◻️138『岡山の今昔』2000~2010年代の岡山

2021-09-18 22:07:47 | Weblog
138『岡山の今昔』2000~2010年代の岡山
 
 続いて取り上げるのは、2000~2010年代の「岡山都市圏」の暮らし向きなのだが、前提としての20
世紀末までの産業構造とは、かなり異なっていく。すなわち、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が一段と進んでいく。
 今回も、それと相俟っての人口動態に少し触れておこう。具体的には、同都市圏の出生数(5年間)は、2000~2005年の56千人が2005~2010年には51千人に激減しているではないか(「国政調査」)。
 また、これとの関連での就業の状況は、2000年での全体数567.2千人のうち、第一次産業が6.4%の36.3万人、第二次産業が29.5%の167.2千人であるのに対し、第三次産業は64.1%の363.7千人とされる。それが2005年の就業総数553.7千人のうち、第一次産業は6.3%の35.0万人に、第二次産業が26.7%の148.0千人なのに対し、第三次産業は66.9%、370.7千人となっており、農業などとともに、製造業もウエイト及び就業者数を減らしている。
 さらに2010年になると、就業総数519.6千人のうち、第一次産業は5.06%の25.8万人に激減、第二次産業については25.2%の131.0千人と引き続き低落したのに比べ、第三次産業は69.8%、362.7千人とほぼ横ばいであり、農業などとともに、製造業のウエイト及び就業者数の低下が続いている。
 
 かくて、これだけの状況を1980年と2010年とで俯瞰的してみると、かかる30年の間に全体の就業者数は2.9%だけ減少したことになっている。次いでその中身でいうと、第一次産業の就業者数は62.7%、第二次産業のそれは25.2%に減った。それらに対し、第三次産業の就業者数は24.9%の上昇をしめしているのである。


(続く)

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◻️135『岡山の今昔』1970年代の岡山

2021-09-18 21:14:02 | Weblog
135『岡山の今昔』1970年代の岡山

 

 岡山県での1970年代といえば、どんな出来事があったのだろうか。大きなところでいうと、さしあたり、1970年(昭和45年)6月には、 岡山県消費生活センターが開設される。同年7月には、本四連絡橋公団が発足し、本州と四国の橋渡しの立案を行う。
 1971年(昭和46)年5月には、岡山県衛生会館が、同年8月になると岡山県立博物館がそれぞれ開館する。同年12月には、岡山県として自然保護条例を制定する。
 1972年(昭和47年)3 月には、山陽新幹線が、新大阪から岡山まで開通し、東京からの超特急列車の運航が始まる。1974年(昭和49年)12月には、あの水島石油コンビナートにおいて重油流出事故が発生する。

 その模様を生々しく伝える本としては、やはり写真と文との合わせわざでのものが、一番馴染みなのであろう、その文にはこうある。
 「1974年12月18日、倉敷市水島の三菱石油水島製油所で大量の重油流出事故が発生した。流出した重油の量は42,800キロリットルに上り、海に流れ出した量は10,000キロリットルで、その被害は東瀬戸内海一帯から紀伊水道におよんだ。瀬戸内海は魚の宝庫で年間の漁獲量は、全国沿岸漁業の約25%を占めていてが、この事故は特に養殖漁業に壊滅的打撃をあたえた。被害は漁民だけでなく鮮魚商をはじめ水産関連業者、つり舟、海水浴場、国立公園の景観などにもおよび、消費者にも大きな影響をあたえた。
 沿岸住民は事故後、正月も返上して連日家族ぐるみで清掃作業をおこなったが、つぎからつぎへと漂着する重油に追われていた(これより以降の写真撮影は伊藤昭一)」(宮本憲一監修「写真・絵画集成、日本の公害4、高度成長と公害」日本図書センター、1996)
 1975年(昭和50)年3月には、山陽新幹線の岡山~博多間が開通し、列車は関門海峡をくぐって九州へと行けるようになる。同年7 月には、岡山県立森林公園が開園となる。続く10月には、中国縦貫自動車道の吹田~落合間が開通し、大阪から2時間ばかりで岡山県に来れるようになる。1978年(昭和53年)10月には、瀬戸大橋の児島・坂出ルートが着工となる。

(続く)

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◻️136『岡山の今昔』1980年代の岡山

2021-09-18 18:46:44 | Weblog
◻️136『岡山の今昔』1980年代の岡山

 ここでは、1980年代の「岡山都市圏」(定義としては、全市と関連自治体)の暮らし向き(実生活)を、若干ながら観察してみよう。まずは、前提としての産業構造は、前段としての高度成長期(概ね1950年代半ば~概ね1960年代)から低成長への過渡期(概ね1970年代)の激動期を経て、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が見られる。
 それと相俟っては、人口動態に少し触れておこう。それというのも、同都市圏の出生数(年間)は、1980~1985年の70千人が1985~1990年には63千人と減少している。
 では、これとの関連での就業の状況は、どのように推移したのだろうか。これをみると、1980年には全体が534.9千人のうち、第一次産業が12.9%の69.2万人、第二次産業が32.8%の175.2千人であるのに対し、第三次産業は54.3%、290.5千人とされる。これが1985年までくると、全体が544.2千人のうち、第一次産業が11.4%の62.0万人、第二次産業が32.3%の175.8千人であるのに対し、第三次産業は56.3%、306.4千人とあり、製造業はほぼ横ばいで健闘するも、農業など第一次産業はウエイト及び就業者数の減少が止まらない。

 もう一つ、今度は県内を俯瞰的に見たら、どんな具合なのだろうか。視点を県内工業の重化学工業化比率に変えて見ると、1980~1985年の事業所数では19.8%から22.6%に、従業者数では43.1%から46.4%に伸びている
(下野克己「高度成長期の地域産業構造の変化ー岡山市と倉敷市の場合」岡山大学経済学会雑誌19(2)、1987に引用の統計から引用、以下この文節では同じ)。
 一方、出荷額等の比率は74.4%から73.2%と横ばいである。その中でも水島工業地帯の、同期間における岡山県工業における比率は、それぞれ3.8%から4.0%に、17.3%から15.3%に、58.2%から49.8%変化しており、中核的存在であり続けている。

(続く)
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◻️111『岡山の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、養蚕、伝統工芸など)

2021-09-18 06:45:39 | Weblog
111『岡山の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、養蚕、伝統工芸など)

 時代が明治に入って、内陸部では生糸の生産が盛んになっていく。こちらは、養蚕と製糸という二つの工程に別れる。ここでは、養蚕というのは、どのような工程をいうのか、かいつまんで紹介しておこう。
 かいこは、いうまでもなく、あの白っぽい虫のことである。その体の具合がよいのは、かいこの幼虫にとって暖かな住居が必要で、まずはボックス状の住みかを与えておいて、そこで新鮮な桑の葉を食べさせなければならない。季節は夏場、根気のいる作業が続けられる。
 そして大きく成長したところで、次の工程に移る。住居が必要で、碁盤の目のような木枠組みをしつらえた住みかを与えて、かいこが糸やを吐いて繭をつくるのを手助けする。
 通常の生糸としては、7~10個の繭から引き出した繭糸を より合わせて1本の生糸としていく。これを手繰りでいうと、そんな一つひとつの繭の扱いたるや、なかなかに神経を使うものであったろう。
 1、お湯で煮た繭を手ぼうきで 擦って糸口を出す。2、糸口が1本になったら多粒の繭を、より合わせをしないで1本づつ巻き上げる。3、糸を巻き上げてるうちに、繭の皮がだんだん薄くなって来る。4、その間は、糸どうしがくっつかないよう に乾燥しながら枠へ巻き取 るべし。5、糸を巻き続きて糸が重な り厚くなった状態、そうなったら、糸が崩れ ない様に、所々木綿糸で 網み結んだ後、枠から 取り外す。その全体の長さは、1個当たり、大きなものでは、約1500メートル位にもなるという。なお、2021年9月17日に放映されたNHKのBSプレミアム番組「風土記、東京の里山、多摩丘陵の夏を巡る旅」においても、その工程の一部が放映された)。

(続く)

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