※初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
※嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんばんは!
精気に満ちた心が体いっぱいに広がっている皆様!
本日も座禅1時間やりとげました豊田です。
どうも姿勢の悪さが酷いですね。
普通に座っているだけでも異常な体の曲がり具合を感じます。
毎日、毎日、このような姿勢で過ごしていたのですから疲れやすいのも当然ですね。
そういえば昨日は腰が痛くなってしまいました。
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慣れない姿勢でいると筋肉の係り具合が変わるので、違うところが痛んだりしますが、まあ負の遺産がでてくるのでしょう。
これは姿勢だけに限らず、思念の世界も同じですね。
ただ座っているだけのはずなのに、様々に頭を駆け巡る過去の記憶たち。
自分が脳内妄想に、これほどに引っ張られているという認識は普段有りません。
座っていると集中力が取られた瞬間、戻ってきた瞬間の間に入り込む、脳内妄想に頻繁に気づかされる羽目になります。
これも、いつもの負の遺産がでてきているのでしょう。
更に感情の世界でも同じです。
隠された恐怖や嘘が浮かび上がってきて、その奥にある無心を隠しています。
また怒りや欲望が噴出しているので、これにエネルギーを奪われている様を観察しなくてはならない羽目になります。
動きたいとか、こうしたい、ああしたいとか、あちこち飛び回りたくて、また直したくて、正しくしたくて等々、様々な「感情的思い」がでてきます。
これは比較的、沈黙することで静まることが多いですが、座っているときではなく、日常生活の中で、性欲や怒りが爆発していくことになるのですw
これらも、いつもの負の遺産がでてきているのでしょう。
そうして、このようなどうにもコントロールできない機械である自分を相手にあれこれやっている内に、どんどんと異常な側面が浮かび上がってきますね。
座禅、日常生活(家事、仕事、友達付き合い)等々の中で、自己を観察して写真を撮れば、複数の私に気がつかざるを得ません。
しかも、この私から逃れることは非常に「居心地が悪い」のです。
まるで裸でどこかに放り出されたかのように、恥ずかしく、また、隠したくなる。
自分の存在を、なんとかして、ごまかさなくてはならない(爆笑)
グルジェフさんは人間にはたいてい6つの人格があると言います。
家族用① 家族用② 会社の上司用 会社の部下用 レストランでの友人用 高等な問題を探求する私用
これらのパターンの中で自動的に自己表現するのが「居心地が良い」わけですが、困ったことに、この中には「私がいない」のですね。
他者に合わせて作られた「キャラ」を演じているだけで、ここには本当の心と繋がった『真摯なる心』など全然登場しないのです。
そして、この『真摯なる心』が本来の自己であるので、本来の自己は生きていない。
まあ、もう、知らない間に眠っているようなものです。
この眠り込みは5歳くらいから既に始まっていて、本来の私は5歳の幼児レベルなのに、人格の私は大学教授である、などということが可能なのです。
幼児というのは「隠そう」としませんね。
裸のままの自分、あるがままの自分が素直に表現されている。
そこに生のエネルギーが浸透して、まるで輝いているかのように見える。
また聖人というのは、同じように「あるがまま」にいますね。
その深い良心に触れると、まるで父親の愛に触れるように安心してしまう。
これらの自然な成長を、この世界で再び可能にしなくてはならない。
全員が、そうする必要はありませんが、必要とする人が、学ぶ道があるという環境を作り上げなくてはならないのではないでしょうか?
これは内部での自己解放ではなく、実際の現実生活の中で「眠らない自己」「覚醒した自己」が生きて成長していけるように、その道へと導くということです。
言い換えれば環境に作用されずに「裸の自己」が目覚めているようにすることです。
人間には2つの自己がいるという話です。
1つの自己はコロコロと他者に依存して「複数の私」を生きている、自分で自分だと思い込んでいる普段の私です。
この自分は「弱点を隠す」ために嘘によって形成されています。
他者の欲求、教育、模倣によってパターンを形成した役割を演じているキャラとしての私であって、不幸なことに、この役割の止め方を忘れてしまった私なのです。
もう1つの自己は生まれたときからある「魂の質」である本来の私です。
この私は「3つ子の魂100まで」という名言があるとおり、眠り込んでしまって、成長することがありません。
この「真摯なる心」が目覚めて、人生を生きることが自己覚醒と言われていますね。
自分自身を発見する段階の1段階目の覚醒ということです。
この魂の質はハートの奥にあります。
そして「複数の私」が何かやろうとすることに絶望したときや、瞬間的な閃きがあるときや、何かとてつもなくリラックスできる環境にいるとき、自分ひとりで深く省察して心に思うとき、目の前の現実に100パーセント明け渡したとき、等々にひょっこりと顔を覗かせます。
とてつもなく親密で、可愛らしく、微笑まずにはいられない「自然な愛ある私」なのです。
※あるがままの悠聖w
この演技していない「本質」が実人生において中心的役割を担うようになる。
そこから負の遺産である「嘘と恐怖」の緩衝器の除去という第四の道がスタートするわけですね。
なぜなら誤った生活を長年続けてきた「だめま」くんは、様々に不調和な状態にあるわけなので、魂が目覚めたら、苦しみしか見ないわけです。
苦しみというか、酷い自分を目撃してしまうわけです。
この酷い自分というのは色々ありますが、姿勢や感覚、欲望を基にした憂い、自己愛による怒り、性欲、などなど、全部でてきます。
この「不快感」と「にがにがしい思い」と「できないことに対する認識」の深さが、自己が目覚めてきている証拠だと思われます。
そういったわけで、座禅を毎日続けていると、良くなるどころか悪い状態になっていると気がつくことができるわけです。
自分で理解できていると思っていたことが「嘘」であったことや、正しいと思っていたことが誤りであったことや、まあ、様々な毒が噴出してきます。
この毒(迷い、怒り、貪り)を深遠なる自己が溶かして、燃やしてしまうことが「良心の覚醒」であって、これは渇籐を通して為されるのですね。
しかし、この葛藤は欲と憂い、怒りと高慢の間にある苦しみのことではありません!
これらの双方と、良心の間の葛藤なのです。
だから、これを続ければ、苦しみが増すのではなく喜びが増すのです。
この喜びは「自己満足」とは全く違います。
そうではなくて、このハートの奥にいる小さな可愛い、親密なる「魂くん」が喜んでいることを現在自己意識が捕らえることによる深甚微妙なる至福なのです。
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
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こんばんは!
精気に満ちた心が体いっぱいに広がっている皆様!
本日も座禅1時間やりとげました豊田です。
どうも姿勢の悪さが酷いですね。
普通に座っているだけでも異常な体の曲がり具合を感じます。
毎日、毎日、このような姿勢で過ごしていたのですから疲れやすいのも当然ですね。
そういえば昨日は腰が痛くなってしまいました。
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慣れない姿勢でいると筋肉の係り具合が変わるので、違うところが痛んだりしますが、まあ負の遺産がでてくるのでしょう。
これは姿勢だけに限らず、思念の世界も同じですね。
ただ座っているだけのはずなのに、様々に頭を駆け巡る過去の記憶たち。
自分が脳内妄想に、これほどに引っ張られているという認識は普段有りません。
座っていると集中力が取られた瞬間、戻ってきた瞬間の間に入り込む、脳内妄想に頻繁に気づかされる羽目になります。
これも、いつもの負の遺産がでてきているのでしょう。
更に感情の世界でも同じです。
隠された恐怖や嘘が浮かび上がってきて、その奥にある無心を隠しています。
また怒りや欲望が噴出しているので、これにエネルギーを奪われている様を観察しなくてはならない羽目になります。
動きたいとか、こうしたい、ああしたいとか、あちこち飛び回りたくて、また直したくて、正しくしたくて等々、様々な「感情的思い」がでてきます。
これは比較的、沈黙することで静まることが多いですが、座っているときではなく、日常生活の中で、性欲や怒りが爆発していくことになるのですw
これらも、いつもの負の遺産がでてきているのでしょう。
そうして、このようなどうにもコントロールできない機械である自分を相手にあれこれやっている内に、どんどんと異常な側面が浮かび上がってきますね。
座禅、日常生活(家事、仕事、友達付き合い)等々の中で、自己を観察して写真を撮れば、複数の私に気がつかざるを得ません。
しかも、この私から逃れることは非常に「居心地が悪い」のです。
まるで裸でどこかに放り出されたかのように、恥ずかしく、また、隠したくなる。
自分の存在を、なんとかして、ごまかさなくてはならない(爆笑)
グルジェフさんは人間にはたいてい6つの人格があると言います。
家族用① 家族用② 会社の上司用 会社の部下用 レストランでの友人用 高等な問題を探求する私用
これらのパターンの中で自動的に自己表現するのが「居心地が良い」わけですが、困ったことに、この中には「私がいない」のですね。
他者に合わせて作られた「キャラ」を演じているだけで、ここには本当の心と繋がった『真摯なる心』など全然登場しないのです。
そして、この『真摯なる心』が本来の自己であるので、本来の自己は生きていない。
まあ、もう、知らない間に眠っているようなものです。
この眠り込みは5歳くらいから既に始まっていて、本来の私は5歳の幼児レベルなのに、人格の私は大学教授である、などということが可能なのです。
幼児というのは「隠そう」としませんね。
裸のままの自分、あるがままの自分が素直に表現されている。
そこに生のエネルギーが浸透して、まるで輝いているかのように見える。
また聖人というのは、同じように「あるがまま」にいますね。
その深い良心に触れると、まるで父親の愛に触れるように安心してしまう。
これらの自然な成長を、この世界で再び可能にしなくてはならない。
全員が、そうする必要はありませんが、必要とする人が、学ぶ道があるという環境を作り上げなくてはならないのではないでしょうか?
これは内部での自己解放ではなく、実際の現実生活の中で「眠らない自己」「覚醒した自己」が生きて成長していけるように、その道へと導くということです。
言い換えれば環境に作用されずに「裸の自己」が目覚めているようにすることです。
人間には2つの自己がいるという話です。
1つの自己はコロコロと他者に依存して「複数の私」を生きている、自分で自分だと思い込んでいる普段の私です。
この自分は「弱点を隠す」ために嘘によって形成されています。
他者の欲求、教育、模倣によってパターンを形成した役割を演じているキャラとしての私であって、不幸なことに、この役割の止め方を忘れてしまった私なのです。
もう1つの自己は生まれたときからある「魂の質」である本来の私です。
この私は「3つ子の魂100まで」という名言があるとおり、眠り込んでしまって、成長することがありません。
この「真摯なる心」が目覚めて、人生を生きることが自己覚醒と言われていますね。
自分自身を発見する段階の1段階目の覚醒ということです。
この魂の質はハートの奥にあります。
そして「複数の私」が何かやろうとすることに絶望したときや、瞬間的な閃きがあるときや、何かとてつもなくリラックスできる環境にいるとき、自分ひとりで深く省察して心に思うとき、目の前の現実に100パーセント明け渡したとき、等々にひょっこりと顔を覗かせます。
とてつもなく親密で、可愛らしく、微笑まずにはいられない「自然な愛ある私」なのです。
※あるがままの悠聖w
この演技していない「本質」が実人生において中心的役割を担うようになる。
そこから負の遺産である「嘘と恐怖」の緩衝器の除去という第四の道がスタートするわけですね。
なぜなら誤った生活を長年続けてきた「だめま」くんは、様々に不調和な状態にあるわけなので、魂が目覚めたら、苦しみしか見ないわけです。
苦しみというか、酷い自分を目撃してしまうわけです。
この酷い自分というのは色々ありますが、姿勢や感覚、欲望を基にした憂い、自己愛による怒り、性欲、などなど、全部でてきます。
この「不快感」と「にがにがしい思い」と「できないことに対する認識」の深さが、自己が目覚めてきている証拠だと思われます。
そういったわけで、座禅を毎日続けていると、良くなるどころか悪い状態になっていると気がつくことができるわけです。
自分で理解できていると思っていたことが「嘘」であったことや、正しいと思っていたことが誤りであったことや、まあ、様々な毒が噴出してきます。
この毒(迷い、怒り、貪り)を深遠なる自己が溶かして、燃やしてしまうことが「良心の覚醒」であって、これは渇籐を通して為されるのですね。
しかし、この葛藤は欲と憂い、怒りと高慢の間にある苦しみのことではありません!
これらの双方と、良心の間の葛藤なのです。
だから、これを続ければ、苦しみが増すのではなく喜びが増すのです。
この喜びは「自己満足」とは全く違います。
そうではなくて、このハートの奥にいる小さな可愛い、親密なる「魂くん」が喜んでいることを現在自己意識が捕らえることによる深甚微妙なる至福なのです。
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