豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

どうしようもなく最低なわたし

2016-06-25 19:05:26 | 読者に人気の記事
このままだと6月の更新が途絶えるので、書いておこうと思います。

前回の更新から色々とあって、まあ、自分なんていうものの、どうしようもなさを痛感します。

禅なんかで言われる、三昧とか、スコーンと抜けた状態っていうんは、確かに気持ちいいんだけど、その前に捨てられるものが、捨てられてないといけない。

捨てられるものとは、自我である。

なぜ、最初から、救われているのに、捨てなくてはならないのかと言うと、この自我とか気持ちの働きが、他者と対立することで、心が開かなくなるからなのだ。

ごめんなさい、ゆるしてください、愛していますと繰り返すのはオポノポノとかゆーハワイの教えでしたっけ。

この自我の働きを弱めるには、良心が働かないといけないが、それは衝撃的な事実とかがないと開いていかない。

人間には3つの機能がある。

思考、感情、動作であるが、この、管理をするはずの主人は不在である。

主人は自己意識と、良心が機能しているときに、働き出すが、それは自我の抑制という効果を、意図的な苦悩によってもたらす。

意図的な苦悩とは、超絶な努力であるが、これは意識的に働くときに合う抵抗に対して情け容赦なく戦っていくことだ。

ゴータマブッダは、

アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の穢れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。
(スッタニパータ)

と言うが、ここに全て核心がある。

無明に対するのは智慧だが、この智慧とは注意しているエネルギーのことである。

そして、貪りと怠惰は動作中枢の反応として、または本能中枢の反射として感情を突く。

この感情中枢はできるだけ楽ができるように、自我以外を否定し続けるが、これが、欲心である。

苦悩は、この自我と他者との隔絶、自我と自然との隔絶など分離から生まれている。

主客一体となれば、その人はもう悟ることはない。

良心とは相手の立場に立って公平無私に感じることだが、それは、自己がコケていないと不可能である。

見ることはできても感じるのはべつの中枢の働きであり、長い修練をしなければ、自己の弱さは克服されない。

何をするにしても、抵抗があるが、それは、常に貪りと怠惰である。

ある程度ということが重要になり、もっともっとと、求めることが苦しむ要因となる。

たるを知るとは、ほどほどで満足することだ。

自我活動とはクビの後ろでいつも、ブツブツと不満を垂れたり、否定している、そのおのれと勘違いしている悪魔を打ち倒して消すことである。

それには暴力は役に立たない。

光と愛が悪魔を打ち倒してしまうのだが、その光と愛は、真の内奥の主人の機能である。

そこを、解放すれば、悪魔は檻に入れられた狼のように抵抗できなくなる。

彼ら、普段は自己と勘違いさせている悪魔の武器は恐怖である。

恐怖とは苦悩だとブッダは言う。

苦悩に、対する恐怖なのだが、それを乗り越えるのは非常に長期の時間が、かかる。

満足していれば、それは、簡単であるが、ちょっと引っ掻かれると自我は暴れる。

グルジェフさんの改心した狼と一緒である。

外的に考えるのは、非常に役に立つが、そのときに、ごめんなさい、ゆるしてください、愛していますとゆー呪文?w は使える。

人間は一度、動物にならなければならない。

そして動物本能からの鋭い感受性の中で思念世界を抜けることが第一歩だ。

これは悟りのような体験である。

見たものだけがあって、すべて空とは、この状態であるが、ここで止まったら、慈悲はない。

確かに苦しみの思念的な部分からは解放されるが、それは独特な個人の悟りに留まり、おそらく他者を大切にするどころか、反対側へ暴走するだろう。

何も問題がなくなるからだ。

しかし目が覚めて見れば、そんな単純なことではないことが分かる。

人はひとりではないのだ。

僕たちはひとりではない。

人間はひとりでは生きられないのである。

他者を大事にできることが、まったくできないとゆー僕の問題に迫ってきたw

これは、自我があるからである。

自我とは否定である。

否定とは悪魔のことである。

慈悲とは肯定であり、肯定とは、仏である。

世界からの眺めだけでは十分ではない。

その世界からの眺めに溶けてしまわないといけないのだが、それが良心の火、炎である。

我々の太陽は熱も光も発しない。

この炎は、ハッキリ言ってしゃれになりません。

抵抗に対して気持ちを殺すことなのだ。

これは恐怖とセットになっている。

安心とは恐怖の消失のことであるが、この恐怖とは自我の悪魔、そのものなのだ。

だれも消えたいとは思っていない。

新しい主人がいなければ、これは不可能である。

この辺りの研究を続けよう。