豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

自分だけなんて虚しすぎる

2016-05-24 15:29:23 | 読者に人気の記事
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

肉体と精神と魂の融合体であるはずの、皆様。

本日は、いつぶりか忘れ去るほど久しぶりにPCから更新です。

母親の家の居間にあるPCを借りているのだけれど、この部屋の時計の秒針の刻み音が異様だ。

ガガガガガガガガガと連続音。

普通、カチカチ行くのだが、やたら違うので気にかかる。

相変わらず道路を走っていく車の音がする。



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さっき食べた食事で、胃がもたれているのを感じる。

母親が「よいしょ」と言いながら冷蔵庫を開けている。

肩とかわき腹が痛い。

「ちょっとゴミほり場の掃除に行ってくるで弁当ここ置いたで」と言って母親は出て行った。

顔が汗でべたついていて気持ち悪い。

体全体がだるくて、気分も、非常に重たく、活発性に欠ける。

鳥の鳴き声が2種類している、スズメとカラス。

外から水道の蛇口をひねって、水が流れ落ちる音がしてくる。


さて本日は13時に目覚めました。

ここのところ精神的にも肉体的にも追い詰められていて、十分な睡眠がとれずに、何度も目が覚めるのだが、13時まで動かないで居ようと、布団の中で目を閉じてじっとしていた。

起きてからは洗面をします。

まあ、これも、仕事前にしかしてなかったのを起きてすぐに、以前のようにします。

疲れ切った顔を鏡で見ながら、虚無感に浸る。

洗面を終えると、これまた、全然継続されなくなった座禅40分をしました。

両足を組むのも片足を載せるのも難しそうなので、片足をくるぶし辺りで載せてから姿勢を調整する。

俯せになって、背中を伸ばしてお尻を上げて、まっすぐ下になる角度に調整しないと背筋は伸びない。

そして左右のバランスをとるために体をひねって確かめる。

ここから、相当に意識していないと、実際に座っている時間は妄想だらけになる。

まあ、それは、それでも、いいのだが……。

まあ、このハートの奥に溜まっている毒素が、ただ座っているだけで、少し抜けていく。

自我の関与が効かないくらいまでの長さが無いと厳しい。


座禅を終えると読書ですね。

でも、ここで、コーヒーを入れて煙草を吸います。

本は『注目すべき人々との出会い』

付録にある「物質的問題について」だったかな、の、章を読んだ。

ここでは発想や行動力に突出しているグルジェフさんの姿が見えますね。

小さいころから腕に技術をつけて、次々に、いろいろな手仕事を覚えていたそうで、そのおかげで、仕事そのものよりも、それを覚える過程に楽しみを見出すようになり、それが大人になってから、様々な経済的活動に役立ったのだそうです。

まあ、中々、マネは難しそうだw


久しぶりに本を読んだ気がするが、やっぱり落ち着く人のは、というのか好きな本はいいなあ。


読書を終えると母親の家で食事。

置手紙があって体操に行っているそうなので、冷蔵庫から刺身とサラダ、豆腐を出してきてご飯を食べる。

ちょっと食べすぎたので、疲れてしまった、笑


で、一旦、家へ戻って煙草を吸ってからブログの更新へ来たのでした。



さて、まあ、この今年の2月からの爆裂興奮した状態から導き出された現状がとてつもなく悲惨なわけですが、自分の気持ちとしては割と正直に、思うままにやっていたと思います。

結果がどうあれ、僕は、僕の気持ちでいたので、それで、この結末が起こったのは、仕方がない。

まあ、こんな曖昧な書き方をしても読者の方には、何が起こったのか皆目不明でしょうが、最近の数ヶ月で、立て続けに起こってきたことは、僕の精神を破壊するには十分な威力を保持していたのです。

ここで肝心なところは『心のそこで』という記事で書いた、あの、そこの部分が圧倒的に僕の深いところに触れていると言う事なのです。

これは、例え、その当事者たちとの関係性の中では嘘だったとしても、僕にとっては紛れもない真実なのです。

ここの、背中の上部の両肩の上にある、何とも名付けようのない傷が、ある人によって消されてしまったのですが、それは、この19年間、誰一人として触れることのなかった、場所で、僕個人すら、そんなものが、まだ、残っていたとは仰天するくらいのことだったのですね。

それで、僕は、あまりの嬉しさに、虚妄に陥って、暴走してしまったのですが、もちろん、この暴走具合は、過去の経験から、少しはマシだったのかもしれませんが、僕の気持ち的には、過去最高級だっただろうと思います。

行為としては過去に、これ以上のアホを何度もしていますが、気持ちの面では、凄まじいエネルギーに満ちていたのでした。


それで、まあ、この信頼の上に乗るか疑念の上に乗るかという単純な構造に、すべての問題が凝縮されてきました。

もちろん、すべての人を無条件に信頼するんだなんてことは、アホの考えることですがwwww


そういうことではなくて、信頼性を生きるには、どのような存在の変性が必要なのかというのが、個人的な課題となって、浮かび上がってきたのだろうと思っているのです。


凄まじく個人的になっていますが、個人的な課題が大きすぎて、そうならざるを得ないのです。

まあ、ここまで読んで下さった方が、どれくらいいるのか、分かりませんが、今の僕の現状は、ほぼすべての領域で混乱していて、しかも、とてつもないほどに失われているのです。

これまでに信じてきたものが、あるのですが、そして、それは間違っていないのですが、その在り方と、信頼性を生きるという僕の魂の奥底にある願望が葛藤を起こして、その葛藤が凄まじすぎるので、精神が病んでしまっているのだが、落ちる時と元気な時の落差が半端ない。


しかしゼロになったのであれば、これからは、何事も自己のひとりの世界になるので、大きなことを書いても、その矛先は、僕個人にしか却ってこないという安心感ができたことは、少しはマシなのかもしれない。



さて、もう少し一般的な話に進めて、宗教と一般の乖離現象という、もうひとつの興味に話を移そう。

宗教的理解とは慈愛に尽きるのですが、この慈愛を生きるというのは、自己の虚栄心やプライドを無くしてしまうことです。

一般的には、しかし、この生活の中で貴重とされているものは、この虚栄心やプライドの方で、それが無いものは、非難されてしかるべしというような態度さえ取られます。

生活のためにお金を稼ぐのはもちろん必要なことですが、それだけではなく、この虚栄心やプライドも大切になっている気がします。

スピリチュアルや宗教のブログなんかを読んでも、この部分をたくさんもっている自己顕示欲の強い人が多くいますよね。

もちろんパッと見では分かりませんが、このように、素晴らしい出来事があったと、何やら体験を語るのですが、その体験が実際の一般的な生活において何の役にも立たないどころか、自己と他者のコミュニケーション、つまり慈愛の働きを阻害するものすらあるほどです。

それが『特別性』なのです。

特別性を煽るものは、非常に危険で、その穴倉の中で他者と世界との距離を作って、実際には、心は完全に閉ざされます。

それは非常に安心できるところですが、そこにいると、他者とは理解し合えないし、他者や世界と融合することも不可能なのです。

本来は、この世界や他者に対して、ハートが、つまり魂が籠った繋がりを構築することが大切なのだと思います。


これは宗教の話をしていればいいという訳にはいきません。

やれ、ヴィパッサナーがとかマントラがとか座禅がとか、精神集中がとか、手放し、明け渡しが大切だ等々と個人で追及する様々な課題をしてみたところで、その効果が、個人の特別な穴倉にこもることになっていては意味が無いのです。

手放しは、つまり、相手の対応いかんによって変化することのない、静謐に触れることで、その静謐性を齎すのが、自己のハートを明け渡すことなのだろうと思うのですが、そうなると自然と自己の距離感が縮まって融合する。


ところがですよ、ほんとにこれが、現実生活で実践される際には、このような特殊なものではないんです。

相手の話を聞いてあげるとか、一緒に楽しんであげるとか、自然に感動するとか、ぜんぜん、当たり前のことの中に、この静粛性やら癒しやら、それこそ言えば、涅槃が花開くのです。

まったく特別性が無くて、傷ついたり悩んだりもあるのです。

で、この普段日常の人間関係の中で、自己の存在が変性していく必要性が出てくるのですが、そこは、なんというか、個人で行う修行のようなものではなくて『信頼性を生きる』ことに繋がってくる。


この部分を、ぜんぜん主張されない。

優劣をつけるので、ぜんぜん宗教じゃないような情報が宗教として流布されているし、精神世界もそうである。

グルジェフさんの意図的苦悩も特別なものじゃない。

この意図的苦悩というのは『相手のことを思いやる』ということだけである。

その思いやりは、別に、特殊な行法によって獲得されるものではなく、ホントに、相手に向き合っているだけである。

しかし、これが難しい。


ここを僕は、進めて研究していかねばならない。

そうでなかったら、今まで書いてきた悟りなんてアホらしい。

それは、ただ自分一人だけが助かったら、あとのことは知らんとゆうような方向性だったからである。


ちゅーことで、書きなぐってしまいましたが、仕事なので行ってきます!

またね。