458♦️♦️『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義革命時代の文化人(プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、マヤコフスキー、ショーロホフ)
プロコフィエフ(1891~1953)は、20世紀のソ連を代表する作曲家の一人なのだが、アメリカでも活躍した作曲家、ピアニストとしても活躍する
5歳にして最初のピアノ曲をつくったというから、周囲は驚いた
ことだろう。9歳で、これまたさいしのオペラの作曲を行うという、早熟であったのだろう。
13歳の時、ペテルブルグ音楽院に入学し、作曲を専攻する。そのうちにピアノと指揮も学ぶ。
1917年のロシア革命が起こると、アメリカに亡命する(途中、日本にも立ち寄る)。ピアニストとしても活躍するものの、のちに帰国する。
作風は、「モダニズムと叙情豊か」というのが、大方の批評のようだ。代表作には、歌劇「戦争と平和」、バレエ音楽「放蕩息子」「ロメオとジュリエット」組曲「エジプトの夜」交響曲「交響曲第7番嬰ハ短調青春」「ピアノ協奏曲第3番」「交響的物語」としての「ピーターとおおかみ」など。
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ショスタコーヴィチ(1906〜1975)は、クラシックの作曲家にして、ピアニストとしても名を馳せる。ソビエト連邦時代のロシアのサンクトペテルブルクの生まれ。幼い頃から、ピアニストだった母から音楽の手ほどきを受ける。
やがてペトログラード音楽院に入学する。19歳になっての卒業作品としてつくられた「交響曲第1番 ヘ短調」は、「天才現(あらわ)る」の高い評価を得る。国内のみならずヨーロッパ各地でも演奏され、一躍広く世に知られるようになる。
その後,オペラ「鼻」などの劇音楽や映画音楽を生み出していく。そして、オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の公演により、大成功を博す。
ところが,この作品を全面的に否定する評論が出される。こうなれば、仕方がなく、彼は作品の発表を休止する。
これには舞台裏があるようで、スターリンは「ショスタコーヴィチは役に立たないオペラではなく、重要な映画音楽を書かねばならない」(千葉潤「激情のショスタコーヴィチ、ショスタコーヴィチ研究の新局面」、「音楽の友」2016年6月号より引用)と述べたと伝わる。
これには舞台裏があるようで、スターリンは「ショスタコーヴィチは役に立たないオペラではなく、重要な映画音楽を書かねばならない」(千葉潤「激情のショスタコーヴィチ、ショスタコーヴィチ研究の新局面」、「音楽の友」2016年6月号より引用)と述べたと伝わる。
これに、当時、映画問題に関してスターリンの諮問役を務めていたシュミャッキーが「ショスタコーヴィチも多くの作曲家と同様に良いリアリスティックな音楽を書くことができますが、それには彼が管理されているのが条件です」と応じると、スターリンは「それが難点なのだ。彼らは管理されていない。(中略)どうしてこんなにも音楽では左翼主義が繁茂(はんも)しているのか。
答えは一つ。誰一人、作曲家や指揮者に対して、明瞭な大衆芸術を要求していないからだ」(同、以上はシュミャッキーの速記録)とし、専門的な音楽形式をどうのこうのというよりは、彼らを政権の思う実践的分野に動員することの方が大事と、スターリンは考えていたようである。
答えは一つ。誰一人、作曲家や指揮者に対して、明瞭な大衆芸術を要求していないからだ」(同、以上はシュミャッキーの速記録)とし、専門的な音楽形式をどうのこうのというよりは、彼らを政権の思う実践的分野に動員することの方が大事と、スターリンは考えていたようである。
なお、これを紹介する千葉潤氏の次の指摘は、新たなスターリン像としても興味深い。
「スターリン独裁といえば、一枚岩的で抑圧的な全体主義というイメージを思い浮かべるが、近年のソ連研究の成果は様々な方面からこの通説に強力な疑義を突き付けている。ロシア人研究者レオニード・マクシメンコフによる先駆的なスターリン文化研究は、アーカイヴに保存された政治的資料の広範かつ緻密な読解から、ショスタコーヴィチの創作活動を揺るがした二つの批判事件の影で作用していた真の動因とその帰結について新たな解釈を提示する。」(同)
これを受けてか、政府は、「社会主義リアリズム」(形式に、おいて民族的、内容において社会主義的)な作風を彼に求め、ショスタコーヴィチもこれに従う。
その後、満を持して交響曲第5番ニ短調(通称は「革命」)の初演にふみきる。この交響曲は大きな成功を収める。これによってショスタコーヴィチの名誉は回復される。
その後、満を持して交響曲第5番ニ短調(通称は「革命」)の初演にふみきる。この交響曲は大きな成功を収める。これによってショスタコーヴィチの名誉は回復される。
このようにして、ショスタコーヴィチは,ときに当局による批判を浴びながらも、創作の手を休めなかっのは、偉大だ。また、教育者としても、彼のもとからは多くの作曲家が巣立っているとのこと。
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マヤコフスキー(1893~1930)は、劇的な人生を生きたソ連の詩人だ。ジョージア(グルジア)の林務官の子として生まれる。
父の死後1906年にモスクワに出て、ボリシェビキの非合法活動に加わる。三度逮捕され、監視つきで釈放されたのち画家を志す。美術学校で未来派の画家・詩人ブルリュークと知り合い詩に転じる。
1913年には、本人を見立てての、詩人の悲しみと出発を描く詩劇「ウラジーミル・マヤコフスキー」を、1915年には長詩「ズボンをはいた雲」を、1916年には「背骨のフルート」を、これまた幻想的な発表する。これらでは、第一次世界大戦の現実を前に、幻想的なユートピアを奏でたともいえるだろうか。
1917年にもなると、ロシアは大いなる転換点に近づく。救世主的詩人の登場を歌う「戦争と世界」、「人間」を発表し、労働者・勤労階級からする前衛的な作風になる。内戦の戦況を伝えるプラカードを多数制作したとも。
父の死後1906年にモスクワに出て、ボリシェビキの非合法活動に加わる。三度逮捕され、監視つきで釈放されたのち画家を志す。美術学校で未来派の画家・詩人ブルリュークと知り合い詩に転じる。
1913年には、本人を見立てての、詩人の悲しみと出発を描く詩劇「ウラジーミル・マヤコフスキー」を、1915年には長詩「ズボンをはいた雲」を、1916年には「背骨のフルート」を、これまた幻想的な発表する。これらでは、第一次世界大戦の現実を前に、幻想的なユートピアを奏でたともいえるだろうか。
1917年にもなると、ロシアは大いなる転換点に近づく。救世主的詩人の登場を歌う「戦争と世界」、「人間」を発表し、労働者・勤労階級からする前衛的な作風になる。内戦の戦況を伝えるプラカードを多数制作したとも。
1924年のレーニンの早すぎる死去をうけ、長篇哀歌「ヴラジーミル・イリイチ・レーニン」を捧ぐ。その中で彼が、レーニンを類い稀な英雄として祭り上げるのではなく、そのひたむきな人間性を示そうとしたのは、間違いあるまい。
1925年には、世界一周の旅に出るも、パリのホテルで旅費を失い、北米を旅し帰国する。だが、旅日記を記して、意気軒昂なところを見せている。
その後のスターリン政権に失望を深め、「南京虫」や「風呂」で、その独裁的な姿勢を風刺する。
1930年4月には、モスクワ市内の仕事部屋で謎の死を遂げる。一説には、自殺したのだという。翌日のプラウダ紙において、「これでいわゆる一巻の終り/愛のボートは粉々だ、くらしと正面衝突して」との「遺書」が掲載されたものの、判然としない。
(続く)
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