新39◻️◻️『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(経済、新見荘)

2021-09-01 19:32:05 | Weblog

新39◻️◻️『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(経済、新見荘)

 また、その頃から、備中国・新見には、平安時代末期より戦国時代にいたるまで長い命脈を保った荘園があった。その荘園は、「新見荘」(にいみのしょう)と呼ばれた。場所としては、備中国哲多(てった)郡、現在の岡山県新見市北西部と、阿哲郡神郷町(しんごうまち)の北東部一帯を占めていた。
 そもそもは、平安時代の末頃、おそらくは12世紀末葉、大中臣孝正(大中臣氏)の開発した耕作地だと伝わる。その孝正は、これを壬生官務家(みのぶかんむけ)の小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進した。小槻は、さらに建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする京都の最勝光院(さいしょうこういん)に寄進した。後ろ盾になってもらった訳だ。この寄進は、上級の権門の保護を得るため当時広く行われていた措置であり、新見荘は最勝光院を本家(本所)、小槻氏を領家(領主)とする荘園となった。


 それからも土地をめぐる権利の移動があって、鎌倉時代末の1325年(正中2年)から1330年(元徳2年)頃にかけては、本家と領家のいずれも、後醍醐天皇により京都にある東寺の寺領になる。本家が移ったのは、その頃ほとんど皇室の御願寺(ごがんじ)としての体をなさなくなった最勝光院を東寺に割り当てた。これにより、当荘は東寺を本所とすることとなった。その後さらに「下地中分」が行われ、それからの新見荘は、西方を領主方、東方を地頭方に下地中分される。

 ところが、やがて地頭の新見氏、領家の小槻氏は東寺から疑われるようになる。事実上罷免された格好になりかねないので、両者とも東寺との対立関係が生まれる。その結果、小槻氏は東寺から年貢の一部を報酬として受け取るのと引き換えに領家の職分を放棄するに至る。一方、新見氏は室町幕府の下で地頭の地位を保ちつつも、実質支配の職分は東寺から閉ざされ、現地に新たに代官が派遣されてくる。

 そして迎えた1461年(寛正2年)、代官安富氏の圧政に耐えかねた農民たちが、一揆をおこす。かれらは、安富氏を追い出すのに成功する。これに驚いた東寺側は、直接的支配・経営に乗り出し、その翌年、新代官に僧の祐清が派遣されてくる。しかし、この代官も圧政を行う過程で、荘園の中でこれに反発した者に殺されてしまう。その分、東寺による農民たちへの圧政は何某か緩んだのではないか。

 その際のエピソードとしては、祐清に仕え、身の回りの世話をしていた女性たまかきがいた。その彼女による、東寺あての、主人の遺品を送り届けてほしいとの手紙が「たまかき書状」として現代に伝わる。

 その後の経過については、誠に有為転変というべきか。1467年(応仁元年)からの応仁の乱により西国は混乱に見舞われる、その過程で、新見荘の農民たちは東寺に拠って、新見氏などの武士の傘下に入るのを拒んだ。しかし、やがて新見氏などの武士の力がこの地に浸透してくるのを止めることはできなくなった。

 さらにその後の戦国時代に入ると、新見氏は三村氏に攻められて弱体化し、その三村氏も西から手を伸ばしてきた毛利氏によって敗れ去っていく。そんなこんなで迎えた1574年(天正2年)、すでに名ばかりとなっていた東寺の支配権は戦国大名に奪われて最終的に失われ、荘園としての新見荘は消失するに至る。


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 それでは、かかる新見荘は、当時の世の中において、どのように管理・運営され、またどのような社会的役割を果たしていたのだろうか。これらの課題につき、戦後、日本の中世史の刷新に貢献した歴史家・網野善彦は、次のように記している。

○「備中国の山奥に新見荘という大きな荘園があり、鎌倉時代の末から京都の東寺(とうじ)が、その支配者であったため、関係文書が東寺に数多く残されています。その中に、建武元年(1334)に作成された「地頭方損亡検見並納帳(じとうがたそんもうけみならびにのうちょう)」という前の年の年貢の収支決算書があります。長さ23メートルにも及ぶ長大な文書で、それを読むと中世の商業や金融、その上に立った荘園の代官の経営の実体が非常にわかるのですが、その文書の中に「市庭在家(いちばざいけ)」という項があります。

 それによってみると、この支配者の地頭方市庭には30間(軒)ほどの在家が建てられていることがわかります。恐らくそれは金融業者や倉庫業者の家で、道にそって間口の同じ家が短冊(たんざく)形に並んでいたと思われます。こうした在家に住む都市民は「在家人」とよばれました。そしてその傍らの空き地に商人か借屋で店を出す市庭の広い空間があったことも、この文書によって知ることができます。15世紀になると、そこで酒を買い、昆布や豆腐、狸(たぬき)や小魚などの肴(さかな)を買って酒をのむ飲み屋までができていたことが、史料によって明らかになっています。恐らく遊女のような女性もいたでしょう。そのような形で、市庭に関わる都市が成立していったと考えられるのてす。」(網野善彦「歴史を考えるヒント」新潮社、2001)



○「市庭で交易をする際には通常、売り手と買い手とが相対して売買の値段が決められましたが、その行為及び決定した値段は「和市(わし)」と呼ばれていました。話し合いで平和的に値段を決めたという意味を含んだ言葉で、新見荘の文書にも、代官が「市庭」で「四十九俵弐斗弐升四合」の米を1俵あたり395文の和市で売り、19貫530文の銭を入手した、という記述が見られます。

 この「市庭」は穀物の取引が、3日・13日・23日の「三」の日に行われる「三日市」だったようで、そのときどきの「和市」が立っています。いわば、のちの相場が立っているので、これは商品流通が広域的に発達していることを示しており、同じころ和市の高い市庭を選んで塩を売っている事例も知られています。これに対して、和市てはなく、強引に値段を決める方法は「押し買い」「押し売り」と呼ばれており、市庭では禁じられていました。」(同、前掲書)

 

 

○「また、さきほどの新見荘の文書によって、代官が京都の東寺に大量の銭を送る時には、現銭ではなく「割府(わりふ)」を送ったことがよくわかります。代官の書状の中にもそう書かれているのですが、代官は現銭ではなく、十貫文の額面の「割府」を現地の市庭(いちば)で入手して都の送っています。「割府」は、はじめは「替文」「かわし」と結びついていましたが、桜井英治氏の研究によりますと、14世紀には、約束手形・為替手形となり、流通していたと考えられるのです。

 実際、新見荘でもこのときに十貫文の額面の「割府」が流通していたようで、新見荘の代官は、「割府」を何枚も東寺に送っています。つまり、この「割府」は代官が振り出した、ものではなく、、別の人が振出人である「割府」が流通していたと考えられます。

 そしてこの「割府」を受け取った東寺の人が替銭屋(かえぜにや)に持って行くと、現銭に替えることができたのです。

 その手数料として1貫文につき10文、従って10貫文の額面なら500文の「夫賃」がらとられます。本来これは人夫が運んだ費用を意味しています。ともかく、一定の比率の手数料まで定められるほど、中世に、おいては手形の送進が安定して行われていたのてす。ぢ、「手形」という言葉は古い時代の手を押した「手印(えいん)」とも関わりがあるとも考えられ、印判などを押した契約書、証明書、信用の根拠になる書類の意味で江戸時代には広く使われ、やがて約束手形・為替手形になっていきます。

 「割府」のような手形が生まれたのは、13世紀後半ごろからですか、このように信用に裏付けられた文書の流通の起源はさらに古く、10世紀の中頃、平安時代後期にまで遡ることができます。」(同、前掲書)



○「前述した備中国新見荘の文書には、元弘3年(1333)12月に国司の上使が荘に入部(領地内に入ること)してきた時の接待の内容が記されています。それによると、この上使の人数は83名という大勢で、そのうち馬に乗っている人が21人、徒歩の者が62人もいました。代官は清酒や白酒を買い、更に市庭で兎(うさぎ)、スルメ、大根、大魚、鳥(雉(きじ))などを買って、酒肴(しゅこう)を調(ととの)え、朝夕に酒を出してもてなしています。更に、馬にも粥(かゆ)や豆を食べさせ、3貫文で恐らく織物などを買い、引出物として渡したと記されています。」(同、前掲書)


(続く)

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