◻️133『岡山の今昔』戦後の高度成長期へ

2021-09-20 22:02:33 | Weblog
133『岡山の今昔』戦後の高度成長期へ
 
 まずは、その前段の話(大まかな経緯)から始めよう。顧みると、敗戦直後の混乱状態から、なんとか早期に立ち直ったということでは、岡山県の人々、産業が持つ底力といおうか、大いなる努力が働いたに違いない。
 そんな中でも工業の再建はかなりのハイペースで行われたようで、下野岡山大学教授の論考には、こんな特色があるという。

 いわく、「(前略)1947年(昭和22年)の岡山県の工業生産を「岡山県統計年報」および「統計から見た過去20年の岡山県」に基づいて見ておくと、主要な業種としては木製品工業、食料品製造業、化学工業の順位で、生産額および製造品出荷額等では機械器具工業、紡織業、化学工業、食料品製造業、製材および木製品工業の順位となっている。
 また、重化学工業の占める比率を見ておくと、従業者数では34.7%、生産額では42.9%、製造品出荷額等では46.3%となっていて、1950年代はおろか1960年(昭和35)の状態より高いことがわかる」(下野克己「高度成長期の地域産業構造の変化ー岡山市と倉敷市の場合」)とされる。

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 一方、岡山市に比べ、紡職業の製造品出荷額等においてかなり大きいのが、倉敷紡績を擁する倉敷市であって、前者が39億2033万円なのに対し、後者のそれは70億5948億円となっている。同従業者数も、それぞれ3392人と7544人と差は大きい。ちなみに、倉敷市内の同事業所数は1092であるという。
 他にも、「第2位を占めている業種としては食料品製造業、印刷出版及び類似産業、第一次金属製造業、輸送用機械器具製造業の4業種があり、このうち玉野市が第1位を占めていると思われる輸送用機械器具製造業を除く3業種は岡山市に、つくものであった。」(下野、前掲論文)

(続く)


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◻️126『岡山の今昔』大正・昭和(戦前)時代の資本と労働(倉敷紡績を中心に)

2021-09-20 21:04:22 | Weblog
126『岡山の今昔』大正・昭和(戦前)時代の資本と労働(倉敷紡績を中心に)

 

 1888年(明治21年)3月には、倉敷紡績の総会が開催され、初代の頭取・大原孝四郎ということで、資本主義的な経営に打って出る。
 
 その4年後の1892年(明治25年)には、労働争議が発生している。これは、2年前からの干魃(かんばつ)による凶作で、米価が高騰し、労働者の生活が苦しくなった。そこへ会社の業績が回復して、操業短縮を解除してきていた。この状況に、労働者側は「職工同盟会」を組織し、賃金引上げを目指すも、ストは不発であり、若干の賃上げで終息する。

 1904年(明治33年)12月には、孫三郎が父・孝四郎から経営を引き継ぐ。それからは、次第に積極的な経営になり変わる。その手法としては、経営の多角化が有名であろう。そして、この本業分野でいうと、言うまでもなく、利益最大化を目指したといえなくもなかろう。

 けれども、孫三郎は、同時に、単に資本主義的な経営にとどまるのではなく、それに付随する、もしくは社会への影響についても、勤労国民の利益増進の立場から、可能なかぎり拾い上げようとしている、例えば、こんな話が伝わる。
 
 「従来倉紡には各工場に医局を設けていますが、未だ従業員の健康を保証するもので足るものであるとは申されず、現在の社会情勢から言いましても、より完全な施設を作り、従業員の健康上に遺憾なきを期することは、工業経営者として当然の義務と考えるのであります。そこでここに倉紡従業員1万人の健康を保証するに足る設備を施し、同時に之を公開して一般の医療機関とするため、当病院の建設を決意したのであります。
 一般公開のことについては、将来工場を社会化させるという意味もあり、殊(こと)に紡績職工といえば、社会からまだ異様な目で見られている現在において、わが社が、職工を人として、平等の人格を認めて待遇していることを示す一事実と致しまして、ここに開放された病院において一般人と同じく平等な取扱を為すことは、可成り意義あることであると信じます。なお、他の理由と致しましては、先年当地方に感冒が流行した際、庶民階級の人々に対しては医療の方面に甚だ不行届であったことを目撃し、人道上捨て置き難い大事であると痛感し、一日も早く庶民階級を中心とした病院を設立しなければならぬと考えた次第であります。」(倉敷紡績株式会社社史編纂委員編「回顧六十五年」倉敷紡績、1953)
  1927年(昭和2年)には、全国的に金融破綻が相次ぎ、1929年に勃発した世界大恐慌に入ると、日本経済は大不況に入る。倉敷紡績もその、あおりを受け、輸出不振が響き、経営赤字に転落する。これに対して、役員報酬の減額、倉紡中央病院の独立などの合理化を図るも、状況は悪化するばかりで、人員整理で労働争議も起こる。
  1932年(昭和7年)、ようやく為替が円安に転じて輸出が伸び始め、倉敷紡績も不況のトンネルを脱していく。おりからの人絹ブームで倉敷絹織も、順調に発展する。そんな新たな波に乗る形で、1935年(昭和10年)、大原資本(財閥)は1935年(昭和10年)には、倉敷毛織を設立する。1939年(昭和14年)、孫三郎は息子の總一郎に経営を譲る。
 
 
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 会社とグループは、孫三郎の代となってからは、積極的な経営で、日本資本主義の中での力を伸ばしていく。だが、世界大恐慌など外からの影響で、それまでのやりくりが、通用しなくなる。
 1930年(昭和5年)には、倉敷紡績でかなりの規模のストライキが起きる。こうなったのは、経営側が不況の到来を理由に人員整理を行おうとしたことから、労働者の福利厚生も含めた不満、怒りが爆発した。会社側は、一部の「急進分子」のスト扇動をいうのだが、正しくない。案の定、同年9月には、職工の「首切り」と賃金引下げが出てくる。
 そして迎えた同年10月末には、これらを押し戻そうとする労働者620人がストライキに突入し、職場の大講堂に立て込もったりで抵抗する。一夜明けると、会社側は官憲(警察、ガードマンなど)に守られて、かれらの要求を拒絶して譲らない。そうしたなりふりかまわぬ圧力が効いてか、労働側の態度が軟化したのに、長期勤続者への退職者手当の支給を決めたりして、同年11月には、なんとか双方が折り合い、このストライキは終息する。


(続く)

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◻️119『岡山の今昔』明治時代の労働者・勤労国民の暮らし(自由民権運動との関わりで)

2021-09-20 09:30:00 | Weblog
119『岡山の今昔』明治時代の労働者・勤労国民の暮らし(自由民権運動との関わりで)
 
 明治に入ってからの岡山で最初に起こった大事件といえば、やはり血税一揆をあげない訳には行くまい。この一揆のあとの1874年(明治7年)には、北条県の小野参事(知事)は、地租を納める住民が参加する民会を発足させ、働く者の懐柔というか、融和策をとる。
 かかる民会は、町村会・区会・県会に分かれ、議会は選挙で選ばれる仕組みである。内容面では、議会での議論や決議は自由で、全国でも進んだ制度とも宣伝されたようだが、町村会・区会・県会は、各議会において某かを決議しても執行する権限はなく、そのままでは県庁の裁断を待つしかない。
 北条県内において、議会で取り上げられた事柄事を見ると、「新聞の件」や「税金・村の費用」から、「学校」「道路や用水」、さらに「娯楽」といった地域の暮らしに結びつく、あれやこれやの案件が取り上げられている。ちなみに、その「民会議事略則」には、こう記されていた。

 「一、民会議事の基本は言語をひらき上下の情を通じ天賦(てんぷ)の自由をとげ、もって厚生利用の権を得せしむる事。」

 1876年(明治9年)、北条県は合併して岡山県となる、これは吸収されたとみるべきだろう。1879年(明治12年)になると、最初の岡山県議会議員選挙が行われ、県議会が開かれる。
 ところが、この間に中央政府の支配の網の目は地方にも及んできていた。いわく、「富国強兵」、地方と人民はこの国家の崇高な目的のために粉骨砕身、努力を惜しむなと言う訳である。
 これに対して、美作・津山の立石岐(たていしちまた)、鏡野の中島衛(なかじままもる)らの豪農政治家は、備中・備前の代表と協力して、「県議会が開かれても、政府の規則や命令で何もできない。くらしを良くする為には、政治を変え、人民の国会を開くしかない」と国会開設請願の署名運動を起こす。この運動は、全国的なうねりを作り出して、日本の歴史を前へと進めていく。
 おりしも、西南戦争(1877~1878)という内乱に勝利した政府は、新たな権力基盤としてのブルジョア的な政治経済体制を築いていく。その過程で、「新生岡山」においても、以降、様々な政治・経済・文化を引っくるめての動きが活発化していくのであった。

(続く)

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◻️122『岡山の今昔』明治・大正・昭和時代(戦前)の工業の発展

2021-09-20 08:35:47 | Weblog
122『岡山の今昔』明治・大正・昭和時代(戦前)の工業の発展
 
 1909年(明治42年)から1913(大正2年)にかけての岡山県内の産物(生産物価額)の比率としては、農畜水産物比率が50%台を維持しており、人々の暮らしの維持にとって頼みの綱であったのがわかる。
 これを1912年(大正元年)分の岡山市の統計をみると、なかなかに興味深い。というのは、「岡山市の農産物価額が岡山県全体の0.3%しかなく郡市最下位の20位(岡山市の産業生産総価額の中でも1.4%しかない」(下野克己「第一次世界大戦前の岡山県の工業」)というのだ。
 一方、工産物価額(同年分)でいうと、当時の岡山市は同市の産物生産総価額の中で96.9%を占めて、他の郡市とは大いに異なる構成だ。ちなみに、この時点で郡市の中で工産物価額が全体の過半数を占める状態になっていたのは岡山市、浅口郡、都窪郡(つくぼぐん)、小田郡にかぎられるとのことであり、その頃の岡山県はまだ「工業立県」とは程遠い状況であったようである。

 
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それでは、当時の工業生産額の、主だったところでの産高構成は、どうなっていたのだろうか。

◎1913年(大正2年)の岡山県で生産された工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって1606万2000円である。そして2位は綿織物で814万1568円、3位は清酒で604万9438円。4位が花筵(はなむしろ)で、278万6749円。
 
○岡山市の工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって494万8000円である。そして2位は綿織物で294万8247円、3位が紡績絹糸で69万9763円。4位が菓子類で、50万1107円。
 
○児島郡(こじまぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって136万円、2位は繊維雑類で128万7786円、3位は綿織物で123万3392円。4位が人造肥料で、108万4247円。
 
○浅口郡(あさくちぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって351万2000円である。そして2位は綿織物で85万9573円、3位は清酒で61万9828円。4位が機械製麦粉で、31万2492円。
 
○都窪郡(つくぼぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が紡績綿糸であって357万7000円である。そして2位は花筵で100万5747円、3位は取引卸簿荷で50万762円。4位が畳表・蓙座で、45万2038円。
 
○小田郡(おだぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が綿織物であって160万4000円、2位は紡績綿糸で30万8955円、3位は取卸簿荷で27万7500円。
4位は麦稈真田であって、25万7538円。
 なお、麦稈真田(ばっかんさなだ、麦藁真田ともいう)とは、むぎわらを、真田紐(さなだひも)のように編んだもの。夏の帽子を作るのに用いる。
 
○上道郡(じょうどうぐん)の工業製品生産価額の順位としては、1位が綿織物であって117万1928円、2位は紡績綿糸で106万円、3位は醤油で1527万4632円。4位が西洋紙で、14万1900円。

(続く)

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