◻️558『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、手塚亮)

2021-09-23 21:46:33 | Weblog
558『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、手塚亮)

 手塚亮(てづかあきら(りょう?、まこと?)、1905~1999?)は、詩人だ。社会派、その中でも戦前の言葉で言えば、プロレタリア文学者の系統をいうのではないか。だとしたら、時代は元には戻らない、だからして、今日の作家たちが、発想の真似をしようとしても、それは叶えられぬ夢物語なのかもしれない。 

 しかして、その生まれは東京市、しかも下谷津の下町だという。父は、牧師、母もクリスチャンである。生家は、不忍池の湖畔がふるさと、ということにもなろう。後年の本人いわく、「その日上野の社は桜花らんまん、朝から花火が上がっていた。ただしぼくの誕生を祝ってではない。上野公園で乃木将軍の凱旋祝賀式の当日だった。(中略)このことを父から何度も聞かされた」と。 

 1912年(明治42年)には、名古屋で小学校に上がっている。父親の転勤があったのではないか、という。やかての1924年(大正13年)には、上京し上智大学に入学する。青春真っただ中であり、ドイツ語をやろうというのであったようだ。 

 それからしばらくたつと、この青年は社会運動に目覚め、当日の言葉でいうならば、「無産階級運動」へ参加していく。そして迎えた1927年、俗にいう「昭和恐慌」以降の暗い時代、そういう時代の変わり目に、学生をやめて、印刷工場の見習い工として働く、そのうちに雄弁さや頭の回転を買われてであろうか、日本労働評議会(全協)加盟の印刷工場の労働組合の委員長となるのである、
 
 そんな波乱万丈な生活を送ってきている手塚なのだが、戦前・戦中の大いなる活動期のものから、戦後にその頃を振り返ったり、美作に移ってからの新天地にて、ひいては1980年代位からの岡山詩人会議会員として、俗に「油の乗り切った」頃のものまで、かなりの幅広で考えてみたらいかがだろうか。

 いずれにせよ、個性の強烈な人であるからして、ここでは最初に、勇ましい「クレムリンの赤旗」から、お目にかけよう。   

 

 「昭和初年 友人の大学生から
こんな話を聞いたことがある
クレムリンの塔のうえの赤旗は
風のない日でもいつも波うっているんだと
夜は夜で照明の中で泳いでいるんだと

 

コミンテルンの指導部は
万国の労働者の団結と勝利
その確信と不屈の闘志のために
朝夕インターのチャイムを響かせ
扇風機で風を送っているんだとも

 

クッペル・ホリゾント(注)に美しく翻る赤旗。
ぼくは筑地小劇場の舞台を連想した
扇風機仕掛けとは子どもっぽいが
こんな演出家がクレムリンにいるとは
にくい(傍点がつく・引用者)ではないか

 

いつか モスクワを訪れる機会があったら
このからくり効果は見て帰りたいものだが
レーニン廟の長蛇の列だけはごめんだ
銅像崇拝・人間性抹殺の迷演出
イリッチの遺体はクループスカヤへだ

 

クレムリンの塔で泳ぎつづけた七十四年間
鎌とハンマーのあの赤旗」は
居心地の悪さを嘆いたことはなかったか
元来その旗は一国で占有すべきものではない
全世界の被抑圧者解放の旗印なんだ

 

1991年夏 ついにその旗も
クレムリンの塔からおろされる時が来た
TVの映像にぼくは目を凝らした
ぬっと痩せた右腕が屋根裏から伸びて
じぼんだ旗をつかんで消えた

 

歴史的瞬間はあっけなく
札砲も寺院の弔鐘も群衆の叫喚も聞こえず
日常生活 ホンのひとこまの
キャベツの葉っぱ一枚
むしり取ったほどの演技だった」(「道標」65号、1992.5)

 

(注)クッペル・ホリゾントというのほ、舞台後方の丸くふくらんだ壁のこと。とはいえ、これに該当するのは、当時日本では築地小劇場しかなかったと言われる。
 
                            
(続く)


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◻️557『岡山の今昔人』岡山人(20世紀、小谷善守)

2021-09-23 08:13:34 | Weblog
557『岡山の今昔人』岡山人(20世紀、小谷善守)

 小谷善守(こたによしもり、1930~1999)は、津山市の生まれ。父親の勤務の関係で幼児期を神戸、東京で過ごす。
 1936年(昭和11年)の小学校入学時に津山に帰り、鉄砲町の津山城西教会に住む。ちなみに、同教会は、21世紀の現在においても、訪れて来る人を皆さんで実に優しく労り、なんだか居心地が良くなる、不思議な場所柄でもある。
 戦後の1948年(昭和23年)には、津山中学を卒業する。1952年(昭和27年)には、津山朝日新聞社に入社する。そして、いつの頃からか、歴史、特に郷土、中国地方の成り立ちから今日までを調べ、検討し、記述する作業を始める。
 1996年に津山朝日新聞社を退職してからは、(財)津山社会教育文化財団津山基督教図書館、津山科学教育博物館理事を務める。
その内には、自らのライフワークの集大成に向かっていたのではないだろうか。
 著作としては、現役記者の時代から津山朝日新聞紙上に「峠」「木地師の道」「鉄(たたら)の道」「出雲街道」などを連載していく。中でも、「出雲街道」は大作にて、変わりゆく現実に追われるかのような雰囲気の中で、本線ばかりでなく、周りのそこそこに足を伸ばし、古老などを尋ね歩いた。写真も含めて、集めた資料は自宅なりにうず高く積み上げられていたのではあるまいか。
 
 一連の著作群の中でもライフワークと言えるのが、「出雲街道」のシリーズであろう。その筆の運びに定評があるのはもちろん、興に誘われては、旅する本人の息遣いまでもが迫ってくるようであり、例えば、こうある。

 「旭川上流の高田(勝山)の川舟(高瀬舟)がいつごろまでさかのぼるのか。高田ー岡山間に高瀬舟が通ったのは、室町時代(1338~1573、足利氏が幕府を開いた時代)とする説もあるようだが、後の江戸期のような川舟通運ではなかったと思われる。先・三浦氏時代の旭川水運、特に高田ー岡山の通運は分からないが、西岸の本郷から東の高田村(勝山の町)まで、旭川を渡るのは、川舟があったとも思われるが、一般の村人は、徒歩渡りだったに違いない。
 美作西北部は、古くから明治まで、およそ旭川を隔てて東を大庭(おおば)、西を真島(まじま)の二郡に分かれているが、1900年(明治33年)4月、両郡が合併し、真庭郡になっている。
 高田村(勝山の町)は、高田城が築かれた北の如意山に続く旦(だん)と呼ばれている台地のふもとに、平野部が広がっている。西と南を旭川が流れ、東の久世町境は、旭川まで山が迫っている。旭川の西岸は、旧本郷、三田、組、横部村(現在は勝山町)になり、南岸は、旧草加部村(現・久世町)。山を旭川に囲まれた狭い盆地だが、旭川東岸の大庭郡内に入り込んでいるのが、真島郡高田村。
 東に続く旧久世村と同じように大庭郡になっていないのは、不思議だが、地形は、四方を山と旭川に囲まれ、独立している。大庭郡内に入り込んでいったのか、理由は不明だが、岡山・鳥取県の蒜山(ひるせん)を源にする旭川、支流となる新庄川が合流し、北の村々の出入り口に当たる位置。北の物資の集散地であり、人々の往来のかなめだったに違いない。」(小谷善守「出雲街道、活動ー久世」第2巻、「出雲街道」刊行会、2000)」

 なお、文中でに「先・三浦氏」というのは、14世紀に東国からこちらへ入ってきた、江戸時代の三浦氏とは異なる武士団をいう。


(続く)
 

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