◻️112『岡山の今昔』明治時代の商業の発展(岡山市の場合)

2021-09-27 19:22:57 | Weblog

112『岡山の今昔』明治時代の商業の発展(岡山市の場合)

 明治維新で新政府が樹立されると、1871年(明治4年)には、各藩の百姓や町人への扶持(ふち)、それに地子・町役免除などが禁止となる。そればかりか、政府は、1873年(明治6年)には、大名貸しのうち1843年(天保14年)以前の旧債は無効とし、1844年(弘化元年)から1867年(慶応3年)に出された新債は、元金は3年間据え置き、年利息4%・25年賦(ねんぷ)とする決定を下す。  

 これにより、全国の、武家の「御用達たちは、扶持米、永納銀の見返り米の大半を失う。特に、後者の範疇での大名貸しの多い豪商たちの証文たるや、ほとんどの債権を失うほどの損害を受ける。かくて、岡山城下町を本拠地とする名うての商人たちも、彼らの多くは、没落への道を転がり落ちていく。

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 およそこのようにして、岡山で活躍していた豪商のかなりが大損をしたといっても、およそこのようにして、岡山で活躍していた豪商のかなりが大損をしたといっても、ほどなくしての資本主義の成立史においては、資本に転化する貨幣がどのように蓄積されたかは欠かすべからざる論点であるに違いない。

 かくて、これとは対照的なのが、藩体制から距離をおいてきた中堅商人、村方の役人や地主(豪農など)であって、維新の後に資金をかき集め、また所有の田畑・山林・塩田などによって経済力を保ち、拡大していく。また、かれらのなかでは、おりからの自由民権運動や選挙に出るなど、政財界において力を発揮する者が相次ぐ。
 
 
 しかして、彼ら新興勢力による、維新後しばらくしての諸々の産業の勃興を認めない訳にはいかないだろう。やがて、1886年(明治19年)下半期からは、いわゆる「松方デフレ」をようやくぐり抜け、日本資本主義は、企業勃興期に入る。その中では、鉄道、紡績、鉱山などを中心に投資が盛んに行われていく。1989年(明治22年)に市制施行の岡山市も、その例に漏れない。

 それからも、浮き沈みとしての景気循環がありながらも、特に、日清戦争の勝利で当時としては莫大な賠償金が入ってきた全国各地では、未曾有の活況を迎える。

 ちなみに、1898年(明治31年)における岡山市の物産県外移出入たるや、移出は岡山県全体の30.3%、移入は同33.9%を占め、県下最大の移出・移出地となっている。
 また、品目別でみると、経済学者(神立春樹)の論文には、こう書かれている。
 
 「この岡山市は、移出は糸類及びその原料(個別品目では繰綿)がさらに抜群に大きく、普通農産物(同じく米)もいっそう大きく、他方、移入は、普通農産物(同じく米)が抜群に大きく、ついでその他雑品、織物及び同製品が大きく、糸類及びその原料(個別品目では綿糸)が極端に小さい。すなわち、岡山市は綿糸、米の移出が大きい岡山県の産業構成の特徴を示しているが、その原材料の移入は小さく、そして米、呉服太物、そしてその他雑品が大きく、最大の消費都市であり、この消費物資の集散地であることが示されている。」(神立春樹「明治期の岡山市における商工業の展開」岡山大学経済学会雑誌24(1))、1992)

 あわせて、同年の岡山市の商家数をみると、全体数3253人のうち、穀物の商いをするのが350人、同菓子320人、同煙草293人、同古道具293人、同古着233人、同魚類166人、同荒物166人、同酒130人、同呉服太物124人、同八百屋144人などとなっていて、「これは、例えば玉島が上位に麦稈真田(ばっかんさなだ)、肥料があるのと比較すると、岡山市の消費物資集散地としての性格が明らかとなる」(神立前掲論文)とされている。


(続く)

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◻️203『岡山の今昔』歴史的現在から見据える岡山の近未来(産業など)

2021-09-27 08:29:51 | Weblog
203『岡山の今昔』歴史的現在から見据える岡山の近未来(産業など)
 
203『岡山の歴史と岡山人』岡山の近未来(歴史的現在からの視点、産業など)

 岡山の未来について考えるには、どんなふうにしたらよいのだろうか。そして今は、その地域にまつわる話と、これからの筋道につての何らかの価値創造性とがうまく折り合いをしながら、ともに進んでいく環境っくりとが、大事だと考えている。ここでは、この課題を考える際に、参考になりそうな指標を取り上げ、その有効性に、ついて、ごく大まかに検討してみたい。

 最初に、SDGsというのは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称であり、日本での略称としては「SDGs(エス・ディー・ジーズ」が当てられている。
 ここでいうSDGsとは、2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標である。
 あわせて、このSDGsが採択されたときに、国連の壁にプロジェクションマッピングで模様を施したものが、17の大きな目標と、それらを達成するための具体的な169のターゲットで構成されている。
 その中身でまず飛び込んでくるのは、貧困や飢餓、健康や教育、さらには安全な生活環境(わけても水)など開発途上国に対する支援も取り上げられており、未来への全世界的な運動であることがわかる。
 しかし、日本では、このところマスコミなどでしばしば取り上げられる割には、実際には、日本の子どもの6人から7人に1人が貧困だと言われており、またジェンダー平等に関しても2020年12月に世界経済フォーラムで発表された数字によると153カ国のうち121位に留まっているという。


 そうなると、ここで取り上げたいのは、インターネットに「高梁市地域おこし協力隊」の募集記事が掲載されていて、現在の状況はどうなのか知れぬが、暖かみのある文章で、こうある。

 「あなたの「何かしたい」という想いと地域の「何かしてほしい」という気持ちは、ここにしかない地域資源が繋げてくれます。外からの目線と楽しむ気持ちで地域おこしにチャレンジしてみませんか。
 高梁市は、岡山県の中西部に位置し、豊かな自然と多様な歴史的・文化的遺産が息づくまちですが、人口減少や高齢化が進み、年々深刻な問題となっています。そこで、意欲ある地域外からの人材を積極的に受け入れ、新たな視点・発想により高梁市の地域資源を再発見し、地域の元気づくり、集落の維持・活性化を図っていくために、次のとおり「地域おこし協力隊員」を募集します。高梁市での地域おこし活動に意欲・興味のある方、将来高梁市内において起業、就業する思いを持った方などの応募をお待ちしております。」

 この募集で求められるのは「IT人材」のようであり、同市との雇用関係はないものの、月額で20万円が支給され、家賃の補助も付く、年齢はおおむね40歳までとされ、求人数は1名というから、狭き門なのだろう。
 実際の仕事はどうなるのだろう、一般的には、この範疇では、数え上げられられないほどのテーマが考えられるのかもしれない。

 例えば、「仮想空間」と呼ばれるものがあって、市内に無線LANを使える空間・場所がどのくらいかあると、ネット空間上に情報共有のための、開かれた場にアクセスすることができるという。そこでテーマの選択そして進捗の様子、これからの方向性をその都度載せてくれたならば、市民の多くがその情報を得ることにつながるのではないだろうか。

(続く)

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◻️252『岡山の今昔』津山市(産業など)

2021-09-27 06:09:44 | Weblog

252『岡山の今昔』津山市(産業など)

 現在の津山市は、岡山県の北部、津山盆地とその周辺から成り立っている。現在の津山市は、2005年2月28日をもって、旧津山市と勝北町、久米町、加茂町、それに阿波村が合併して誕生した。総人口は約10万人だという。

 地理では、北は鏡野町、鳥取県と接す。東には美作市、南にかけては久米南町(久米郡)、西には真庭市。

 その成り立ちでは、古くから美作地域の中心である。713年(和銅6年)の4月に備前国から離れ、現在の津山市総社に美作国(みまさかのくに)の国府が置かれた。それからかなりの時が経過しての江戸時代には、津山城の城下町となる。そして、1876年(明治9年)4月には、北条県が岡山県に合併吸収された。

 思えば、713年(和銅6年)の4月に備前国からから離れて以来1163年ぶりのことであった。続いての1900年(明治33年)には、津山町と津山東町が合併して、第二次の津山町がスタートした。

 この地域における近代産業の展開ということでは、美作域内での繊維大手としては、津山市二宮を本拠地とする郡是グンゼが、1916年(大正5年)、グンゼ株式会社津山工場として設立し、生糸の生産を開始する。

 同社の場合、それが第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

 さらに時代が変わっての市制施行は、1929年(昭和4年)のことであった。

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 第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、産業の復興がなされていく。繊維に、ついていえば、前述の郡是が、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

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 それから、現在につながる合併から10年を迎え、市では、かねてからの新生津山キラめきプラン(津山新市建設計画)や津山市第4次総合計画などでを推進してきた、それを今後の津山市の施策へ繋げてゆくため、合併10年間の成果と課題をまとめた「合併10年の総括と今後の展望」を作成したという。

 続いて、美作の若手を育てる企画から、一つ紹介しよう。
 「美作地域に活力を生み出そうと、若手の起業家や農業者、建築士らによる交流組織「みま咲く未来プロジェクト」が6日、発足した。若者たちが連携できる取り組みを通じ、若者らの定着や、より活躍できる地域づくりを目指す。

 地域の将来像を展望した「みま咲く未来シンポジウム」(11月18日・津山市)でコーディネーターやパネリストとして登壇したウェブサイト制作などのレプタイル(同市)の丸尾宜史社長(37)ら6人で構成する企画会議を同市内で開催。交流組織の立ち上げを決め、組織の在り方や活動内容を話し合った。
 名称は、若者らを支援しようと、シンポジウムや本紙作州ワイド版の連載「この地に生きる―作州の若手」を展開した美作県民局と山陽新聞津山支社による「みま咲く未来プロジェクト」と同名にし、代表に丸尾社長を選んだ。
 今後、組織を紹介するホームページを作成。企画会議に学生らより若い世代のメンバーも加え、具体的な取り組みについて検討していくことなどを申し合わせた(2019年12月6日 、山陽新聞デジタル)。
 これにあるのは、新しい頭脳の一つとしての交流部門の誕生なのだろうが、是非、吉備高原都市構想などの、県内の優れた経験にも取材してほしい、みんなの力を合わせることで頑張ってほしい。

   

(続く)

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