447に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇垣一成)
宇垣一成(うがきかずしげ、1868―1956)は、戦前軍人(陸軍大将)で、政治家。
磐梨郡大内村(現在の岡山市東区瀬戸町)のうまれ。1890年(明治23年)に陸軍士官学校卒業する。1900年(明治33年)に陸軍大学校を卒業すると、参謀本部員となり、主に、軍事研究のため日露戦争前後に二度ドイツに駐在する。
帰国しての1913年(大正2年)には、山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の下、軍部大臣現役武官制廃止に反対の立場をとる。
宇垣一成(うがきかずしげ、1868―1956)は、戦前軍人(陸軍大将)で、政治家。
磐梨郡大内村(現在の岡山市東区瀬戸町)のうまれ。1890年(明治23年)に陸軍士官学校卒業する。1900年(明治33年)に陸軍大学校を卒業すると、参謀本部員となり、主に、軍事研究のため日露戦争前後に二度ドイツに駐在する。
帰国しての1913年(大正2年)には、山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の下、軍部大臣現役武官制廃止に反対の立場をとる。
1916年(大正6年)には、参謀本部作戦部長となる。1918年には、シベリア出兵方針の策定にあたる。これは、革命ロシアに干渉して、あわよくば海外領土を広げようとの目論見であったろう。
その後、陸軍大学校校長を皮切りに、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣の陸相となり、加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣と留任する。
その後、陸軍大学校校長を皮切りに、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣の陸相となり、加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣と留任する。
この間、4個師団を廃止し、経費節減分を戦車、飛行機など装備の充実にあて、軍の近代化を図り、同時に学校教練、青年訓練所制度を実現したという。
1929年(昭和4年)には、浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣の陸相となるも、1931年(昭和6年)には、陸軍有志の「桜会」を中心とするクーデター計画である三月事件に関与したとされ、事件後に陸軍大臣を辞職する。
もっとも、その理由について、「宇垣自身はーー三月事件のとき、軍隊を動かすことに反対したと強調している」(大内力「ファシズムへの道」中央口論社版の「日本の歴」シリーズ24、1967)とされ、そのことから、真相は現在に至るまで行方知れずのようである。
もっとも、その理由について、「宇垣自身はーー三月事件のとき、軍隊を動かすことに反対したと強調している」(大内力「ファシズムへの道」中央口論社版の「日本の歴」シリーズ24、1967)とされ、そのことから、真相は現在に至るまで行方知れずのようである。
その後は、1936年ま(昭和11年)で朝鮮総督となる。一説には、「ともかく、これによって宇垣は一度に全軍の信望を失ってしまった」(同)とも。
1937年(昭和12年)には、広田弘毅(ひろたこうき)内閣の総辞職後、組閣の大命を受けるも、陸軍が反対するなどがあり、組閣を流産してしまうことが起きる。同年2月にできた林銑十郎内閣が4か月の短命で倒れて、近衛文麿内閣(第一次)が6月に成立して、7月に勃発の盧溝橋事件が起きる。9月になると、政府は、それまで使用していた「北支事変」の名称を「支那事変」と改名して、日本が中国との全面戦争に入ったことを国民に印象付けた。
その近衛内閣は、徐州会戦(1938.4)後に大改造を行い、宇垣は外務大臣になる。宇垣の対中政策は、他の軍人に見られない慎重なもので、蒋介石を警戒しながらも、戦争終結のためには国民政府を相手にせず声明にとらわれないことが先決、というものであった。
ところが、近衛からすれば、「宇垣には倒閣の意図があると推察せらるる」となったようで、結局、宇垣は1938年(昭和13年)9月に辞表を提出する。かくて日本の政局は、宇垣が得意とするような「深慮遠望」の策を突破して、ひいては対米英戦争への道に入っていくのである。
(続く)
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1937年(昭和12年)には、広田弘毅(ひろたこうき)内閣の総辞職後、組閣の大命を受けるも、陸軍が反対するなどがあり、組閣を流産してしまうことが起きる。同年2月にできた林銑十郎内閣が4か月の短命で倒れて、近衛文麿内閣(第一次)が6月に成立して、7月に勃発の盧溝橋事件が起きる。9月になると、政府は、それまで使用していた「北支事変」の名称を「支那事変」と改名して、日本が中国との全面戦争に入ったことを国民に印象付けた。
その近衛内閣は、徐州会戦(1938.4)後に大改造を行い、宇垣は外務大臣になる。宇垣の対中政策は、他の軍人に見られない慎重なもので、蒋介石を警戒しながらも、戦争終結のためには国民政府を相手にせず声明にとらわれないことが先決、というものであった。
ところが、近衛からすれば、「宇垣には倒閣の意図があると推察せらるる」となったようで、結局、宇垣は1938年(昭和13年)9月に辞表を提出する。かくて日本の政局は、宇垣が得意とするような「深慮遠望」の策を突破して、ひいては対米英戦争への道に入っていくのである。
(続く)
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