豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

ほんとうに触れなきゃ

2017-07-25 05:31:45 | 日記
えー、またしても自堕落アンドお疲れモードな日々になってます豊田です。

皆さま夏を楽しんでおられるのでしょーか。

ぼくはウチに帰ったら何か食べるかスマホ弄るか、もしくは、ゴロゴロして追憶に耽るか、そんな夏です、笑

このままでは7月の更新ができないので、書こうと思いたって更新。

人生、ここぞとばかりに、詰みまくってきました。

ああ、そういえば、こんなぼくにも、誕生日をお祝いしてくれる人が!

Yくんは何とすき焼きをおごってくれました。

ドナルドダックのTシャツのプレゼントつきww

あとはメッセージくれた方々も。

ありがとう。


で、まあ、宗教を、宗教として考えることに飽々してきた、このごろなのです。

基本、楽があれば喜び、苦があれば怒るのが、人間さんの精神。

ここで楽を取ろう苦を避けようが、よろしくないとか、聞いたとしましょう。

こういうのが宗教メッセージですね?


すると怒りが湧いた時に、むむ?

これは苦を避けようとしているエゴ、かの有名なる我の煩悩!

いかんいかん、避けねばと沈めたり、しようとして、まあ、でも基本できないからね。

そういう枠内に閉じ込めるものが、かのメッセージさんたちにはあるのです。

つまり、これは、どう考えても不自然。

ここで、あれがよい、これがわるいと言ってる判断自体が、もうジガさんの動きなわけだが、宗教が入ると更に、その基準が入る。

しかし、こころの内から流れてくる祈りとか、敬虔な感情は、真に宗教的である。

そこには作為が、自己を見てコントロールしようというものがない。

マントラでも、坐禅でも、自己想起でも、深くあるときは、この感情の領域が、思念の中の価値判断を沈めているのである。

手放しは、この、祈りのなかに放たれていることではないだろうか。

これは、まあ、単純なところ清流の流れの横で、寝転がって川の音と森の静けさに浸っている時に、時間や場所が忘れられて、あの眠りの前の、ふわっとした空間にあるのに似ている。

これは感情を通した精神的領域だが、思念は、つまり観念や価値判断の伴うものではない。

音楽や演劇などのように、そのような価値を超えて安らぐものなのである。


だから、こう、様々なメッセージは陳腐になる運命なのだが、それは解釈で、そこに至ろうとしていたからなのだ。

人のこころが開かれるのも閉じるのも、親子関係、友人、そして職場などで触れ合う人々の価値判断の中で、評価に値すると自己を受容できたかどうかであり、その受容があるときに、開かれるのものである。

だから人を解放するとなると、この価値観を壊さなくてはならなくなるだろう。

それは、まあ、かなり深刻だねw


感謝という思い、こころの動きは自然にわくものであり、そうであるから美しいのだ。

強要したものや、作られた感謝、見世物としての仮の、嘘の言葉としての感謝は醜い。

小さな子供はわりと自然な感情の流れの中にあるけれども、社会は、それを許さない。

円滑な関係性は、嘘によって築かれている。

嘘がなければ、人を怒らせてしまうのだが、それは真実は人を苦しめるからである。


自然な感情の発露を抑制した中でしか暮らすことが不可能である日本社会。

そこで祈りという超高度な感情が醸成されるには、気にしないことが必要になってくる。

思念と感情が争っているのが、心の不調和。

これは、本能的、動物的なものと、理知的であろうとする願いとの衝突だろう。


小細工をしても心底の安心はない。

嘘は人には通用しても、自分自身は全部見ているではないかwwww


まあ、いろいろあるけど、感覚的に宗教的なもの、スピリチャルなもの、そういう本物の深さを人はだれでも知っている。

教えられなくても、いい。

その知っているものに信をおいて、解放していくことが安らかになる秘訣だろうと思われる。

人は関係ない。

そんなふうに今は感じてるところであります。


ほいでわー!

またねー^_^