558『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、手塚亮)
手塚亮(てづかあきら(りょう?、まこと?)、1905~1999?)は、詩人だ。社会派、その中でも戦前の言葉で言えば、プロレタリア文学者の系統をいうのではないか。だとしたら、時代は元には戻らない、だからして、今日の作家たちが、発想の真似をしようとしても、それは叶えられぬ夢物語なのかもしれない。
しかして、その生まれは東京市、しかも下谷津の下町だという。父は、牧師、母もクリスチャンである。生家は、不忍池の湖畔がふるさと、ということにもなろう。後年の本人いわく、「その日上野の社は桜花らんまん、朝から花火が上がっていた。ただしぼくの誕生を祝ってではない。上野公園で乃木将軍の凱旋祝賀式の当日だった。(中略)このことを父から何度も聞かされた」と。
1912年(明治42年)には、名古屋で小学校に上がっている。父親の転勤があったのではないか、という。やかての1924年(大正13年)には、上京し上智大学に入学する。青春真っただ中であり、ドイツ語をやろうというのであったようだ。
それからしばらくたつと、この青年は社会運動に目覚め、当日の言葉でいうならば、「無産階級運動」へ参加していく。そして迎えた1927年、俗にいう「昭和恐慌」以降の暗い時代、そういう時代の変わり目に、学生をやめて、印刷工場の見習い工として働く、そのうちに雄弁さや頭の回転を買われてであろうか、日本労働評議会(全協)加盟の印刷工場の労働組合の委員長となるのである、
手塚亮(てづかあきら(りょう?、まこと?)、1905~1999?)は、詩人だ。社会派、その中でも戦前の言葉で言えば、プロレタリア文学者の系統をいうのではないか。だとしたら、時代は元には戻らない、だからして、今日の作家たちが、発想の真似をしようとしても、それは叶えられぬ夢物語なのかもしれない。
しかして、その生まれは東京市、しかも下谷津の下町だという。父は、牧師、母もクリスチャンである。生家は、不忍池の湖畔がふるさと、ということにもなろう。後年の本人いわく、「その日上野の社は桜花らんまん、朝から花火が上がっていた。ただしぼくの誕生を祝ってではない。上野公園で乃木将軍の凱旋祝賀式の当日だった。(中略)このことを父から何度も聞かされた」と。
1912年(明治42年)には、名古屋で小学校に上がっている。父親の転勤があったのではないか、という。やかての1924年(大正13年)には、上京し上智大学に入学する。青春真っただ中であり、ドイツ語をやろうというのであったようだ。
それからしばらくたつと、この青年は社会運動に目覚め、当日の言葉でいうならば、「無産階級運動」へ参加していく。そして迎えた1927年、俗にいう「昭和恐慌」以降の暗い時代、そういう時代の変わり目に、学生をやめて、印刷工場の見習い工として働く、そのうちに雄弁さや頭の回転を買われてであろうか、日本労働評議会(全協)加盟の印刷工場の労働組合の委員長となるのである、
そんな波乱万丈な生活を送ってきている手塚なのだが、戦前・戦中の大いなる活動期のものから、戦後にその頃を振り返ったり、美作に移ってからの新天地にて、ひいては1980年代位からの岡山詩人会議会員として、俗に「油の乗り切った」頃のものまで、かなりの幅広で考えてみたらいかがだろうか。
いずれにせよ、個性の強烈な人であるからして、ここでは最初に、勇ましい「クレムリンの赤旗」から、お目にかけよう。
「昭和初年 友人の大学生から
こんな話を聞いたことがある
クレムリンの塔のうえの赤旗は
風のない日でもいつも波うっているんだと
夜は夜で照明の中で泳いでいるんだと
コミンテルンの指導部は
万国の労働者の団結と勝利
その確信と不屈の闘志のために
朝夕インターのチャイムを響かせ
扇風機で風を送っているんだとも
クッペル・ホリゾント(注)に美しく翻る赤旗。
ぼくは筑地小劇場の舞台を連想した
扇風機仕掛けとは子どもっぽいが
こんな演出家がクレムリンにいるとは
にくい(傍点がつく・引用者)ではないか
いつか モスクワを訪れる機会があったら
このからくり効果は見て帰りたいものだが
レーニン廟の長蛇の列だけはごめんだ
銅像崇拝・人間性抹殺の迷演出
イリッチの遺体はクループスカヤへだ
クレムリンの塔で泳ぎつづけた七十四年間
鎌とハンマーのあの赤旗」は
居心地の悪さを嘆いたことはなかったか
元来その旗は一国で占有すべきものではない
全世界の被抑圧者解放の旗印なんだ
1991年夏 ついにその旗も
クレムリンの塔からおろされる時が来た
TVの映像にぼくは目を凝らした
ぬっと痩せた右腕が屋根裏から伸びて
じぼんだ旗をつかんで消えた
歴史的瞬間はあっけなく
札砲も寺院の弔鐘も群衆の叫喚も聞こえず
日常生活 ホンのひとこまの
キャベツの葉っぱ一枚
むしり取ったほどの演技だった」(「道標」65号、1992.5)
(注)クッペル・ホリゾントというのほ、舞台後方の丸くふくらんだ壁のこと。とはいえ、これに該当するのは、当時日本では築地小劇場しかなかったと言われる。
(続く)
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