◻️580『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、福田史郎)

2021-09-24 23:16:21 | Weblog
580『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、福田史郎)

 福田史郎(1927~2017)は、玉野市の生まれ。その海岸から3キロメートルばかり離れたところにある、直島(現在は香川県、かつて近隣の島から堀りだされる銅鉱石の製錬所があった)に、鉱山技師の父親、勘四郎の職場があったという。やがて、家族とともに津山に移り、多感な少年時代を過ごす。
 やがては津山市立西中学校の数学教師にして、だんだんに青少年カウンセラー、教育評論家ともなっていく。さらには、教育現場における実践を基礎に、「鶴山塾」(津山市が1985年に開塾)での活動など、幅広い青少年教育に献身的にたづさわったことで、この地で広く知られる。
 その事例研究には、他に追随を許さないほどの、自身の体験に裏付けられた説得力が感じられる。ここでは、そんな福田の60代の頃における報告の中から、一つを紹介しよう。

 「後進性を十分に脱した近代(文明)社会の中では、知識的、階級的な彼岸へのかけがいなき門戸という学校のイメージは、もはや成り立ちえない。そのうえ、学校がそこに根づき下から学校を支える基盤となっていた自然(地縁血縁)的な地域共同体も、近代化の帰結として解体してしまっている。この傾向に徹底的な追討ちをかけたのが、国庫補助による学校統合の嵐であったことは、記憶に生々しい。これが不登校増加をはじめ、今日の学校における失調現象(どの子にも生じうる)の本質的背景ではなかろうか。(中略)
 『風の又三郎』(宮沢賢治)のなかに、次のような一節がある。「九月一日の朝でした。『ほう、おら一等だぞ。一賞だぞ。』とかわるがわる叫びながら大悦びで門を入って来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔もしらないおかしな髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っているのです。そしてその机といったら、まったくこの泣いた子の自分の机だったのです。」
 かつては『風の又三郎』であったものが、今日では「いじめ現象」として現れてくるのは、教室で子どもたちがある対象に対してなんらかの違和意識を抱いたとき、それが「不思議」や「おそれ」として体験されえず、端的に「違和」(異物)としてしか体験されない傾向が大きくなったためではなかろうか。
 そのため、今日の「いじめ現象」は、たんに支配や攻撃ではなく、「(異物)の排除」という構造を大きな特徴としてもつ。「排除」は出口なしの体験である。今の「いじめ」がときに、子どもを死にまで追いやるのはこのためにちがいない。」(福田史郎(美作部落研副会長)「事例に思う、青少年問題の背景と課題」、「問題調査、研究」1995年2月号)


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 また、学校という空間との関わりで、こうも言われる。

 「学校は集団や組織として必要な要素があると同時に、その学校に人間としてどうしても必要な要素がある。学校に対する「私事化」の動向が強くなる中で、子どもたちが納得して我慢したり耐えたりするに足る何かを子どもたちに示すこと、そのためには、プライベート・スペースの拡大不可視空間の拡大と、それによる学校という集団・組織が子どもたちに期待し要請する課題遂行機能(全体化機能)からの離脱の保証が必要である。但し、離脱というのは逸脱ではない。(中略)
 いま一つ子どもたちの参加空間が大切なのではないか。日本では社会に開かれた「私」と「私」が共同の生活を営むという公共性の概念が育たないままきているために、他の文明諸国に比べて、公共性や共同性への関心が低い。その結果、どうしても参加空間が形骸化してしまう。学校では学級集団や学校社会といった共同性の場が崩壊している。「いじめ」の現場における「傍観者」の存在が、もっと象徴的にそれを示している。

 
 個性的なあり方と社会的なあり方とが切磋琢磨できる場としての参加空間があれば、その中で開かれた個が育っていく。いじめの問題においても、不登校の問題においても、さけることのできない問題提起、それが「共同性に開かれた個我を育てること」であろう。これは、あまりにも公共性・共同性を無視した個我のあり方がすすみ過ぎる日本社会の課題でもある。」(福田史郎(美作部落研究所副会長)「事例に思う、青少年問題の背景と課題」、問題研究所「問題」1994年10月号、No.112に所収のものから引用)

(続く)

 

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232『岡山の歴史と岡山人』玉野市

2021-09-24 08:22:49 | Weblog

232『岡山の歴史と岡山人』玉野市

 玉野市は、岡山県の南端、児島半島の付け根にある、玉野港を玄関として発達した臨海工業都市だ。市域は約104平方キロメートルで、約6割が山地、残りが平野部だという。やや東西に細長く、北部は秩父古生層地帯、南部の海岸部には花崗岩質の山麓が連なる。

 ぐるっとの海岸線は相当に複雑にして、そのあたりの平地は多くない。海水浴や潮干狩りで、かねてから県民、観光客に親しまれてきていた渋川海岸もある。近年は、海岸部の埋立造成地を中心に、岡山や倉敷に通う人びとの住むベッドタウンがひろがる。中でも平野部の七区地区は児島湾を埋めたて形成されたという。

 そんな玉野市の沿革などについては、これまで様々に紹介されてきていて、例えば、こうある。

○「岡山県の南端、児島半島の東南部に位置する玉野市は、造船工業地の玉地区と海の玄関口の宇野地区を合わせて生まれた都市である、明治初年までは漁業と塩田の一寒村に過ぎなかったが、1909年(同42年)に宇野港が完成して四国との連絡が容易になり、1919年(大正8年)に玉地区に三井造船所が創業して、このかた造船業とその関連産業が発達した。」(本間信治「にっぽん地名紀行」、新人物往来社、1992)

 同じことだが、1917年(大正6年)、児島郡日比町の玉地区において三井造船の前身としての三井物産造船部が創業されて以来、人口が急増し、産業構成なども拡大してきていた。そして迎えた1940年(昭和15年)に、児島郡の宇野町と日比町が合併したものである。

 瀬戸内海に面するこの地域だが、その気候としては、年間平均気温は15.9度で温暖かつ、年間で1479.5ミリメートルというから、県北よりはかなりしのぎ易いようだ。とはいえ、2018年7月の西日本豪雨の被害はこれまでの常識をくつがえすものであったろう。
 2019年現在の人口は約6万3千人だというものの、かつての高度成長期のような「企業城下町」のような賑わいは感じにくい。それでも、かつての基幹産業である造船業、鉱業などは息を吐いており、観光業などの新しい産業も育ってきているという。第一次産業でも、かねてからの農業に加え、地域住民のアイデアで特色ある加工品が登場し「お宝たまの印」としての玉野ブランドを認定しているとのことであり、頼もしい。
 交通ということでは、国道30、430号を骨格として、体系的な道路網が形成されているというし、鉄道ではJR宇野線が走り、バスでは路線バスが運行され、市内の要所を結び、さらに地域間交流促進を目的にコミュニティバスも運行されてもいると聞く。

 それが今、人びとの耳目を集める、次のようなニュースが伝わる。

 「宇高航路(玉野市・宇野港―高松港)を唯一運航する四国急行フェリー(高松市)は11日、12月16日からの航路休止届を国土交通省四国運輸局に提出した。同運輸局は受理した。宇高航路は1910(明治43)年に国鉄連絡船が就航して以来、本州と四国を結ぶ主要航路だったが、109年で歴史を閉じる。瀬戸大橋との競合などで業績が悪化し、維持が困難になった。(中略)

 同社によると、2014年の瀬戸大橋料金水準引き下げなどの影響でフェリー離れが加速。利用者が少ない夜間・早朝便の廃止などコスト削減を進めたが、岡山、香川県と玉野、高松市から補助金を受けても収支が改善しなかったという。

 同航路にはグループ会社が1956年に参入。四国急行フェリーに移管された2013年度は1日22往復し、年間約43万人が利用した。減便を重ね、18年度は5往復、約14万人にまで落ち込んでいた。

 宇高航路は瀬戸大橋開通直後は3社が運航していたが、12年までに2社が撤退していた。(2019年11月11日付け山陽新聞デジタル版)

 さて、ここでの農業での話を一つ、紹介しよう。岡山市の灘崎町と玉野市の一部を指して備南地区と呼んでいて、このあたりの大方は、児島湾の干拓地でできている。ここで生産される千両ナスは、農家の大事な収入源だ。このナスの特徴としては、包丁を入れると、濃い紫色の切り口が出るのだ。この一帯が干拓地であるため、土壌は粘土質で粘り気とミネラル分を多く含んでいる。なので、モチモチ感があって美味しいとの評判とのこと。これが当たって、急速に作付け面積が拡大してきたらしい。


(続く)

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