おはようございます
さて、ちかごろ、恒例の、超久しぶりの更新をしたいと思います
今週は夜勤ですが、睡眠がうまく取れてないので疲れてます
それに食べすぎて太ってるので普通にいても疲れてます
13キロも増えてるからなあ、、、二十歳のころと比べたら
非常に不味いのですが、なにしろ、酒は飲むし、お菓子は食べるし、ご飯も満腹になってるから、痩せるはずもありません
しかも、運動も仕事以外、まったくだし
持病のこともあるので、何かをしないといかんのですが、いつも疲れてるのでやる気のないという
そんな、ろくでもない状況であるのですが、まあ、生きてはいますよ
えー、それでですね、何をしてるかと言いますと、あんまりすることも変わってないような気がするのですが、ツイキャスの視聴にも久しぶりにはまってます
夜に飲み配信してる女の子がいて、おもしろいキャラだから楽しんでる
人狼殺のプレイもたまにやっていて、たまたま聴いたツイキャスの配信者さんとも遊んでた
初心者の人たちと軽い感じでやるのはギスギスしてなくていいね
YouTubeで、人狼、将棋、法話など見てることも多いです
小出遥子さんの丹田チャンネルとか、大和田菜穂さんのチャンネルもたまに見る
掲示板の閲覧投稿もやることなさすぎる時はしてるけど、ちと飽きてきた
本を読むことも、音楽を聴くことも、少なくなっている
クリアボールだっけ? あれの音楽とゆーのか癒し系のものは少し聞いた
最近の曲だと、あいみょんのマリーゴールドは好きだけど周りに理解者が少ない、笑
本は奇蹟を求めてを一つの章だけ読んだりしたけど、ほとんど読まなくなってる
ブログとかも、前はいろいろ、毎日見てたのに、このごろはまったくです
今はソファでゴロンしながら、外の鳥のさえずり、車の走る音を聞き、天井方向の風景をぼんやり見たりしながら、思い出してる
暑くなってきたから朝晩の方が過ごしやすい
ノンデュアリティブームは落ち着いて、批判する人たちもいるけど、ほんとは誰もいなくて、何も起きてないところに、全体の表現としての今だけがあるというのは、究極の話だと今でも思う
こういう説明が、そういう視野を持ち込ませてしまって、新しい分離を生むという弊害があるかもしれないから、余分な説明だと言うんなら、そーかもしれないけども、今でもノンデュアリティがブームになったことはすごいと思う
グルジェフさんの方法の、体に帰ってリラックスしつつ、内側で考慮することをやめてしまうというものも、今ある事実が跡形もなく過ぎてゆくところの、本来の自己を思い出させるテクニックだと今は思えるし
禅のいうてる一期一会や、日々是好日とかも、ノンデュアリティの起きていることしかない、いいもわるいもないとゆーてることと同じである
まあ、僕如きが思ってるだけなんで間違えているのかもしれないが、いまは、そんなふうに思っているのだ
さとりというものは、見ている自分が落ちることだ
分離のない全体の表現だけがあると説明されるけれども、そのように見ているものはいないのである
しかし、、、ここで思うのだが、どのようにしたら悟れるのかというと、なんと、自分を見ることによってとなってしまう気がするw
グルジェフさんの自己想起の説明に、こんなのがあったと思う
普通の状態では道路を見ている
しかし、自己を思い起こすなら、道路を見ているし、それに、その道路を見ている自分をも見ている
この視野が新たなショックとなるダブルアテンションというやつだ
これのコツは、ブログを更新している方向の視野も失わずに、同時に、その更新している自己への視野も生ずることで、ダブルで注意しているとウスペンスキーが言っていたような記憶がある
スマホを見て感じている
同時に、スマホを見て感じている自分自身も見られ感じられる
自分自身←→世界
世界からの視野が、つまり、逆方向からの視野が、客観的、向こうからの視野が、普通はない
それと同時に、内側でブツブツやってるやつ、つまり、考慮をやめるという
なんか複雑だが、禅の老師が、内、虚にして、外、事あるのみとシンプルに言っている
ノンデュアリティで、分離がないと言っている
その、分離がないというのが、目的なのだ
つまり、悟りのテクニック、それが、自分自身を思い起こすことなのであると、ぼくは思っている
ほな、またw