こんばんは。
今日も無事にブログ更新できそうです。
またまた離れのリビングにて書いています。
咳が出る。
時計がジジジジジジジジといつもより大きめになっている。
トジュ、トジュ、ともう一つも刻む。
風がブウォォォォォォと唸り、外のなにかがカタッカタッとリズムよくなっている。
日除けにかけてる黒い幕が揺れるたびに光の角度が変わり、目に入る。
妹と姪っ子の写真が、窓際においてあったのに、仕舞われている。
テレビで運転席の後ろのシートベルトをしていないと事故の時に飛ばされると言っている。
しかし着用率が36パーセントしかないそうだ。
カレーの匂いがしている。
カンッウウウンと皿にスプーンの当たる音がし、チャンチャンチャン、シュウウウウと当たる音と食べる音がリズムよく交互にしている。
外は薄暗い。
なんとなく嵐の前の静けさのようにも感じられる。
さて本日は14時ごろに起きてきました。
それから延々とゴロゴロしてスマホのゲーム「モンスターストライク」をしていました。
なかなか楽しい。
なんか昔から統計とか、シュミレーションゲームとか大好きだったから、データが細かくて数が多いと嬉しい。
煙草を吸い、コーヒーも飲み、黙々とします。
16時過ぎになってから、そろそろ座っておこうと思えたので坐禅。
なかなか静かになる感覚が復活してきている。
静かになるにしたがって、騒がしさの認識が増すので、いつもより連想に囚われているかのように錯覚するが、ほんとうは、その連想の流れに注意が向くようになっているのだ。
静かになる前は連想の流れに気が付いていない。
これが眠りながら目覚めている夢を見ている現代人の特徴である。
生きているようで死んでいる人々とグルジェフさんが表現したのは、その空想の世界の回転が、僅かな刺激によってコロコロ変わり、なにも能動的なものが生まれてこない、直のリアルに触れない、閉じた人々のことである。
何が閉じているかといえば、感受する勇気である。
坐禅を終えると読書ですね。
ベルゼバブの孫への話は芸術の章。
現代のシアターなるものが、特別な地位に祭り上げられた『俳優』やら『女優』の身に着けるものや、肌の見せ方や、化粧の仕方、はたまた振る舞い方とか、礼儀正しい作法なんかの『模倣』や『見せびらかせ』のために機能しているとwwwww
しかし、その昔、俳優とか芸人なるものは、世間からはみ出したものとの本能的認識があり、そのような人々は一般の人から区別するために、まず髭を剃らねばならない、とか、口紅を塗らねばならないとか、髪を剃らねばならぬ、等々の刑罰が科せられていたらしい。
とことが、現代人は、この俳優を自分たちと同等の地位にあげたばかりか、逆に、この非生産的職業の人々を賛美し、実業について額に嫌というほど汗をかく人々のことは見下しているのだ(笑)
つまり現実を逆さまに捉える器官クンダバファは見事に、その能力の遺産を受け継いで、発展させているのである。
これは緩衝器、つまり、直に感じることを遮るものである。
で、読書を終えてから母親の家でチャーハンを貰い、それからブログの更新をしているのです。
さてさて大好きな宗教トークです。
この現実と自分が分離していて、自分が中心となって、世界があるとこう感じていますね。
しかし、これが世界があって、それが動いているとなり、その次に世界は無く、目の前の認識が移ると成る。
そして、その目の前の無常が、今度は認識者を消し去り、目の前の変化に「身体も心も」放たれる。
放たれた時に、この直の現実が、それだけあり、つまり刻々とした生命の躍動だけがあるとなるのである。
それが動きに動き詰めなために掴まえることは出来ない。
が、そこに完全に明け渡して、明け渡したなどという認識も消したとき、万物はあるがままにある。
それは確固とした何かではなく、こっちにはこれ、あっちにはあれだが、そのもの、それが、そこにあれば刻々のひとつひとつが、それしかない。
コレしかない!
2つはない!
それが悟りなのです。
そのとき、ヌイグルミを脱いで、あー清々しいと感じるとともに、背中に抱えていた重りと胸に突き刺さっていた矢が取れるでしょう。
それは実感として感じられるのです。
ほんものとして、ああ、心身脱落ね、うんうん、とね(笑)
なので、自己の不在が直に生きる事になるのは本当ですが、実は、それは、自己と思い込んでいたものの不在ということなのです。
ですから、まあ、実質は、認識が変わることで、印象の受け方が著しく変化し、そのことで安楽になるのが悟りです。
こうなってくると、今、安楽である人は、他には何も要りませんwwwwww
というわけで今日はこのあたりで!
またねー
今日も無事にブログ更新できそうです。
またまた離れのリビングにて書いています。
咳が出る。
時計がジジジジジジジジといつもより大きめになっている。
トジュ、トジュ、ともう一つも刻む。
風がブウォォォォォォと唸り、外のなにかがカタッカタッとリズムよくなっている。
日除けにかけてる黒い幕が揺れるたびに光の角度が変わり、目に入る。
妹と姪っ子の写真が、窓際においてあったのに、仕舞われている。
テレビで運転席の後ろのシートベルトをしていないと事故の時に飛ばされると言っている。
しかし着用率が36パーセントしかないそうだ。
カレーの匂いがしている。
カンッウウウンと皿にスプーンの当たる音がし、チャンチャンチャン、シュウウウウと当たる音と食べる音がリズムよく交互にしている。
外は薄暗い。
なんとなく嵐の前の静けさのようにも感じられる。
さて本日は14時ごろに起きてきました。
それから延々とゴロゴロしてスマホのゲーム「モンスターストライク」をしていました。
なかなか楽しい。
なんか昔から統計とか、シュミレーションゲームとか大好きだったから、データが細かくて数が多いと嬉しい。
煙草を吸い、コーヒーも飲み、黙々とします。
16時過ぎになってから、そろそろ座っておこうと思えたので坐禅。
なかなか静かになる感覚が復活してきている。
静かになるにしたがって、騒がしさの認識が増すので、いつもより連想に囚われているかのように錯覚するが、ほんとうは、その連想の流れに注意が向くようになっているのだ。
静かになる前は連想の流れに気が付いていない。
これが眠りながら目覚めている夢を見ている現代人の特徴である。
生きているようで死んでいる人々とグルジェフさんが表現したのは、その空想の世界の回転が、僅かな刺激によってコロコロ変わり、なにも能動的なものが生まれてこない、直のリアルに触れない、閉じた人々のことである。
何が閉じているかといえば、感受する勇気である。
坐禅を終えると読書ですね。
ベルゼバブの孫への話は芸術の章。
現代のシアターなるものが、特別な地位に祭り上げられた『俳優』やら『女優』の身に着けるものや、肌の見せ方や、化粧の仕方、はたまた振る舞い方とか、礼儀正しい作法なんかの『模倣』や『見せびらかせ』のために機能しているとwwwww
しかし、その昔、俳優とか芸人なるものは、世間からはみ出したものとの本能的認識があり、そのような人々は一般の人から区別するために、まず髭を剃らねばならない、とか、口紅を塗らねばならないとか、髪を剃らねばならぬ、等々の刑罰が科せられていたらしい。
とことが、現代人は、この俳優を自分たちと同等の地位にあげたばかりか、逆に、この非生産的職業の人々を賛美し、実業について額に嫌というほど汗をかく人々のことは見下しているのだ(笑)
つまり現実を逆さまに捉える器官クンダバファは見事に、その能力の遺産を受け継いで、発展させているのである。
これは緩衝器、つまり、直に感じることを遮るものである。
で、読書を終えてから母親の家でチャーハンを貰い、それからブログの更新をしているのです。
さてさて大好きな宗教トークです。
この現実と自分が分離していて、自分が中心となって、世界があるとこう感じていますね。
しかし、これが世界があって、それが動いているとなり、その次に世界は無く、目の前の認識が移ると成る。
そして、その目の前の無常が、今度は認識者を消し去り、目の前の変化に「身体も心も」放たれる。
放たれた時に、この直の現実が、それだけあり、つまり刻々とした生命の躍動だけがあるとなるのである。
それが動きに動き詰めなために掴まえることは出来ない。
が、そこに完全に明け渡して、明け渡したなどという認識も消したとき、万物はあるがままにある。
それは確固とした何かではなく、こっちにはこれ、あっちにはあれだが、そのもの、それが、そこにあれば刻々のひとつひとつが、それしかない。
コレしかない!
2つはない!
それが悟りなのです。
そのとき、ヌイグルミを脱いで、あー清々しいと感じるとともに、背中に抱えていた重りと胸に突き刺さっていた矢が取れるでしょう。
それは実感として感じられるのです。
ほんものとして、ああ、心身脱落ね、うんうん、とね(笑)
なので、自己の不在が直に生きる事になるのは本当ですが、実は、それは、自己と思い込んでいたものの不在ということなのです。
ですから、まあ、実質は、認識が変わることで、印象の受け方が著しく変化し、そのことで安楽になるのが悟りです。
こうなってくると、今、安楽である人は、他には何も要りませんwwwwww
というわけで今日はこのあたりで!
またねー
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