112『岡山の今昔』明治時代の商業の発展(岡山市の場合)
明治維新で新政府が樹立されると、1871年(明治4年)には、各藩の百姓や町人への扶持(ふち)、それに地子・町役免除などが禁止となる。そればかりか、政府は、1873年(明治6年)には、大名貸しのうち1843年(天保14年)以前の旧債は無効とし、1844年(弘化元年)から1867年(慶応3年)に出された新債は、元金は3年間据え置き、年利息4%・25年賦(ねんぷ)とする決定を下す。
これにより、全国の、武家の「御用達たちは、扶持米、永納銀の見返り米の大半を失う。特に、後者の範疇での大名貸しの多い豪商たちの証文たるや、ほとんどの債権を失うほどの損害を受ける。かくて、岡山城下町を本拠地とする名うての商人たちも、彼らの多くは、没落への道を転がり落ちていく。
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かくて、これとは対照的なのが、藩体制から距離をおいてきた中堅商人、村方の役人や地主(豪農など)であって、維新の後に資金をかき集め、また所有の田畑・山林・塩田などによって経済力を保ち、拡大していく。また、かれらのなかでは、おりからの自由民権運動や選挙に出るなど、政財界において力を発揮する者が相次ぐ。
それからも、浮き沈みとしての景気循環がありながらも、特に、日清戦争の勝利で当時としては莫大な賠償金が入ってきた全国各地では、未曾有の活況を迎える。
あわせて、同年の岡山市の商家数をみると、全体数3253人のうち、穀物の商いをするのが350人、同菓子320人、同煙草293人、同古道具293人、同古着233人、同魚類166人、同荒物166人、同酒130人、同呉服太物124人、同八百屋144人などとなっていて、「これは、例えば玉島が上位に麦稈真田(ばっかんさなだ)、肥料があるのと比較すると、岡山市の消費物資集散地としての性格が明らかとなる」(神立前掲論文)とされている。
(続く)
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