※初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
※嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんばんは!
快、不快の激流を貪欲と憂いを滅して渡り終えた皆様!
本日は15時半に起きて座禅1時間、無事終了しました豊田です。
隣で「でやんでえ」と言っている嫁が意味不明(笑い)
座禅は普段気がつかない自分の状態に気が付くので続けることに意味があると思います。
もちろん、すぐに良い結果はでないですが、悪い部分には徐々に気がつくようになるのでやればやるほど自分が善くない状態である認識が増してきますね。
そのあとで『奇蹟を求めて』の奇蹟の章、冒頭部分くらいを読みました。
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グルジェフさんとのテレパシーや、眠れる人々を見て歩くようなシーンですね。
ウスペンスキーは『眠れる森の王子』の立場に自分がいると表現しています。
周囲の人の自己意識の無さに気がつくと、こう感じますね。
でも、あの文体は翻訳者の方の個性なのか、ウスペンスキーの性格なのか……大げさな上に、エリート意識がありすぎますw
ベルゼバブの孫への話は、そのような傾向が薄いことを考えると、著者の性格なんだろうなあ。
本を読み終えると庭に出てきた嫁さんが「あ、今日もいる~」とツバメの存在を教えてくれました。
昨日気がついたのですが、家の横の電線に50羽ほどのツバメが大群をなしてやってきているのであります(笑い)
のんびりと佇んで、気の向くままに飛び上がる、彼らの自由気ままに自然な活動には癒されますね。
飛んでいるところに注意を向けてなりきると、まるで自分も飛んでいるかのように清々しく感じることができます。
ああ、気持ちいいんだろうなあツバメ!
えーっとですね、これはもう心の変化です、ハートの変化です。
この心を変化させるために、座禅があったりヴィパッサナーがあったりするわけですね。
ここを生き切ることが、この変化を促すというのが修行ですよね。
ただ座る、ただ歩く、ただ笑う、ただ泣く、ただ見る、ただ聞く等々、その瞬間、瞬間にある、それ、そのものになりきっていて私はいない!
本当は胸にある『緊張』を崩壊させれば、脱力、開放、放心、明け渡しすれば、本来の私が顔を覗かせるのですね。
まるで天照大御神が岩屋戸を開いたように!
この岩屋戸が『緩衝器』であり、鏡が『目の前の現実』であり、裸の舞踏が『生き切ること』であり、神々の笑いが『禅定』である。
そうして気になった心がひょっこりと覗き込んだところを捕まえる荒縄!
これが『集中力』『正念』『気づき』『閃き』等々の言葉で表されている力なのです。
禅定→菩提心→開放→覚醒
注意力→良心→存在すること→覚醒
このように集中して心を開放するというのが方法なのです。
心を開放するというのは、作為を手放すことです。
自分でやろうという思いを滅してしまうことです。
あるがままに生きることです。
これが、単純ながらも正統なる修行の法則なのであります。
成功すれば世界が浮き上がり、真摯なる心が目覚め、ただここにいるだけになる。
「だだこれだけ……」
誰の言葉だったか忘れてしまいましたが「死ぬときは死ぬがよかろう」という名言がありました。
眠るときは眠る、働くときは働く、食べるときは食べる。
今、目の前の現実が、諸行無常に永遠に変化していく。
過ぎていく、その、過ぎていくところが、あなたの心です。
この心は胸の心臓の近く(の深い感情)を通して全体と無である自己を包括しているのです。
これが大いなる全て、表現不可能なる宇宙の根源なのだ。
真我は『目の前の現実』から離れてあるのではなく、ここに完全に明け渡すことが、それなのです。
我が心の中心部は空洞(無)なのである。
無であるからこそ、すべてが有るのであって、ここだけが全てなのですね。
敵は、欲と憂い、怒りと高慢、妄想分別と迷い。
これは本能と動作と感情と思考の否定的部分です。
この敵を一刀両断にする聖剣は『真摯なる心』なのです。
これに現在自己意識が辿り着くために、ここに集中して、開放する。
集中して開放するために自己意識を得る。
このことの流れが、古代から延々と語り継がれる、人間の進化への道なのです。
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
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こんばんは!
快、不快の激流を貪欲と憂いを滅して渡り終えた皆様!
本日は15時半に起きて座禅1時間、無事終了しました豊田です。
隣で「でやんでえ」と言っている嫁が意味不明(笑い)
座禅は普段気がつかない自分の状態に気が付くので続けることに意味があると思います。
もちろん、すぐに良い結果はでないですが、悪い部分には徐々に気がつくようになるのでやればやるほど自分が善くない状態である認識が増してきますね。
そのあとで『奇蹟を求めて』の奇蹟の章、冒頭部分くらいを読みました。
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グルジェフさんとのテレパシーや、眠れる人々を見て歩くようなシーンですね。
ウスペンスキーは『眠れる森の王子』の立場に自分がいると表現しています。
周囲の人の自己意識の無さに気がつくと、こう感じますね。
でも、あの文体は翻訳者の方の個性なのか、ウスペンスキーの性格なのか……大げさな上に、エリート意識がありすぎますw
ベルゼバブの孫への話は、そのような傾向が薄いことを考えると、著者の性格なんだろうなあ。
本を読み終えると庭に出てきた嫁さんが「あ、今日もいる~」とツバメの存在を教えてくれました。
昨日気がついたのですが、家の横の電線に50羽ほどのツバメが大群をなしてやってきているのであります(笑い)
のんびりと佇んで、気の向くままに飛び上がる、彼らの自由気ままに自然な活動には癒されますね。
飛んでいるところに注意を向けてなりきると、まるで自分も飛んでいるかのように清々しく感じることができます。
ああ、気持ちいいんだろうなあツバメ!
えーっとですね、これはもう心の変化です、ハートの変化です。
この心を変化させるために、座禅があったりヴィパッサナーがあったりするわけですね。
ここを生き切ることが、この変化を促すというのが修行ですよね。
ただ座る、ただ歩く、ただ笑う、ただ泣く、ただ見る、ただ聞く等々、その瞬間、瞬間にある、それ、そのものになりきっていて私はいない!
本当は胸にある『緊張』を崩壊させれば、脱力、開放、放心、明け渡しすれば、本来の私が顔を覗かせるのですね。
まるで天照大御神が岩屋戸を開いたように!
この岩屋戸が『緩衝器』であり、鏡が『目の前の現実』であり、裸の舞踏が『生き切ること』であり、神々の笑いが『禅定』である。
そうして気になった心がひょっこりと覗き込んだところを捕まえる荒縄!
これが『集中力』『正念』『気づき』『閃き』等々の言葉で表されている力なのです。
禅定→菩提心→開放→覚醒
注意力→良心→存在すること→覚醒
このように集中して心を開放するというのが方法なのです。
心を開放するというのは、作為を手放すことです。
自分でやろうという思いを滅してしまうことです。
あるがままに生きることです。
これが、単純ながらも正統なる修行の法則なのであります。
成功すれば世界が浮き上がり、真摯なる心が目覚め、ただここにいるだけになる。
「だだこれだけ……」
誰の言葉だったか忘れてしまいましたが「死ぬときは死ぬがよかろう」という名言がありました。
眠るときは眠る、働くときは働く、食べるときは食べる。
今、目の前の現実が、諸行無常に永遠に変化していく。
過ぎていく、その、過ぎていくところが、あなたの心です。
この心は胸の心臓の近く(の深い感情)を通して全体と無である自己を包括しているのです。
これが大いなる全て、表現不可能なる宇宙の根源なのだ。
真我は『目の前の現実』から離れてあるのではなく、ここに完全に明け渡すことが、それなのです。
我が心の中心部は空洞(無)なのである。
無であるからこそ、すべてが有るのであって、ここだけが全てなのですね。
敵は、欲と憂い、怒りと高慢、妄想分別と迷い。
これは本能と動作と感情と思考の否定的部分です。
この敵を一刀両断にする聖剣は『真摯なる心』なのです。
これに現在自己意識が辿り着くために、ここに集中して、開放する。
集中して開放するために自己意識を得る。
このことの流れが、古代から延々と語り継がれる、人間の進化への道なのです。
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