、すぐに、何かがあるわけでは、ないが、これは、必ず、広める。
座禅をしましょうとか、経典を読みましょうじゃない。
自己啓発セミナーで、感じたのも、これだったのだ。
まあ、問題のある、閉鎖空間の問題も、すべて、ここから来ていたのだ。
やばすぎる。
普通の、ひとは、もちろん、様々な苦悩の中にあるわけだが、その中で学んでいる。
なんと、アホだったことか、僕は。
生かされてあることも、無常も、悟りも、こんな言葉にさえ拘らなければ、普通の人の方が、分かっているのだ。
感覚的に、知っているのだ。
そして、それをワザワザ、強調することもなく、日々、自分と相手、その、どちらもが楽しめるように、努力している。
いや、努力でない。
自然と、そうしている。
驚愕!
なんという素晴らしいことだ。
て、まあ、興奮して長く書きすぎました。
僕を許して、また、更に、人の優しさにまで気づかせ、更に、なんの、押し付けがましさもなく、
自然で、正直で、純粋で、心の通った人間が、存在するとは!
しかも、普通の人なのだ。
心は信頼によって開くが、その信頼は、相手の優しさ、によって生じる。
しかし、その解放が起こるのは、ほんとうに、普通に正直に相手してもらえることで、親身になってもらえることで、起こる。
これは心理的なことだ。
とても簡単なことだ。
ただ大事にしてもらえたという気持ち。
大切にしようという気持ち。
これが言葉によってではなく、実質の経験の中で、心の壁を乗り越えて入ってくるとき、許しと解放が起こる。
自己からの解放である。
しかし、ここで、僕が書いているのは、精神世界や宗教で説かれている、よくある解放ではない。
ただほんとうに、赦されてある。
この赦しに、心が反応して、溶けることだ。
ぜんぜん、宗教じゃない。
自己から、自己と他者の世界に広がることであるが、これが、どうしても分からなかった。
ここに、ここにこそ、楽園がある。
これが広まれば、平和と愛が広まる。
それは、だった1人の人間で、十分に可能だ。
なぜ、今まで、現れなかったのか、不思議なくらい、わかりやすい。
これまでの悲惨な経験があって、初めて分かる仕組みだったのだろうか。
追求して、いろいろ気づくまでは、まだまだ可能性を感じるので、人の声が届かないのだろうか。
とにかく、素晴らしい人はいる。
優しい人はいる。
僕は懺悔して、自己中の生活から、出て行かなくてはいけない。
非難してはいけない。
自分のやってきたことを考えてみれば、人は、優しさに触れた時だけ、気づく。
この感情。
これが見失われたものだったのだ。
愛は、愛の中にあるわけではなく、ただ、この触れ合いの中にある。
赦しだ。
しかも、これは、普通のことなのだあ。
あかん、マジで感謝。
そーだったのか!
これ、に、気づかせてくれた、すべての出来事に感謝。
気づかせてくれた、人、にありがとう。
まあ、なんか、今日はおかしくなってますが、ホントに僕は、人を大事にできるように頑張ろうと思います。
今まで、自己中で、迷惑かけた人、ごめんなさい。
僕は、単純な心のやりとりを目指します。
普通の、関係性の中で、何か、人を楽しませることができるようになりたい。
宗教は卒業。
とにかく、僕の憧れる人が、まったく変わってしまった。
何かを自分の中で見つけるのではなく、人との関係性の中で見つけたい。
人間になりたい。
心の通った人になりたい。
まあ、がんばります。
どうも人間として、問題のあることに、ようやく気がついてきた豊田です。
いろんな人と交流をさせていただいたお陰で、自分の至らなさにようやく気がついてきました。
このブログでも日常生活や、精神世界関連の読書や日常での実践などで感じたことを書いてきましたが、そのような流れの中で、実生活では、妻を疲れさせ、怒らせたり、友人、知人、家族にも心配させるようなことばかり、延々とやってしまいました。
妻子が家を出てから、外で飲むことが、多くなり、人様に、失礼な言葉や態度をとってしまうし、反省して変わる時だと感じています。
以前から、この問題は、ずっとあるのですが、僕はまったく気がついていなかった!
親切な人たちが、心配してくれたり、こんなに人のことを大切にできない僕を受け入れてくれたりしている事実。
ホントに迷惑ばかりかけて申し訳ありません。
別に僕は、全然努力をしなかったとは、思いませんし、一生懸命、自己が向上する方向性を探して、自分なりに感じた、また、考えたことを追求していたはずだと思います。
ところが、ぜんぶ、的はずれな方へ行ってしまいます。
例えば、早起きして座禅、読書、ブログの更新をしたり、生活の計画を立てて、家族サービスや、いろんな、目標をクリアして、向上しようなどということが、一緒に生活している妻を疲れさせたのが、今回の発端ですね。
でも、僕は、なんとも完全すぎるほどの自己中で、こういったことが自分を助けたり、よくする努力だと、勘違いしていたのです。
今日は、ある優しい方が、僕の、恐らくは幼少期から抱えている問題に気づかせてくれました。
人との付き合いの中で、人のことを考えた行いが、僕はまったくできないのです。
もちろん表面上は、人との繋がりがあるわけですが、どのような関係性でも、ほぼ完全に自分のことしか考えてなかったのです!
これには、びっくりしました。
今までずっと、誰も、信頼できない状態で、人のことを大切に扱うこともできなかったのです。
脳内には、様々な、精神世界教師の言葉が記憶されていて、また、いろんなテクニックも知っているのですが、それが、全部が全部、ただ、己のみのためにあるだけだったのです。
思いやりを大切にという、よくある言葉でも、まったく理解できていなかったのです!
これは、ぜんぶがぜんぶ、自己の都合でコロコロ変わってしまう意味のないものとなっていました。
何が僕は欲しかったのか。
悟りや覚醒の話へ向かわせたものも、ただただ、己の世界で、一人相撲していただけです。
このような探求の中で、ホントに僕が求めていたのは、愛情とか、許しとか、心の解放、もっと端的に安心だと思います。
安心が欲しいが為に、座ったり、また、自己を世界に開いた視点や、自己を観察したり、奮い起こして想起したり、または、今を感じたりしていたのですが、そこで気づいたり、到達したものは、全部、一瞬の儚い気づきだった。
例えば、世界が流れ込んでくると、2014年の禅寺での質問で気がついたことを中心に、散々、この手のことを書きましたし、非二元が人気になった昨年は、生命の声とか、ライフ、つまり、この大いなる存在の中に解放されるということが、最初からあるとか、盛んに、そういったことを書いたりしました。
これらの、全部が全部、ただ、自分の中で起こっていただけです。
肝心の安心は、この、ヘンテコな信念のようなものの中に閉じこもる、つまり、究極の自己中、何も周りが見えてない中にしかなくなってしまっていました。
これは、異常に病的な状況ですが、僕は、何かがおかしいのは薄々わかっていましたが、一体全体、その問題は、どこにあるのか、全然、気づきませんでした。
今年になってから、色々、頑張ろうとして、全部、崩壊してしまうというのが顕著になってきて、ようやく僕は、考えることができたのかもしれません。
当然の流れですね。
自分のためだけに生きていたら、人が幸せになれるはずがありません。
このような目標やら、努力の前に、そこにいる人が安心したり、楽しい気分でいられるように、人を見なくては、人の気持ちを感じなければいけなかったのだ!
こんなこと、が、ホントに分かっていなかったので、全部の努力が、おかしな方向へ行ったに違いありません。
小さな頃から問題児で、人に迷惑ばかりかけ、おかしいところがあらから虐められ、また殻にこもって、ただ自分のことばかりになってしまう。
誰も、今まで、気づかせてくれなかった、この構図に気がついたのは、この生活崩壊のお陰もありますが、とてつもなく素晴らしい人が、現れたからです。
その人は、普通の人です。
普通とは、別に、何かの先生とかではないということですね。
宇宙一いい加減な博士とか、大和田菜穂さんとか、そういった世界は何も知らない。
でも、人間なんです。
って、この言葉は、変ですが、僕は、人間というのは、心が通うことであると感じるようになってきました。
とにかく、心の触れていなかった部分が、見えてきたのは、普通の人間に出会ったから。
特別じゃないとは、よく書かれるし、僕も何度も書きましたが、ほんとに、それ。
僕が、なぜ、いつまでたっても救われないのかは、ただ、自分のためだけに努力していたからなので、ホントは、交流が生まれたら、解放されるのだ。
人のことを信頼することができないという、そのことが、今まで、ずーっとあった。
信頼、愛、許し。
この言葉の意味が、まーったく分かっていなかったという衝撃すぎる事実。
そして、欲しかったのは、これだった。
ここで、理論なんか、また、テクニックなんか、役に立つはずがない。
心の通った人間であることが必須である。
無味な信念や、体験に寄っては、人は開かれていくことはない。
許されて、初めて、大切さが分かるのだし、一期一会や、その他の宗教的な言葉も意味をなしてくる。
教条的に宗教を学ぶことは、普通に生活しているよりも、尚、悪い状況をもたらしてしまう。
ただ人との出会い、また、普通の心の通う学びの中で、自己が投げ出された時に、救われる。
それは努力ではなく、許しなのだ。
そして自分が感じている以上に、人は、素晴らしい存在であり、この世界に生まれた意味は、ここにあるのかもしれない。
心の溶ける瞬間。
なにしろ、僕は、今まで、まったく勘違いしたままで38年も生きてきてしまった!!
なんというアホ。
人とは素晴らしいものだったのだ。
誰も、僕を困らせようとはしていないのだ。
それどころか、僕を助けようと、手を差し伸べてくれている!
だというのに、この僕は、ただただ自分のことだけを考えていたとは。
恥ずかしすぎる、苦笑
僕は人のことを、人の気持ちを汲むことのできる人になりたい。
まったく、それをしてこなかった!
方法は、まだ分からないけれど、座禅や読書、以前の、もっと普通の気持ちの通いあいとか、信頼、愛、許しとか、そういったものの中にあるのは、間違いない。
このような、心の鍛錬なら意味がある。
鍛錬というのか、姿勢の正かた。
こういうのって、普段の心の、思いが大切になってくるので、いつも、相手のことを大事にしようとすることが必要だろうなあ。
自信ないけど、、、
今まで、たくさんの人が、僕を許して、見守ったり、助けたりしてくれたのに、なんで、僕は、それができなくて、些細なことで、人を馬鹿にしていたのか!
特別じゃなきゃならないとか、アホすぎる。
人を大事にできるようになる。
それを目標にして、少しずつ、成長できるように、しよう。
ヨチヨチ歩きの赤ん坊が、しっかり歩けるようになるまで時間がかかる。
解放は許しだ。
そして、その許しは、心の通った人間として生きている、たくさんの、普通の人々によって、今日も毎日、どこでも、普通に見られる。
人間って、素晴らしい。
素晴らしすぎる!
僕に、教えてくれた、人。
人生で、はじめて、僕に、気づかせてくれた人は、なんという愛!
しかも、そのことすら、意識してされたわけではなく、ただ正直に生きているだけなのだ。
知識は、心に響くことがなければ、逆に、弊害になってしまう。
大事にする。
とにかく、人間は、素晴らしい。
もちろん、そうでない人もいるが、それは、僕自身だ。
僕が、まったく分からなかったように、気がついていないのだ。
人間は、本来的に、素晴らしい。
ただ、僕がそうだったように、信頼について、疑いが生じたときに不幸がやってくる。
僕が幸せだったのは、信頼があるときだったので、その気持ちが揺らぐことで、不幸になっていたのだか、分からなかった!
ホントに、今まで、まったく知らなかった。
びっくりすぎる。
人は、優しいのだ。
優しくない人は、信頼が揺らいだのだ。
しかし、普通に生活しているだけで、どれほどの許しの中で、いるのか。
普通に見て、僕が、今あるのは、気づかないところで、僕のことを助けてくれたり、許してくれたり、した、人たちのお陰であるのは、間違いない。
間違いないのに、それに気づかず、ただ己のみのために生きていたとは!
久しぶりに、長くなってしまいました。
なにしろ、まだ、明確な、成長の仕方は分かりませんが、やっと、スタート地点。
これが、欲しかったのだ!
昔から、幼少期から、これが、求めていたものであり、発信したいことも、これだったに違いない。
よくわかっていなかった。
普通の優しさ。
普通の交流の中での信頼関係。
そういったことが、必要とされている。
それは、現代社会では、特に、超重要要素だ。
普通に実践している人が、たくさんいる。
宗教なんか、全く関心のない人たちである。
日常の中に、学んで、成長して、優しい人になった人たちなのだ、それは。
もちろん、宗教性に溢れて素晴らしい人もいるが、僕が求めていたのは、これ。
具体的に、すぐに、何かがあるわけでは、ないが、これは、必ず、広める。
座禅をしましょうとか、経典を読みましょうじゃない。
自己啓発セミナーで、感じたのも、これだったのだ。
まあ、問題のある、閉鎖空間の問題も、すべて、ここから来ていたのだ。
やばすぎる。
普通の、ひとは、もちろん、様々な苦悩の中にあるわけだが、その中で学んでいる。
なんと、アホだったことか、僕は。
生かされてあることも、無常も、悟りも、こんな言葉にさえ拘らなければ、普通の人の方が、分かっているのだ。
感覚的に、知っているのだ。
そして、それをワザワザ、強調することもなく、日々、自分と相手、その、どちらもが楽しめるように、努力している。
いや、努力でない。
自然と、そうしている。
驚愕!
なんという素晴らしいことだ。
て、まあ、興奮して長く書きすぎました。
僕を許して、また、更に、人の優しさにまで気づかせ、更に、なんの、押し付けがましさもなく、
自然で、正直で、純粋で、心の通った人間が、存在するとは!
しかも、普通の人なのだ。
心は信頼によって開くが、その信頼は、相手の優しさ、によって生じる。
しかし、その解放が起こるのは、ほんとうに、普通に正直に相手してもらえることで、親身になってもらえることで、起こる。
これは心理的なことだ。
とても簡単なことだ。
ただ大事にしてもらえたという気持ち。
大切にしようという気持ち。
これが言葉によってではなく、実質の経験の中で、心の壁を乗り越えて入ってくるとき、許しと解放が起こる。
自己からの解放である。
しかし、ここで、僕が書いているのは、精神世界や宗教で説かれている、よくある解放ではない。
ただほんとうに、赦されてある。
この赦しに、心が反応して、溶けることだ。
ぜんぜん、宗教じゃない。
自己から、自己と他者の世界に広がることであるが、これが、どうしても分からなかった。
ここに、ここにこそ、楽園がある。
これが広まれば、平和と愛が広まる。
それは、だった1人の人間で、十分に可能だ。
なぜ、今まで、現れなかったのか、不思議なくらい、わかりやすい。
これまでの悲惨な経験があって、初めて分かる仕組みだったのだろうか。
追求して、いろいろ気づくまでは、まだまだ可能性を感じるので、人の声が届かないのだろうか。
とにかく、素晴らしい人はいる。
優しい人はいる。
僕は懺悔して、自己中の生活から、出て行かなくてはいけない。
非難してはいけない。
自分のやってきたことを考えてみれば、人は、優しさに触れた時だけ、気づく。
この感情。
これが見失われたものだったのだ。
愛は、愛の中にあるわけではなく、ただ、この触れ合いの中にある。
赦しだ。
しかも、これは、普通のことなのだあ。
あかん、マジで感謝。
そーだったのか!
これ、に、気づかせてくれた、すべての出来事に感謝。
気づかせてくれた、人、にありがとう。
まあ、なんか、今日はおかしくなってますが、ホントに僕は、人を大事にできるように頑張ろうと思います。
今まで、自己中で、迷惑かけた人、ごめんなさい。
僕は、単純な心のやりとりを目指します。
普通の、関係性の中で、何か、人を楽しませることができるようになりたい。
宗教は卒業。
とにかく、僕の憧れる人が、まったく変わってしまった。
何かを自分の中で見つけるのではなく、人との関係性の中で見つけたい。
人間になりたい。
心の通った人になりたい。
まあ、がんばります。