◻️132『岡山の今昔』敗戦時の岡山市街、闇市、復興方針など

2021-09-19 09:28:02 | Weblog
132『岡山の今昔』敗戦時の岡山市街、闇市、復興方針など
 
 敗戦の少し前の1945年6月29日未明の、岡山市空襲の状況については、米B29爆撃機138機が岡山市上空に来襲し、焼夷弾(しょういだん)約9万5千発を投下したというから、驚くほかはない。
 これにより、亡くなった人が1700名以上(市史によると1737人とも)と言われる(別項で詳述)。その時の人々の主な死因は、直撃弾によるものばかりではない。火災による焼死のほか、防空壕や下水溝暗渠のなかでの圧迫死ないし焼死、それに窒息死も少なくなかったという。負傷者も、6000名以上というから、さながら地獄と化していたのであろう。
 また、建物や住居などの被害については、アメリカ軍のものを含めてかなり多くの写真が撮られていて、中心市街地の70%近くが焼失し、県庁や市役所は全焼、各官庁の出先機関も大方被災し、岡山城を始め寺院等の文化財・建造物もかなり多くが灰となった。
 民間の建物の中では、天満屋や岡山の交通網など、詳しくは岡山空襲展示室(北区駅元町)を訪れると、全体を俯瞰しての理解のはや道となろう。その状況は、つまるところ、廃墟のような有り様であって、市街地全域への集中爆撃ということでは名古屋などの被災風景なりと重なる部分があろう。
 
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 その頃、空襲と敗戦による経済の混乱とが合わさって、焼け野が原と化した岡山に闇市(やみいち)が出現した。
 というのも、市外への買い出しもかなりの程度あったろうが、大方は配給だけでは食べて行けなかったから、人々はかなり価格が高くとも、手を出さざるを得ない。それでこそ、栄養失調や病に倒れる、もしくは餓死を免れることができるだろうと。
 その主な場所としては、駅前は言うまでも無く交通の要所であった。後楽園前も、当時は西大寺鉄道が通っており、後楽園はその終点となる駅があり、こちらも人の動きが多くあった事があったろう。
 中でも、奉還町から上伊福(現在の北区、岡山駅から北へ向かって歩いて行ける)にかけてのエリアは、空襲で当時の県庁舎が焼失してしまっている。そのため、現在の岡山工業高校のある辺りに仮庁舎が作られており、出店が並ぶなどして賑わう。
 そんなうちにも、1946年(昭和21年)9月、現在でも市街地にある岡ビルの地には、西川沿いに現在の「岡ビル市場」(現在の北区野田屋町)につながる「岡山マーケット」がオープンし、闇市と区別して、「お客さんが安心して買い物できる市場」、マーケットをスタートさせたと伝わる。
 
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 それからの岡山市の再建の様子については、色々あろう。参考までに、次にその一部を紹介する、当時の市長の「緒言」には、自戒を込めつつも、並々ならぬ決意が見てとれる。

 「緒言
 我国の都市の多くは、今日まで全く無秩序と言つてもいゝ様な状態で発達して来た。(中略)
 我が岡山市も維新以来無統制な都市形態を以て、発展変貌しつゝあつたのであるが、大正12年都市計画の指定を受け同年12月都市計画道路網が内閣の認可を得て決定せられ昭和三年事業に着手し昭和13年一応第一期事業と見るべきものは終つたのであるが、結論として満足すべきものではなかった。(中略)
 かくて戦争は終結した。洵(まこと)に不幸なことではあるが、一面今こそ思い切った、理想の都市を建設すべき絶好の機会である。将来の日本が平和国家、高度文化国家として、再び世界人類に貢献出来る日のある事を信ずる以上飽迄(あくまで)理想的計画を実施する必要がある。敗戦国の故を以て、将来の計画に対してまで卑屈であっては絶対にならない。
 今回の岡山市の復興計画は県、市、当局を主体として衆智を集め、研究しつゝあるのであるが、之(これ)は相当思ひ切った案である。之が実施の可能は当事者の誤らざる信念と不退転の努力にあることは申すまでもないのであるが市民各位の燃ゆるが如き愛郷の精神と互譲融和の精神とによって、当面する様々の隘路(あいろ)は克服され初めて此の一大事業は完遂せられるものである。そして我々は再建岡山市を期待しそれから生まれ出づる香り高き文化を我々子孫が享受し得る事を切に祈るものである。
 岡山市長 橋本富三郎」(岡山市復興局編「岡山市は如何に復興されるか」合同新聞社、1946、なお本人は翌年。GHQによる「第二次公職追放」(マスコミ関係を含める)の発令を心配したのであろうか、一身上の都合により市長職を辞任したという)
 

(続く)

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