豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

千鶴さんとデートなのに釈迦にハマル僕……

2012-10-07 00:04:34 | 日記
多気へ行く途中で八正道のことが頭に浮かんできましたが、どうしても思い出せないのが一つありました。

忘れているものが自分に足りないものだとよく言われていますので気になり嬉野PAで休憩して確認。

正精進が思い出せない言葉だった!

善いことをしようという考えは確かに僕に不足しております……精進精進(笑)


千鶴さんのお家へ着いたのが1時過ぎです。

栗とすだちをお母さんがもってきてくれました。

遅れた上に鬱的な僕に済みません!

で、千鶴さんとサークルKに寄って煙草とコーヒーを買ってくれて亀山へ向かう。

途中で僕は昨日からの八正道興奮でずっとそれを話す。

千鶴さん退屈してたかもしれない。


家へ着いてから千鶴さんが後でスーパーへ行きたいと言うので、そのまま亀山市のエコー内にあるサンシへ。

色々買い物をしてポイントカードを作ってもらい帰宅。


家へ帰ってからは僕はまたウィキペディアで釈尊の生涯のページを読む。

自灯明の教えの流れが衝撃的に良い。


※ウィキペディアより引用します。

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。

この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。

これについて釈迦は、

“比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。
 教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない”

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

“だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように”

と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

“では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?
 阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである”

“阿難よ、このようにして、比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである”

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

※引用終わり。


これはGワークの精髄じゃないか(笑)

というわけで彼らの言っていることが同じである可能性がかなり高いことに気付く。

どちらかというとこの釈尊の説いた教えの方が分かり易いし良いかもしれない。

しかしGワークがなければこれらの言葉達の持つ意味をしっかりと捉えきれなかっただろう。

というわけでどちらも素晴らしく本物である。


そうこうしていると千鶴さんが料理を作るのを手伝って欲しいと言うので手伝う。

コロッケを丸くしたり、お皿洗ったり、いろいろ手伝いました。

完成!



千鶴さんはあんまり出来映えが気に入ってなかったみたいだけど、おいしかったよ。


それから僕は『めちゃイケ』2時間スペシャルを見ていた。

どうも16周年らしい。

なかなか笑えて気分転換になりました。

千鶴さんはその間PCでブログを見たりしていた模様。


21時半くらいからお風呂に入る。

でてきてから僕はゴロゴロしてPCが空くのを待っていたが少し寝てしまう。

彼女の友人への招待状を何通かまた出さないといけないとのお話。


23時頃にPCが空いたので、それからブログ更新をしていました。

ではでは、そろそろ寝ます!

おやすみなさい。




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