新177○○161の4『自然と人間の歴史・日本篇』厳島の戦い(1555)と川中島の戦い(1561)
戦国時代最大規模の戦いということでは、何があるのだろうか。やはり、それには、後への影響も含めて広い視野に立った検討が求められるのではないだろうか。
まずは、安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の戦いをかいつまんで紹介しよう。そのきっかけとしては、1553年、毛利元就は、主君の大内義隆(おおうちよしたか)を下克上で討った陶晴賢(すえはるたか)に対し、兵を挙げる。やがて、毛利軍は、宮島に宮ノ尾に城を築く。その頃、すでに、数に勝る陶軍をおびき寄せて叩きたいと考えていたのかもしれない
そして迎えた1555年10月1日の未明、陶軍の約2万人の軍勢に対し、毛利軍の約4千人の兵は港を出て、包ヶ浦に上陸を果たす。
この航海においては、暴風雨の中、先頭の船だけに灯りをともす。味方には、兵の数に怯(ひる)まないだけの士気が上がっていたようだ。
それからの毛利軍は、博打尾根を超え、敵の本陣のある塔の岡をつく。そうはいっても、陶軍は、軍備を完全にほどいていた訳ではあるまい。それとも、何かに気をとられていて気がつくのが遅れたのだろうか。そこらあたりのところは謎に包まれているような気がしてならない。
ともあれ、一説には、陶軍は不意を衝かれて抗戦するも、四方八方に敗走し、晴賢は大江浦(おおえのうら)まで逃げむも、自刃したという。
その実、元就の1557年(弘治3年)の自筆書状においては、「さては、厳島において、いよいよ大利を得る寄端にて候や。藻となり罷り渡り候時、かくの如きの仕候間、大明神御加護も候と、心中安堵候つ。然る間、厳島を皆々御信仰肝要本望たるべく候」と記されている(小和田哲男「戦国武将の手紙を読むー浮かびあがる人間模様」中公新書、2010より引用)。
ともあれ、この一戦で毛利氏の中国地方での躍進が始まったことはいうまでもなく、毛利氏の勢力拡張にかける夢は西へ、播磨や摂津そして畿内、さらに都のある京都の方へと伸びていく。
一方、信玄の動機としては、当時相模の北条氏康、駿河の今川義元と甲相駿3国同盟を締結していたことで、北や西にじわりじわりと進出したい話ではなかったか。とりわけ、川中島地方の穀倉地帯、ひいては海のある越後への足掛かりを求めたのではないかとも。いずれにしても、それらしき史料は見つかっておらず、推測の域を出ない。
そこで戦いの模様だが、一説には、軍師の山本勘助の提案で、兵を2手に分けて、信玄の率いる本隊の約8千人は八幡原(はちまんばら)に布陣し、別働隊の約1万2千人が妻女山(さいじょざん)の裏手へ向かう。後ろから山にいる上杉軍を平野に追いおとす。そこを謙信軍を待ち伏せて「挟み撃ち」にするとの作戦であったという。
ところが、事は思惑通りにゆかない。誰が気がついたのか、海津城(かいづしょう)からの炊煙の量が増えているではないかと。謙信が武田方の作戦を見抜いたのは、流石だ。
つまるところ、謙信の上杉軍は、夜の間に妻女山を降り、八幡原に布陣する。そして深い霧が晴れると、向こうに謙信の軍が現れたのだろう。
そのうちに上杉の攻撃が始まると、驚いた側の武田軍は柵を設けていなかったのであろうか、あれもこれもが響いて味方は劣勢となる。突き進んでくる敵は武田軍の陣営深くに達し、信玄の弟で副将の武田信繁(たけだのぶしげ)、軍師の山本勘助(やまもとかんすけ)などの名だたる武将が討ち死にしてしまう。
さても、この戦いの後半では、武田軍の別働隊が、攻め込んだ妻女山がもぬけの殻なのに気付き、八幡原に引き返してくる。やがて、上杉軍はそれ以上の突撃を諦め、引き返してゆくのであった。
そこで真に驚くべきは、その死者は約4千人を超え、死傷者が約8千人にも及ぶ、そこまでなる前にどちらも撤退しなかったのは、濃霧で大混戦になり、いたずらに死傷者を増やしたためもあったのではないか、と言われている。
ちなみに、かたや上杉謙信(1530~1578)本人は寡黙の人であったのではなかろうか、それでは彼の好敵手と伝わるもう片方の人物は、戦いというものをどのように見ていたのだろうか。
江戸時代に編纂された「甲陽軍艦」によると、武田信玄(1519~1574)の言葉として、「勝負の事、八分の勝はあやうし。九分九厘の勝は味方大負(おおまけ)の下作也(したつくりなり)」(品39)、「四十歳より内は、勝つように。四十歳より後は負(まけ)ざるように」(同書品39)などは、大勝は望まないとしてあるのは、有名である。これは、そのことが植え付けてしまうであろう慢心を戒めるのはむろんのこと、「また軍略だけでなく、信玄が戦に臨む上での処世訓のようでもある」(萩原三雄ほか8人の専門家による執筆にての「武田信玄入門」山梨日新聞社、2021)
そして現代に至るも、ここまで冷静に戦いについて述べることができる人物というのは、日本史に限っては、他に類を見つけられないようにも感じられる。
(続く)
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